リベラル勢力総結集で政権交代!(369)
《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《【真相-大逆事件】金子文子と朴烈の行動は大逆予備罪に当たるか:反逆思想を遺した「死の勝利」/海渡 雄一(弁護士)》
金子文子と朴烈(パクヨル)は、1926年3月25日に死刑判決を受けた。
判決では虚無主義の思想を抱き、意気投合し、23年秋に予定されていた皇太子の婚儀の際に、その行列に爆弾を投げることを企図し、2人の人物から爆弾を入手しようと依頼し、約諾を得たとされた。これらが改正前の刑法73条の大逆予備罪、爆発物取締罰則3条の爆発物の注文に当たるとされたのである。
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<文子の苦難の半生>
金子文子は、『獄中手記 何が私をこうさせたか』、膨大な予審調書、予審判事に宛てた手紙、大審院法廷で読み上げられた「二十六日夜半」等の手記など訴訟関係記録中に、自らのニヒリズム思想を結晶させた。文子を語るときに忘れてはならないことは、彼女が無籍者として出生(03年)したことである。無籍を理由に学校に通えない時期があったという辛い経験は、文子の人生に大きな刻印を遺している。父方の祖母、佐伯ムツの娘夫妻の養子となり朝鮮に渡る。暫くして、文子は奴隷同然の酷使を受け、17年には自殺を図っている。
19年、16歳で朝鮮から帰国するが、その直前に「三一独立運動」に朝鮮の民衆が立ち上がるのを目撃し、「他人の事とは思い得ぬほどの間隙が胸に湧いた」と述べている。17歳で医者になろうと志して上京し、新聞の夕刊売り、粉石鹸の夜店、砂糖屋の女中、社会主義者の印刷屋の植字工等で生計を立てながら、正則英語学校や研数学館に通い、苦学した。
<朴烈との出会い>
文子は、キリスト教の救世軍や社会主義者らとも交わったが、その実態に幻滅し、虚無主義・ニヒリズムに惹かれていく。社会主義者達が集う日比谷の「岩崎おでん屋」で働いていた文子は22年2月に「朝鮮青年」に掲載されていた朴烈の「犬ころ」という詩に心を奪われる。映画は、2人が出会った頃から描かれるが、史実を忠実に追っている。
5月には同志として同棲を始める。2人の「同志として同棲する」という誓約は、完全な両性の平等を目指したもので、今日のフェミニズムの観点からも興味深い。
2人は、23年4月に不逞社を設立し、事件までに4回の例会がもたれるが、アナーキストの画家・望月桂、民衆芸術論者・加藤一夫を招いての講演、投獄されていた中西伊之助の出獄歓迎会等が行なわれ、とても天皇や皇太子の暗殺等を議論するような場ではなかった。
文子の思想は全ての権力を否認し、人類の絶滅を期すという凄まじいニヒリズムである(第3回予審訊問調書)。しかし捜査の後半には、「自分は生を呪いすぎた」と反省し、反逆は人間がすることの中でただ一つの善であり、美であるとも述べている。
<関東大震災と拘束>
23年9月1日、関東大震災が発災し、多くの朝鮮・中国人が虐殺された。
被抑圧民族の抵抗を恐怖するパニックが、戒厳令が敷かれたことによって、戦時と同様の暴力が許されるとの差別意識を生み出した。9月3日以降に文子と朴烈、そして不逞社の者らが世田谷警察署に検束され、10月20日は、16人が治安警察法違反(秘密結社の結成)という容疑で起訴された。文子らの家には不逞社の看板も掛けられていたのであるから、秘密結社は明らかに言いがかりである。
<爆弾の入手について>
24年2月4日、第6回予審調書で、朴烈は爆弾の入手以来の経緯を供述した。
これは、他の不逞社の同志が全く無関係であることを証明して、累を及ばさないようにするためであった。捜査過程には朴烈が爆弾の入手をもちかけたとされる4人の名前が登場するが、起訴と判決の対象とされたのは金翰(キムハン)と金重漢(キムジュンハン)の2人である。金翰は、上海の朝鮮仮政府の秘書局長をし、その後、仮政府を離れ、「無産者同盟会」を作っていた。22年9月、11月に、朴は2度に亘り金と会っているが、2回目の面談で朴が、金に爆弾の入手を依頼したとされる(判決の認定)。
文子は、朴が金に暗号の手紙を女性独立活動家である李小紅を介して送っていたことは知っていたようであるが、その手紙の内容は、雑誌の宣伝依頼だけである。
11月以降は、朴は手紙を書いてはおらず、金は義烈団の事件に連座して逮捕され、約束は履行不能となった。文子は、詳細は知らなかったと思われるが、この件についての関与は最後まで否定していない。次に金重漢である。金は京城普通高等学校に在学中無政府主義に惹かれ、21歳で上京し、朴を訪ね不逞社に加入した。朴は23年5月20日に金を訪ね「爆弾を入手したい」と依頼した。金は「朝鮮人は入国時の検査が厳しいので難しい」と答えた。
朴烈は「それでは、上海の独立党との連絡を取ってほしい」と述べ、金は「それ位なら、やってあげよう」と答えたというのである。この場で、爆弾の輸入には「1000円か2000円」かかるという話が金から出て、朴には、そんな費用が用意できないことは明らかだった。
金重漢は、その頃、不逞社の会合に出ていた新山初代に一目惚れし、2人は激しい恋に落ちた。新山は文子が通っていた学校で知り合った、生涯にただ1人得た女友達である。
結核を病み、余命は長くないと自覚し、文子にニヒリズムの本を貸したのも彼女である。
しかし朴は、新山に熱を上げている金を見て、その人物に不安を抱き、金に対する爆弾入手の依頼を断ることにした。
<爆発物注文は不成立>
ところが金と初代は、この事を恨み、8月11日に開かれた不逞社の例会で、金が朴を激しく罵り、短刀で畳を切ったという。文子は、この場で初めて朴が金に爆弾の入手を依頼していたことを知ったのである。翌朝、文子は帰宅する新山を駅まで見送る際に、朴が口先だけの男ではないという説明のために、過去の金翰との暗号手紙のやりとりを話してしまい、このことが事件発覚の原因となった。新山は逮捕後結核を悪化させ11月に死亡しているが、文子は、新山に対して、恨みがましいことは一言も述べていない。
朴と文子は「爆発物の注文」という罪に問われたが、入手が実現する遥か前の段階で失敗しており、注文は成立しないのではないか。金重漢への依頼は朴が1人でやったことであり、文子には関係がなかった。文子は、予審調書の中では、金への依頼は2人で相談した上で行なったことだと述べていたが、判決直前の本人の陳述(「二十六日夜半」)の中で真実を明らかにした。しかし判決では、この供述は無視されている。
映画の最大の見せ場である文子の大審院における演説は事実である。「彼における全ての過失と全ての欠点とを超えて、私は朴を愛する」という言葉は、愛の言葉であると同時に、朴が金重漢に爆弾の入手を依頼するという軽はずみな過ちをしたために、自分は刑に処せられるのだという、事件の真実を伝えてもいるのである。
<「怪写真」の真相とは>
朴と文子が死刑判決を受けたのは、大逆予備罪に問われたからである。改正前の刑法第73条は、天皇等に対して危害を加え、加えようとした者は死刑と定めていた。
共謀罪が定められていた犯罪は、内乱罪や爆発物使用等ごく一部の犯罪に限られ、殺人や強盗、放火にも共謀罪は定められていなかった。大逆罪は予備段階でも刑は死刑しかない大罪であるが、その大逆罪にすら共謀罪はなかった。このことは、2017年に成立した700を超える共謀罪規定の異常さを改めて確認させてくれる。爆発物が入手できたときに、何のために使う目的だったのか、明確な証拠は何も残されていない。金重漢と金翰も明確な使途は告げられていないと述べている。金重漢は朴から「その年の秋までに入手したい」と言われたと言っている。文子は、捜査の早い段階からその年の秋に皇太子の結婚式があり、その時に使う予定であったと述べていた。しかし朴烈は、このような計画を長く否定していた。
爆弾は、いつ入手できるか分からないし、入手できたら直ぐに使わないと無駄になる。メーデーの時でも、議会や警視庁や宮城に投げても良いと対象を特定しなかった。
2人の供述の食い違いは容易に解消せず、朴烈が天皇、皇太子が対象であったと認めたのは25年5月2日であった。この日、立松判事は愛用していたカメラで2人の記念写真を撮った。
これが、朴が文子を抱いている有名な「怪写真」である。この一連の経過をみると、立松判事が有利な証言を朴から引き出すために、2人を懐柔するために引き合わせたようにみえる。しかし朴は、このまま社会に戻ることができないなら、天皇あるいは皇太子の暗殺を計画したとして、朝鮮民族の英雄として名を残せると考えた節がある。
文子は、早くから朴と共に死ぬことを考えていた。不逞社の同志を救い、自分達の生きた証を遺したいという2人の意思と、大逆事件の捜査を完結したいという立松判事の野心が合致して、このような作り話ができあがったように思われる。
<恩赦と文子の死>
26年3月25日、2人に冒頭に述べた内容の死刑判決が言い渡された。このとき、法廷で文子が「万歳」と叫んだのは映画が描くとおりだ。この万歳は三一独立運動の時に朝鮮の民衆が叫んだ「万歳」と通じている。しかし明らかな冤罪によって死刑判決を受けた文子が、「万歳」と叫ぶことができたのは何故だろうか。文子が自らの死、それも死刑を覚悟していたことは、判決直前まで書き綴られていた「手記の後に」が「間もなく私は、この世から私の存在をかき消されるであろう。しかし一切の現象は現象としては滅しても永遠の実在の中に存続するものと私は思っている。」という言葉で締め括られている事からも明らかである。
朴と文子は、4月5日に個別恩赦によって無期懲役刑に減刑された。しかし捜査を担当した立松判事ら自身が証拠の薄弱さを認めていたこと、死刑を執行したときの朝鮮の民衆の憤激を恐れた事も影響しているだろう。文子は、減刑の恩赦状を、その場で破り捨てている。
そして約3カ月後の7月23日、栃木刑務所で自らなった麻縄で縊死したとされる。
遺言がない点など死因に疑問は残っているが自殺したことは間違いないと思われる。
<思想史的な事件>
朴のやったことは、爆弾の入手を幾人かの人物と相談しただけである。爆発物取締罰則の共謀罪に当たるかどうかも、ぎりぎりの事件だったといえるだろう。
しかし刑事事件としてではなく思想史的な事件としてみれば、金子文子の自白は、自らの反逆思想に殉じたものだと評価することができるだろう。
このような劇的な形で、自らの思想を遺し「永遠の実在の中に存続する」ことができたのであるから、文子の「死の勝利」であったといえるかもしれない。(週刊金曜日)
【管理者】管理者-民守は、とりわけ明治維新以降の「日本人の思想哲学・メンタリティの変遷」に強い関心を持っており、自らの研究テーマである。その意味で、この大逆事件は、明治維新以降における「(思想哲学上の)初期社会主義思想」の起源的事件であり、この思想弾圧事件以降、(思想哲学上の)社会主義思想は冬の時代を迎えるが、その後の大正デモクラシーの中で、引き継がれる。そこで大逆事件に関する動画を紹介する。
【大逆事件:https://youtu.be/nPSt_RBUqVk】
【20130124 UPLAN 102年後に大逆事件を問う:https://youtu.be/KqoTq5xFBqc】
【講演「大逆事件 百年後の今」:https://youtu.be/S6OP5dGsNik】等々。
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