リベラル勢力総結集で政権交代!(363)
《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《【平和への祈り】草むらで息絶えた坊や:広島で原爆受けた軍医の手記》
今年の5月初旬、下関市田中町の福田正義記念館に井上正代氏(89歳)が訪れ、74年前の広島で軍医として働いていた兄・田口正秋氏(96歳)の手記を託した。井上氏は、田中絹代記念館の催しに参加した帰りに、たまたま見つけた福田正義記念館の3階に展示してある原爆写真をじっくりと見て帰り、後日、再び記念館を訪れて手記を託したのだった。
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井上氏は大分県安心院の農家の10人兄弟(男6人、女4人)の末っ子として育った。
田舎だったことからラジオの情報で戦争を知るだけで、空襲の経験や食料難も味わっていないという。一方、6人の兄たちは全員各地に出征したが一人も戦死することなく生きて帰ってきた。井上氏は「両親は農家で人の2倍ぐらい働き子どもを育ててくれ愛情を注いでくれた。私は一番末っ子でどうしようもなくやんちゃだった。そんな私を陰になり日向になって支え続けてくれたのが7つ年上の正秋兄で、兄の深い愛情や優しさを受けてきて今の私がある。家族の前で原爆について語りたがらなかった兄の手記を初めて読んだとき、“とっさに九州の妹を想いだした”という記述を見て、当時の兄の心に触れて胸にぐっと込み上げてくるものがあった。本当に辛い思いをした人は語りたがらない。実際の経験と机上の空論では大きな隔たりがある。原爆の惨状を経験した兄の思いを多くの人に知ってもらいたい」と語る。
正秋氏は、福岡県で医師をしており昨年まで現役で診察にあたっていたが、今は一線を退いている。被爆当時、正秋氏は21歳。原爆投下(広島)の時、広島の比治山の根元にある兵器補給廠(爆心地から1.5キロ)の医務課に勤務していたという。当日午前8時過ぎに食堂で朝食をとりかけた時に被爆した。被爆直後から救急作業を始め同日日暮れまでに約2000人以上を収容したという。以下に手記を紹介する。
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炊き出しの夕食を口にしたのが午後10時頃であったろうか、食事もそこそこに重症者の再治療、患者の廻診に私達は夜を徹した。明けて7日の朝、水を求めて這い出したか、ばけもののように顔を焼かれたセーラー服の女の子が一人水道口の附近で冷たく固くなっているのを見た。私はとっさに九州の妹を想い出した。痛さとむし暑さと苦しさのために収容舎を這い出したであろう叢の中の母親の死体に乳児が乳の出ない乳房をまさぐり泣く姿が胸をつまらせた。溝に延びた老人の冷たく硬い手甲には蚊が止まっていたが、皮が剥げて、ふくれ上った死顔は苦痛に曲んでいた。母の屍体を、名ばかりのむしろ敷きの仮安置所に移すとき泣きじゃくって取りすがる子供もあった。こんなこともあった。
収容をはじめて間もなく、手を治療して呉れと何度も催促しつゝ腰にまつわる4才くらいの男の子は、繃帯した手を三角巾様のもので首に吊してあった。私は多忙なのと、既に手当済みらしいのとで良い加減にあしらっていた。それでも何時間か待たせた末、漸く血液のにじんだ繃帯を除いて診た。途端、私はアッと思わず叫んだ。此の子は手首から先が切れて無いのだ。誰かが応急的に繃帯だけは巻いてくれたのだろう。兎に角あわてゝ止血し、あらためて顔をのぞいて見た。そこは蒼白く可愛く整った顔に、無邪気な瞳が満足げであった。
母は洗濯しているそうである。恐らくそのまゝ親子は、はぐれてしまったのだろう。
父は『シマネヨ』と答えるところでは、召集されて島根の部隊に入って留守なのだろう。
家は近くの町であるらしいので不安ではあったがそのまま帰した。
翌日S准尉が、衛門の前の叢で子供が死んでいると云うので行った。嗚呼、何ということだ。昨日のあの坊やではないか!あれからどこをどうして此処まで来たのか、苦しかっただろう、淋しかっただろう。母の名を、そして父の名を何度か、この草原で、薄れて行く意識の中で呼びつづけたことであろう。その屍は無遠慮な夜露にまで打たれている。
可愛い昨日のあのつぶらな目を静かにつむって…。昨日、帰さねばよかった。
もっと早く診てやればよかった。と思うと不憫で一層胸をかきむしられるようだった。
はふり落ちる涙をぬぐいもやらず、私は天を仰いで大きく溜息をついた。
このように次々と書き上げれば胸のいたむものばかりで、とても書きつづけ得ない。
私達の収容した負傷者は重症と幼児は、3日後に他の指定収容所に送り、軽症の大半は帰宅させるか集団転地させた。そしてほっと一息ついた頃、私にも原子病の症状が出て来た。
40度前後の持続発熱と皮下点状出血、赤痢様の血便の連続、物凄い脱力感、それに間もなく脱毛がはじまった。なにがなんだか判らない中に、なかなか止らない歯齦出血が来た時、私はいよいよ最後かと思い、この未経験の苦しい症状に殆んど生きる望みも失せてしまいそうだった。然し皆の手厚い看護で兎に角多数の原子病死亡者の列に加えられることもなく、こうして生きのびていることを思うとき、何か私は、まだ此の世の中になさねばならぬことが残っているような気がしてならないのである。健康を取り戻して後日、私はあの惨禍の状況を想い浮べ乍ら比治山を散歩したことがある。林の中の数ヶ所に、それは何拾何百とも知れない学生靴、地下足袋、草履など山と集めたゴミ集積物を見た。
この丘を市街地側より雲霞の如く、おびただしい負傷した避難民の群が恐怖に怯えながら履物を脱ぎ捨てて丘の反対側へと逃げのびて行ったのであろうことを想い感無量であった。
又、山の松の葉や附近の池の蓮の葉をよく見ると、茶碗大より指頭大の様々な大きさの茶褐色に焼けこげた斑点を多数一面に発見し、このような熱線が全般にこの附近では空から降りそそいだであろうことを思い愕然としたことであった。私達の居た場所ですら、このような状況であったのだから、まして市街中心部は、それこそ想像に絶する惨状であったことは容易に考えられる。広島の当時の人口は30万人、その中原爆の直接被害で数万人が死亡し更に後の原子病で幾万人かの人が斃れ、結局全人口の約半数がこの呪うべき爆弾の犠牲になったと聞いている。而も尚原子病の恐怖は数十年の今日に至るも被爆者の生命をおびやかしているのである。原爆の惨状は全く地獄絵図そのものであり、私ごとき未熟な筆の到底及ぶところではないが、私達は現実に自分の子が、あなたの孫が、そして、また親や兄妹が上記のような災害に遭うことをジッと冥想して想像した時、本当に身の毛のよだつような、たまらない気持ちにならない人が一人として居るだろうか。
戦争とは正にこうした惨い事の連続であり絶対に起きてはならないことなのである。
私は戦争を憎む。更にこのようなものを創り爆発させることを命じた指導者も最も憎む。
『原爆は戦争を終結させるためのやむを得ぬ手段であった』などと、もっともらしく云った人は、この惨状の事実を知ろうともしない者ではなかろうか。そしていつかは、めぐりめぐって自分達の頭上にも同じことが起るであろうことを考えないのだろうか、私は率直に『済まなかった』と心の底から詫びてもらいたいのである。また同じ日本人であり乍ら原水禁とか、原水協とかに別れて被爆者そっちのけで毎夏いがみ合っている者達の気持が判らない。A国の原爆はよいがB国のは絶対に悪いなども、真剣に人類のことを考えての発言とは思えない。広島型の1000倍もの威力の水爆が出来たそうで、日本などこの2~3発で、全滅であろうし、幾ら数千万円かけてセルターを作って地下にかくれたとしても、せいぜい何日か他の人より長く生きる位のものであろう。私達は一人一人の力は弱くても、お互いが手を取り合って地道に粘り強く原爆反対の輪を少しずつでも拡げて行くよう努力をつづけるべきだと考えます。でないとこれら悲しくいたましい犠牲になられた方たちは浮かばれません。
終わりに、原爆の犠牲になられた方々のご冥福を静かにお祈りします。
:昭和59年8月28日記(基本文献-長周新聞)
《【メディアの忖度】甘利明の復権にメディアは完黙》
11日の内閣改造・自民党役員人事で、安倍(汚濁)首相が甘利明選対委員長を党の要職で処遇するという。「税制調査会長」への起用案が挙がっているが、甘利は疑惑から逃げまくる「疑惑の大将」。そんな人物に平気で要職を担わせ、着々と復権させるとは、いい度胸だ。3年前に発覚した甘利の“口利きワイロ”疑惑を振り返ると―。
経済再生相だった2013年、URとの補償交渉を巡り千葉の建設会社から口利きを依頼され、当時の秘書2人が現金500万円を受領。甘利自身も大臣室等で100万円を受け取った。
16年1月に週刊文春が金銭を渡した人物とのツーショット写真付きで疑惑を報じると、甘利氏は閣僚を辞任。その表明会見で「調査結果をしかるべきタイミングで公表する」としながら、「仮病-睡眠障害」を理由にトンズラ。以後、公の場で「調査結果」を一度たりとも公表せず現在に至る。はたして睡眠障害は治ったのか。それすらも説明しないスネ傷甘利氏が要職に就けるのも、安倍(汚濁)首相の“お気に入り”との理由しか見当たらない。
ところが、メディアは甘利の復権に完黙。甘利は11時間かけてでも説明責任を果たせと迫るべきだ。「メディアは追及の矛先を間違えています。人のふり見て我がふり直せのはずが、人のふり見て叩いてばかり。これだけ他国の閣僚人事に口を挟むメディアは世界にも例がない。安倍政権の改造人事の方が日本に与える影響は遥かに大きいのです。甘利の復権が許されるのは、メディアがチェック機能を放棄しているから。とことん堕落しています」(元NHK政治部記者で評論家の川崎泰資氏)メディアの追及がゆるゆるだから、甘利は余裕シャクシャク。8日日曜の昼下がりには自身のツイッターにタピオカミルクティーを片手にシュークリームを頬張る写真を投稿。〈今、ダイエット中、今日のお昼はざる蕎麦だけでガマン!3時のおやつはタピオカミルクティとシュークリーム!(ダメじゃん)〉と“キャラ文字”入りでノンキに書き込んでいた。メディアは疑惑の「タピオカ男」の逃げ切りを許してはいけない。(参考文献-日刊ゲンダイ/文責:民守 正義)
《【守秘義務違反】内閣法制局幹部が法案漏洩-製薬会社役員に》
法案の審査等に当たる内閣法制局の幹部職員が2016年、公表前の臨床研究法案の条文を大阪市内の中堅製薬会社に漏らし、訓告処分を受けていた。この職員は厚生労働省出身で、省内の同期だった製薬会社役員にメールで伝えていた。厚労省の内部調査に職員は事実を認めたが、同省は発表していなかった。この職員は1992年に旧厚生省に採用され、法案を外部に漏らした16年1月は内閣法制局に参事官として出向中だった。
現在は厚労省の研究機関にいる。臨床研究法は、製薬大手ノバルティスファーマによる降圧剤「バルサルタン」(商品名ディオバン)の臨床研究データ改竄事件を受け、産学の癒着を防ぐため製薬会社に臨床試験をする研究機関への資金提供の公開を義務化した。
16年5月に法案が国会提出され、17年4月に成立した。関係者によると、職員は知人の厚労省職員から非公表の法案を取り寄せ、製薬会社役員にメールで送った。
厚労省の調査に事実を認め「賛否が分かれている法案について有識者の意見を聞くためだった。守秘義務の対象との認識がなく、金銭の授受はなかった」と釈明。
他にも、障害者総合支援法についても改正法案の条文を事前に関係者に漏らしていたことを認めた。毎日新聞の取材には「答えられない」と拒否した。職員が漏らした臨床研究法案と国会提出時の法案には違いがあり、漏洩時の条文には、製薬会社に臨床研究に対する倫理的な責任を課す等の規定もあった。この部分は、国会提出時には削除された。
厚労省は16年12月、守秘義務に反したとして職員を訓告としたが、国家公務員法に基づく処分より軽いため、公表基準に達していないと判断していた。秘密を故意に漏らし公務の運営に重大な支障を生じさせた場合は免職か停職に当たるが、関係者によると、同省は「条文案は当時既に公表されていた報告書を基にしたもの。審査過程で規制が強化された部分もあり、結果的に公務運営に支障はなかった」と判断した。
<訓告で十分か疑問>
公務員制度に詳しい藤田由紀子・学習院大教授(行政学)の話:内閣法制局の職員が特定の利害関係者に便宜を図るのは、法案審査の公正性の観点から問題だ。公務員と利害関係者の規律を正すという効果を考えると、原則非公開の訓告で十分かどうかは疑問が残る。
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《ブログ「リベラル広場」では次の事業も行っています。》
①職場(仕事)における労働・人権相談(ハラスメント・メンタルヘルス等、含む)
*大阪府労働相談経験10年以上。*産業カウンセラー資格、有り。
*但しメンタルヘルスの場合、もし心療内科等に受診されている場合、または、その受診の方が望ましい場合は、当該医師の指導を優先し、カウンセリングを断る事もありますので予めご了承ください。【費用:交通費等、実費+α(委細相談)】
②「企業内人権研修」等の講師派遣も行います。【但し有料(2万円程度-委細相談)】
③採用コンサルタント。
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(民守 正義)
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