リベラル勢力総結集で政権交代!(310)

《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》

《【戦災孤児】戦争終わっていない!74年の苦しみ発信:救済求め闘う孤児達》

 梅雨の晴れ間、東京の国会前。「戦争の後始末は済んでいない!」と書かれた横断幕を持ち、河合節子さん(80)=千葉市=が訴えた。「空襲被害者が放置されたままです。救済法を求めています」1945年の東京大空襲で肉親を奪われた河合さんは、今年4月上旬から6月下旬まで計10回、仲間と共に訴えた。行き交う人達に全国の空襲被害が書かれたリーフレットを渡そうと手を伸ばすが、足を止める人は疎らだ。第二次世界大戦で死亡した日本人は、民間人と軍人を合わせておよそ310万人。日本政府は戦後、元軍人・軍属に対して累計60兆円を援護する一方で、「国と雇用関係がなかった」として民間人への援護を拒否してきた。
 河合さんらは2007年、国に謝罪と補償を求め提訴したが、東京地裁、高裁とも敗訴。
 最高裁も13年、上告を棄却し敗訴が確定した。判決は、原告達の被害を認定した上で「立法による解決」を促した。この判決を一つの支えに、河合さんらは国会議員に救済立法を訴えている。131人いた原告は次々と亡くなり、あるいは病に伏した。
 それでも身を削るように闘い続ける人達がいる。原告団の副団長だった金田茉莉さん(84)=埼玉県蕨市=もその一人だ。東京大空襲で家族を殺され、一人ぼっちになった。
 戦後長く孤児達が体験を語らない中で、30年以上前から先駆的に聞き取りを続け、実態を発信してきた。その業績から今年3月、第53回吉川英治文化賞に選ばれた。
 現在も集大成となる著書の執筆を続ける。「何としても孤児達の歴史を残したい」一心だ。戦闘は74年前に終わった。しかし今も戦争被害に苦しむ人達。
 金田さんらの姿を通して「未完の戦争」の実態を伝えたい。蕨市の静かな住宅街。
 6月、金田さんは自宅の居間で、穏やかに迎えてくれた。子供の頃の栄養失調のためか右目の視力を失い、長年酷使した左目も衰えている。30年に亙り聞き取ったり、集めたりした資料と、虫眼鏡があった。活字を拡大して確認し、著述を続けている。「母達と一緒に死んだ方がよかったと思っていました」。戦争孤児として生きた戦後を話し出すと、表情が引き締まった。1935年、東京・浅草で生まれた。3歳の頃、父が病気で亡くなり、母が商売を継いだ。45年3月10日、米軍の爆撃機B29が東京上空に襲来し、焼夷弾を投下。
死者はおよそ10万人に上り、金田さんの母と姉、妹も亡くなった。宮城県に集団疎開していた金田さんだけが助かった。9歳だった。親戚の間を転々とした。
戦後、身を寄せた遠方の親戚の家は夫婦と子供7人の大家族。子供達から「早く出て行け」「野良犬」等と言われた。何度も殴られた。親戚宅も空襲の被害を受けていた。
子だくさんでもあり、不安はつきなかったのだろう。そうした思いを金田さんにぶつけたのだろうか。何度も自死を考えたが、祖母から言われた「自殺すると天国にいるお母さんに会えなくなる」という言葉に思いを留まった。早朝に食事の用意をし、学校から帰った後も家事に追われた。最も辛かったのは中学2年の時。疲労から体調が悪化し、起き上がれなくなった。「怠け者」と激しく詰られた。病院にいけず、結核だと分かったのは大分、時間がたった後だった。母親はお金を残していたが、その事を伝えられる事はなかった。事情を知る人が働きかけ、高校に進学できる事になった。卒業後に上京。
夫婦共働きの家のお手伝いとして働いた。少しでもいい条件を求めて転職を繰り返した。
経験から孤児は採用されないと分かっていたので「親はいます」とウソをついた。
23歳の頃、右目が殆ど見えなくなった。「成長期の栄養不足のためでしょう。左目も失明するかもしれません」。医師からそう言われた。25歳で結婚し、2人の子供に恵まれた。
 しかし心の傷は癒えなかった。「怠け者!横着者!」。結核で臥せっていた時に浴びせられた言葉が蘇り、体が震えた。家族で車に乗っている時、心臓が不意に高鳴った。

「交通事故で、子供だけが残されたら、どうなるだろう」他の孤児と同様、自らも戦争孤児である事を隠してきた。「そうだと分かれば、偏見や侮蔑の目でみられますから」
 84年、49歳の時に転機が訪れる。胆嚢に詰まった胆石を取り除く手術を受けた後、医師から言われた言葉に衝撃を受けた。「一日遅かったら胆嚢が破裂して、命が無かったかもしれません」。40年間、孤児としての経験は思い出さないように生きてきた。
 死を身近に感じ、「命のある内に、戦争孤児の記録を残さなければ」と思い立った。
 戦争体験者らを訪ね歩いて話を聞き、資料収集に力を入れた。その中で、空襲で亡くなった人達が身元不明のまま、公園や空地等に土葬されたりした事を知る。「死者達の無念さを伝えるために、自分は生き残ったのかもしれない」と述懐する。86年設立の全国疎開学童連絡協議会に入会。自分と同じように、集団疎開中に孤児になった人が多い事を知り、本格的な調査を進めた。口を閉ざす人が多いのは知っていたが、「孤児の私になら話してくれるのでは」と自らを鼓舞した。91年頃から新聞記事等を頼りに孤児を探し出した。
 連絡の取れた40人を対象にアンケートを実施したところ、22人から回答があった。
 「一番ほしかったもの」の質問に、全員が「親」もしくは「家族」と答えた。「一番、辛いと思った事は」について「遠慮して自分自身の心を、抑え心を殺して生きる」と答えた人が14人、「死を考えた」が18人に上った。金田さんは50歳を過ぎた人達の苦しい胸の内を知り、「孤児の心の傷がどれほど深いのか、改めて思い知らされました」と語る。
 戦争孤児に関する公的資料が殆ど残っていない状況で、金田さんは孤児達の記憶を掘り起こし、記録してきた。2002年に「東京大空襲と戦争孤児」を出版。13年にまとめた「終わりなき悲しみ」は、東日本大震災で親を失った子供達にも思いを寄せた。
 吉川英治文化賞に選ばれた際、選考委員の作家、阿川佐和子さんは「戦争孤児には国からの支援が全く無かった事に驚愕し、金田さんの資料を目にして涙が出た」と評した。
 金田さんらは07年、国に補償と謝罪を求めて東京地裁に提訴した。
 戦争と無責任な国家によって踏み躙られた被害者の人権を取り戻す「人間回復」(中山武敏弁護団長)を目指す闘いとなった。原告は131人、平均年齢は70代中半。内20人以上が戦争孤児だった。08年12月18日に東京地裁であった口頭弁論。「戦争孤児になって国から何か援助を受けましたか」。弁護士に聞かれた金田さんは、こう答えた。「全くありません。パン一つもらっていません。同じ日本人として、私達も人間として扱ってほしい。軍人・軍属は手厚い援護がなされていますが、民間の被害者は犬猫に劣る扱いです」

 東京地裁や東京高裁は、金田さんら原告の被害は認めた。「原告らが戦後の立法により各種の援護措置を受けている旧軍人・軍属らとの不公平を感じ、原告らのような一般戦争被害者に対しても、救済や援護を与えるのが国の責務であるとの主張には、心情的には理解できるものがある」とした。それでも国に補償を命じる事は無く「国会が立法を通じて解決すべき問題」と述べるに留めた。他の戦後補償裁判でも、しばしば使われる「立法裁量論」だ。
 最高裁が上告棄却の判断を出した13年、南洋戦で家族を失った戦争孤児ら45人が国に補償を求めて立ち上がる。沖縄に住む大城スミ子さん(84)もその一人だ。
 大城さんは1935年、マリアナ諸島のサイパンで生まれた。当時サイパンは、第一次世界大戦の戦勝国となった日本の事実上の植民地。大城さん一家は沖縄から移住して農業を営む両親と姉、弟3人の7人家族。現地の学校で教わった唱歌を家で歌った事をよく覚えている。「父が三線で伴奏してくれて嬉しかった」。日本本土と違って食べ物も豊富で、一家は平穏な生活を送っていた。しかし44年夏。米軍の上陸で、常夏の島は地獄と化した。
 逃げ惑う内に家族はバラバラになった。一緒にいた母親は砲弾で命を落とした。
 大城さんは米軍に捕らえられた後、両親の故郷、沖縄の親戚に引き取られた。
 慣れたと思った頃に別の親戚に預けられた。「皆、生活が苦しかったからだと思う」
 大城さんは裁判に加わってから、第三者にも体験を語り始めた。「戦争は恐い、ひもじい、寂しい。辛い思いが沢山、重なります。そういう思いを、もう誰にもさせたくない」と話す。那覇地裁は昨年1月23日、原告敗訴の判決を出した。公権力の行使による損害への賠償責任を定めた国家賠償法に触れ、47年の法施行以前については、「国は不法行為の責任を負わない」というものだった。しかし国策である戦争による被害は47年以降、現在までずっと続いている。瑞慶山茂弁護団長(76)は、被害救済の必要性を、大日本帝国憲法の理屈で否定したも同然として、「亡霊のような判決」と断じる。瑞慶山さんも南洋戦の被害者だ。
 パラオ諸島のコロール島に生まれた瑞慶山さんは44年、乗っていた船が米軍の攻撃で沈没、3歳の姉が亡くなった。1歳だった自分は母親の胸に抱かれて海を漂い、助かった。
 原告45人の内40人が福岡高裁那覇支部に控訴したが、今年3月7日に敗訴。22人が最高裁に上告し、この秋にも判断が下される見込みだ。金田さんや大城さんのような戦争孤児は一体何人いたのだろうか。厚生省(当時)の1948年の調査によると、12万3511人とされる。

 ただ連合国軍総司令部(GHQ)の指示で実施されたが、沖縄が調査対象にならない等、精度は、かなり低いものだ。都市部の駅や繁華街で寝起きし、飢えに苦しむ戦争孤児が多く、生きるために盗みや売春など犯罪に手を染める戦争孤児もいた。
 「東京都戦災誌」(53年)には、当時の都内の様子について<戦災児・浮浪児が多数彷徨して、都内における種々の社会悪発生の原因となるものも少なくなかった>と記されている。
 社会の不安定化を恐れ、治安当局や行政は「浮浪児」と呼ばれた戦争孤児達を拘束した。「狩り込み」とも言われた取り締まりだ。「浮浪児」と思しき子供達の姿を収めた写真も多数残る。46年7月頃に「東京品川沖の第4台場」とみられる場所で撮影された写真には、檻に収容された子供達の姿が捉えられている。逃亡を防ぐためか、上半身が裸の状態だ。
 金田さんは「親さえ戦争で殺されなければ、こんな哀れな姿になる事も無かった。生きるために盗みをする子供達を誰が責められるでしょうか」と話す。
 国会議員有志が救済法の制定に向け動き出したのは11年。超党派の「空襲議連」が結成され、法案作りが進んだ。民主党から自民・公明党へと政権が変わる中、法案の骨子も揺れた。現在、議連が立法を目指すのは17年に策定されたものだ。その法案は、障害を負った空襲被害者ら1人一律50万円、一度だけの特別給付金支給が柱だ。予算は50億円の見込みで、元軍人・軍属らに支給されてきた60兆円に比べて、あまりにも低い。
 反発する空襲被害者もいる。この法案でさえ各党の調整に手間取り、提出の見込みすら立っていない。しかも早期立法を目指す支援者らの意向等から、原案では対象となっていた孤児は対象から外されてしまった。「残念ですが、空襲被害者ではない人達も立法運動に加わってくれた事に感謝しています」。金田さんは話す。提訴から12年あまり。
 この間、原告団長の星野弘さんと副団長の城森満さんらが無くなった。
 街頭に立ち、救済法の制定を訴えている河合節子さんは「80歳でも若手です」と苦笑する。ただ空襲で亡くなった沢山の人達や、裁判闘争で命を削ってきた人達の事を思うと、諦められない。政府や社会は、このまま金田さん達のような民間人の戦争被害者を切り捨てるのだろうか。その事実を、私達は歴史に刻んでいいのだろうか。法案にある僅かな光明は、国に孤児など空襲被害の実態調査を課している事だ。当事者が健在な内に、しっかりと被害を受けとめ、あるいは掘り起こし、記憶を歴史に記録する。できる限りの補償をする。
 そうした営みこそが、「未完の戦争」を終わらせる力になると思う。
*民守 正義タイムライン:参考動画、有り。(基本文献-毎日新聞/管理者:部分編集)
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《-ヒロシマの継承と連帯を考える<核と人類は共存できない>》

◎日時:2019年8月6日(火)開場12:20/開会12:50
◎場所:広島YMCA国際文化ホール
◎参加費1000円(高校生以下・福島避難者-無料)
◎内容
 ●平和講演「ヒロシマ、フクシマ、原発再稼働」講師:河合 弘之さん
    (弁護士・映画監督・脱原発弁護団全国連絡会-共同代表、等)
 ●被曝証言-切明 千枝子さん
 ●沖縄から-高里 鈴代さん
 ●うたと演奏-SETOMAYU(せとまゆ)さん
 ●福島、被ばく・避難-水戸 喜世子さん/安倍 ゆりかさん
 ■まとめ-米澤 鐡志(広島・電車内被爆者)
 ■コーディネーター‐河野 美代子さん(広島被曝二世・産婦人科医)
◎主催:8・6ヒロシマ平和の夕べ
 ●連絡先:〒730-0031広島市中区紙屋町2-2-25大野ビル5F河野クリニック気付
      ℡090-2063-9452/Fax050-3730-6587/E-mail【86h@heiwayube.org】


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(民守 正義)