リベラル勢力総結集で政権交代!(293)

《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》

《【沖縄-「ぬちどぅたから」】海勢頭豊さんが運んできた風「平和を求めているのにヤマトは沖縄県民を守らない」/村上義雄(フリージャーナリスト)》

 海勢頭豊さんが運んできたのはどんな風?口調?やさしい?おおらか?微風?
 いいや、なかなか。鈍感なヤマト(日本本土)を激しく揺さぶる熱い風だ。
 海勢頭さんは語る。「改元で、日本は少しでもいい方に変わるのでしょうか。明治国家は、神武天皇が即位したと謂われる2月11日を紀元節と決め、『戦後日本』は建国記念の日と改名した。しかし神武天皇は神話、つまりウソです。ウソがばれないように日本は『生きて虜囚の辱めを受けず』の戦陣訓を下した。そしてウソの国に沖縄は復帰してしまった。」
 凄まじい戦争の中で「天皇の命に従えないなら死ね」と迫った。だから集団自決が起こった。敗戦になって民主主義になったと言うが、米国に支配された収容所の中の神話の国が国会運営をやって、今に至っている。日本の国土全体の0.6%の沖縄に、在日米軍専用施設の約70%が集中。米兵による凄惨な性暴力が頻発している。安倍首相は『沖縄の人々に寄り添う』と繰り返す。が、沖縄の圧倒的な民意が『辺野古ノー』と意思表示しているのを無視し、美しい海に土砂を流し込む。それでも『寄り添う』と、どうして言えるのか!
 絶望しても不思議はないのに、海勢頭さんは、それでも静かに「ちばらなやーさい」(がんばりましょうね)と呟く。ヤマトよ、どう答える?

<海勢頭さんが語り、歌う>

 残念、閉店してしまったが、基地の街コザ(現・沖縄市)で誕生し、そしてその後、那覇の歓楽街に引っ越したライブハウス「エル・パピリオン」(正しくはパビリオン。看板屋が間違えてビと書くところをピと書いちゃった。海勢頭さんは笑って「いいさ、いいさ」とそのままにした)は一度、味を知ったらヤミツキになる強い引力の持ち主の店だった。
 泡盛を酌み交わし、鋭く豊かな語らいが、やおら静かになったそのとき、海勢頭さんがギターを抱えていた。皆、耳をそばだて、耳を澄ました。始めは、ややくぐもった声。
 途中高らかに歌い上げる。が、イタリアのカンツォーネともオペラのアリアとも違う。
 ノロ(巫女)が林の中の御嶽の傍らでひっそりと歌い祈る、あの囁きに重なる気がした。
 今は沖縄で、東京で、全国各地で平和を説き、日本政府の非道を窘め、もう充分に高齢の身だが、まるで20代の若者のように青く、ひたすら願う。何を、そんなに思い詰めるのか?
 彼は「鉄の暴風」と呼ばれる、まさに地獄のように凄惨を極めた沖縄戦を生き抜き、「平和憲法の国・日本」に憧れ、しかし既に「戦争のできる国」になり果てたかに見えるヤマトを知って激しく落胆し、それでもなお、それなら沖縄を「平和憲法の国」にしようと、見果てぬ夢を見続けているのだ。海勢頭さんが語り始める。「沖縄にはジュゴン信仰がある。辺野古の美しい海に生きる、あのジュゴンです。ジュゴンのように静かに、非暴力で、銃なんて持たずに、話し合いを大切にして暮らせば、平和な日々を過ごせると唱える『絶対平和主義』が、沖縄には脈々と生き続けている。それがジュゴン信仰、すなわち竜宮神信仰です。琉球王朝よりはるか以前から平和の守護神として信仰を集めているのです。しかし理解が不十分で形骸化している」「沖縄本島の辺野古に新基地を造り、北部の高江にヘリパッドを造る。これこそが沖縄にとっての“侵略的外来種”であり、やがてヤンバル(沖縄本島北部)は政府の望みどおりに荒れ果てるだろう。こうして琉球処分は完成に向かう。辺野古の埋立ては何が何でも進める。そうする事で“あの人達”は、沖縄の人々を諦めさせようとしている。
 そういう計算で今日まできている。このままでは日本は生まれ変われない。独立できない。本当に独立して米国支配が終わるのであれば、中国や韓国や北朝鮮とのギクシャクした関係も変わるだろう。ところが、そこをほったらかして、令和の時代だと大騒ぎする」強い言葉なのに、押しつけがましくない。淡々とした雰囲気を崩さない。その海勢頭さんが、ふと傍らのギターを引き寄せる。語り手が歌い手に変わる瞬間だ。

<「闘争」で生まれた歌>

 1972年の「本土“復帰”」以降になるが、私は沖縄に通い詰めてきた。沖縄に行ってパピリオンに足を運ばない日は多分なかった。東京にいて、鈍った精神を蘇生させてくれる。
 そんな舞台だった。海勢頭さんは、いつも歌う、この歌を選んだ。そう「喜瀬武原(きせんばる)」。本土復帰後すぐ、米軍は、中断していた県道104号線越えの実弾演習を再開した。恩納岳に100ミリ砲と155ミリ砲の実弾を撃ち込む演習だ。元々、演習による山火事、水源地汚染、住宅への流弾が頻発し、住民を恐怖に陥れていた。その恐怖が戻ってきたのだ。
 住民は“復帰”の本当の姿を思い知らされることとなった。本島西海岸の恩納村から喜瀬武原を通って東海岸の金武町に至る8000メートルに及ぶ県道104号線は、住民にとってなくてはならない生活道路だ。地元住民は、我慢の限界に達し、捨て身の闘いを挑んだ。
 抗議集会を開く。着弾地の恩納岳及びブート岳に潜入し、烽火を上げた。
 米軍は人がいるのを知りながら、構わず砲弾をぶち込む。日本の警察が出動した。
 米軍の無法を鎮圧するため?いいや、違う。日本人を大人しくさせるためだ。
 住民に重傷者、逮捕者が出て、法廷闘争が始まる。「正当な理由がないのに米軍施設・区域内に侵入した」として、地裁、高裁とも執行猶予付きだが、有罪判決を出す。
 法的根拠は「刑特法」だ。正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」(1952年法律第138号)。刑特法のせいで日本は、米兵の犯罪を自国で裁けなくなった。海勢頭さんの「喜瀬武原」は、73年から3年に亙って続いた「喜瀬武原闘争」の中から生まれていた。海勢頭さんは、そっとギターを置き、回想する。思いが本土復帰前に立ち戻る。

<「コザ暴動」がきっかけ>

 「沖縄県民は平和を求めているのに、ヤマトは県民を守らない。知らんふりして経済成長を祝っている。大阪万博を祝っていた、そういうときに『コザ暴動』が起きた。大人しいウチナンチュー(沖縄の人)が、米軍の車を引っ繰り返して火をつけた。ここまでと驚く激しさだった。それまでライブで歌ってはいたけど、ちゃんとした歌づくりはしていなかった。クラシックのギターコンサートをして、オペラを作ろう、バレー音楽を作ろうなんて考えていた。その私が『コザ暴動』をきっかけに変わったのです」
 70年12月20日午前1時過ぎ、米国施政権下だった沖縄・コザ市で米軍人が車で「沖縄人」を跳ね、怪我を負わせた。MP(米軍憲兵)と琉球警察のパトカーが出動し、事故処理に当たった。人が集まり始めた。「“外人”を逃がすな」と声が上がった。騒然となった。
 群衆が暴徒化する。黄色のナンバープレートの米軍車両をガソリン、火炎瓶で焼き打ちした。群衆約4000人、負傷者88人(内、沖縄住民27人)、損害車両82台、出動の米軍憲兵250人、琉球警察官約500人、逮捕34人(内10人起訴、『沖縄県警察史』等より)。
 コザのパピリオンが、人でごったがえした。人々の声が暴動の背景を鮮明に映し出した。
 米国施政権下で米軍人・軍属が犯した罪の捜査権・逮捕権・裁判権は米軍に委ねられていた。殺人・強盗・強姦等の凶悪犯罪も、しばしば無罪や微罪扱いにされ、沖縄人が被害を賠償される事は、殆ど無かった。海勢頭さんの中で、「コザ暴動」と「喜瀬武原」が重なっていた。「この歌は、沖縄の人達、あるいは、まだ平和思想を諦めないでいてくれる本土の人達の心に少しでも届けたいと願って作りました。私は沖縄警察機動隊のギタークラブの先生だったのです。この歌を作ったとき、機動隊員達は装甲車の中で『喜瀬武原』を歌ったのです(笑)」

<恩納岳が富士山だったら>

 私の中でも、歌を聴きながら似た反応が起きていた。沖縄を訪ねる。本島西海岸の道を北上、烏帽子の形の伊江島が見えてくる。あそこも「鉄の暴風」といまでも恐れられている沖縄戦の激戦地だ。内陸に目を移す。なだらかな山並みの真ん中に恩納岳が見える、県道越え実弾演習の着弾地だ。そう、あそこも戦場ではないか。海は美しい。山は温和だ。
 が、少しだけ過去に視線を変えると、そこは、実弾の飛び交う戦場に思えてくる。
 車を走らせるとすぐ、米軍基地の前に出る。また少し走ると、また基地だ。
 70年代から80年代にかけて私は、何度も喜瀬武原の集落を歩いた。流れ弾を撃ち込まれた家の主に話を聞く。決死の潜入を敢行し、被告となった住民の親族にインタビューする。
 歩きながら妙な想像をした。県道104号線は、幹線だ。恩納岳は、標高363メートル。
 高山ではないが、ここの住民、いや、沖縄の人にとっては富士山だ。本州の大幹線、国道1号線を封鎖し、富士山に砲弾をぶち込む演習を企てたらどうする。あり得ないと承知でそう想像した。許せないだろう。本土では許せないが、沖縄では許すのか。
 ヤマトの政府は沖縄を人の住むところと思っていないのではないか。歩きながら、私は激していた。米軍の砲撃演習に抗議する住民は、容赦ない弾圧で敗北に追いやられた。
 「コザ暴動」のときと同じじゃあないか。海勢頭さんは、基地の街・コザで、那覇の歓楽街で、ライブハウス「エル・パピリオン」を開き、歌とトークで「平和な島・沖縄、軍事基地のない島・沖縄を守ろう」と発信し続けた。私は沖縄に行く度にヤマトが、この島の現実に政治もメディアも如何に鈍いか、思い知らされてきた。

<「米軍の方が相当マシ」>

 数多い出会いがあった。伊江島に阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんを訪ねた。
 島の6割もの土地が米軍に強制接収された。激怒し反対運動の先頭に立った。
 爆弾、砲弾を拾い集め、私設資料館を開いた。原爆の模擬弾もあった。カラカラと豪快に笑いながら米軍との交渉の裏話をした。「日本の政治家より米軍の方が相当マシだ。民主主義を知っている」と言ってのけた。阿波根さんは、2002年3月21日、肺炎で死去した。
 101歳だった。「ぬちどぅたから」の言葉を残して。渡嘉敷島の集団自決の生き残り、金城重明さんに会った。45年3月、米軍上陸。日本軍から手榴弾が支給されたが、金城さんの家族には行き渡らなかった。16歳の金城さんは9歳の妹、6歳の弟、そして母を、棍棒を振るって撲殺した。死に場所を求め、島内を放浪。日本兵が、何事も無かったかのように談笑する姿を目撃した。「しまった、早まったか」。慌てて母の元に必死で戻る。
 が、既に取り返しのつかない結果になっていた。戦後、軍が自決を命じたかどうかが激論を呼んだ。キリスト教徒となった金城さんは、「生涯、十字架を背負い続ける」と繰り返していた。長くご無沙汰だったが、「天皇とは-沖縄の思い」との見出しの記事(2019年4月28日付『朝日新聞』)で再会した。金城さんは、きっぱりとこう語る。
「命を捨てて天皇の盾となる事を国民に強いた。国家の罪です」。金城さん、90歳。
 私の中で鮮明に存在し続ける。「天皇陛下の御命令と信じ死を選んだ」。
 生き残り達は、打ち明ける。暗澹たる思いで立ちすくむしかなかった。
 ひめゆり学徒隊の語り部、島袋淑子さんに会った。看護師として日本兵と共にガマ(沖縄の自然洞窟)に立て籠った。酷い怪我で呻く兵士や民間人の看護にあたった。
 地獄だった。ガマを出て放浪し、九死に一生を得た。「ひめゆり平和祈念資料館」(糸満市)の館長を務めた。会う度に無残に若過ぎる命を散らした学友達を代弁して語った。
「戦争のできない国から戦争のできる国へ。人間のする事じゃあ、ありません」。
 島袋さん、91歳。健在がうれしい。

<「のたうちまわる」経験>

 ある日、時間の余裕ができ、那覇市の映画館に入った。『ミシシッピー・バーニング』。
 黒人が白人の手で嬲り殺しにされていた。客席のあちこちで、むせび泣く声が聞こえた。
「差別され続ける黒人の姿が自分達の運命と重なるのです。本土の貴方にも、解ってほしい」『凌辱されるいのち:沖縄・尊厳の回復へ』の著者、安里英子さんの言葉が胸の奥に引っかかったままだ。安里さんはこう書く。「土地の文化は季節が移ろうごとに、鮮やかに芽をだし、花を咲かせる草木のように、絶える事無く生き続ける。…沖縄の現実は、素晴らしい文化が存在している一方で、東洋一の軍事基地を抱えているという負の現実がある。この島をどのように語ればよいのか。どのように表現すればよいのか、と私達はのた打ち回る」
 私も、似た体験を重ねてきたと思う。絶句し、立ちすくみ、鳴咽し、血が逆流し、突然冷酷に背を向け、次の瞬間、深い井戸に墜落するような喪失感に襲われ、どう書けばいいのかと硬直する。「のた打ち回る」という安里さんのペンが自分の精神と重なり、自分で自分を責めるのだ。こんな道筋を辿り、人と会う旅を経てパピリオンに辿り着く事になるのだが、あの方が水先案内人になってくれなかったらどうなっていたか。
 池宮城紀夫さん、米軍嘉手納基地の飛行差し止め、損害賠償を求める訴訟団の弁護団長を務め、大田昌秀革新知事を、今また、玉城デニー知事を支える法律家。「おもしろい男を紹介しよう。ギターがとてもうまいのです」と誘われ、海勢頭さんを知った。以後、沖縄を訪ねる度に“三者面談”をお願いし、取材のヒントを入手するのが常となった。

<神役を引き継ぐ運命>

 海勢頭さんは、沖縄本島の太平洋岸、金武湾に浮かぶ平安座島で生まれた。
「沖縄では、本来、ノロが衣装をまとい、勾玉をつけ、御嶽に上って祈るのが倣いだが、海勢頭家は、男が龍宮神ジュゴンを祀る神役を引き継ぐことになっていて、私は逃れられない運命のもとで生まれた。子供のときから将来は祈りを引き受けなければならないと教えられた。じゃあ、龍宮信仰とは何なのか、琉球王国は、どうして守護神として龍宮を崇めるのか、その謎を明かさない限り、祈っても意味がない。謎を明かそうと、中学生のときに決心した。そして年月が経ち、『「琉球文明」の発見』を書いたのです」
 先ず祖父と孫の会話。「じい、…」「ん~?…」「日本政府って、変だよね?」
「ん~、変だね…。政府もだが、国民も変だ」「どうしても造ろうとしているよね」
「辺野古新基地だよな…。で、何か、訳でも知りたいのか?」「沖縄を虐める理由だよ」「虐める理由ね、…それは歴史を知らんとな」「だから、教えて?」「じゃ~、話すが、…やはり南西諸島の話からせんといかんかな」「南西諸島?」「琉球の島々の事だ。今から、およそ170万年前から120万年前までの南西諸島は、台湾や中国と陸続きだったそうだ。つまり、その頃の沖縄は大陸の一部だったということ」「いや、そんな大昔じゃなく…」
「いいから黙って…」序章には、こう書く。「絶対に戦争しないで済ませた勇気ある人達が、ここにはいたことになる」「沖縄戦で多くの命を失う結果を招いた。それは、想定外の悲劇だった。その悔しさが、戦後ウチナーンチュの反省として残った」更に「あとがき」で、「パウエル米国務長官の首席補佐官を務めたローレンス・ウィルカーソン元陸軍大佐が、『在沖海兵隊に戦略的必要性ない。気候変動や自然災害の影響が米軍施設に及ぼす損失への懸念が高まっており、多額な費用を投じて海上に滑走路を造る事は、バカげている。
在沖海兵隊の抑止力は、両刃の剣だ。米軍の駐留は中国の軍事費を拡大させ、より強力な敵にさせる』と強調した。安倍政権が主張する『普天間飛行場の危険性の除去』も『辺野古唯一が日米合意』との言い訳も、全てが沖縄県民や日本国民を騙す虚言であった」と書く。

<屋敷跡に咲く「月桃」>

 海勢頭さんが再度、ギターに手を伸ばす。「月桃」が始まる。「復帰10年の82年、琉球放送が特番を放映する事になって、糸満辺りで住民に戦争体験を聞こうとするが、誰も話したがらない。ひめゆりの人達も、まだ証言しないその頃のこと─。苦労していた琉球放送報道部が『喜瀬武原』みたいな歌を作ってほしいと頼んできた。それで歩いていて出合った光景。
 一家が全滅した屋敷跡に一輪咲く『月桃』の花を見た。これだと思った。小学校の子供でも歌える歌にしよう。そう決めた」と海勢頭さん。海勢頭さんは「喜瀬武原」より明るく、子供が歌える曲をと心がけて、この歌を描いた。後に本人制作の映画『GAMA 月桃の花』の主題歌になった。暖かい、懐かしい響き。聴きながら私は、コザの店で海勢頭さんを“発見”したジャーナリストで詩人の川満信一さんを思い出していた。
 経緯をこう書いている。「歩き疲れて、とある店へ飛び込んだ。キャバレーのような薄暗く、だだっ広い店で、ホステスも客の姿もない、照明のないステージの中央で、ギターを抱えた無愛想な男がうずくまっているだけである。こんな流行りもしない店で、ギター抱えて座っているのは、どうせ三流に決まっている。小馬鹿にしながら『おまえギター弾けるか』、その男は白い上目でチラと見て、無言のまま頷いた」川満さんは「今、朗読するから伴奏してごらん」そう促すと、トイレットペーパーに書き殴った即興の詩を、いきなり読み始めた。読みながら川満さんは高ぶる思いを、どうする事もできなかった。
 見事なまでの呼吸の合わせ方だった。「名前は何というの」川満さんが聞く。
 「ウミセドユタカ」男が答えた。

<「戦争が民を殺戮する」>

 こうして、この無愛想な才能は世に出た。川満さんはその後、友人達と語らいを深め、「琉球共和社会憲法私案」を練り上げている。略記させて頂く。「軍備に驕るもの達は軍備によって滅び、科学に驕るもの達は科学によって滅ぶ。巨大化した国権の下、搾取と圧迫と殺戮と不平等と貧困と不安の果てに戦争が求められる。九死に一生を得て廃墟に立ったとき、我々は戦争が国内の民を殺戮する、からくりである事を知らされた。だが米軍は、その廃墟にまたしても巨大な軍事基地を造った。我々は非武装の抵抗を続け、そして等しく国民的反省に立って『戦争放棄』『非戦、非軍備』を冒頭に掲げた『日本国憲法』と、それを遵守する国民に連帯を求め、最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省は、あまりにも底浅く淡雪となって消えた。好戦国日本よ、好戦的日本国民と権力者共よ、好むところの道を行くがよい。最早、我々は人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上、共にはできない」川満さんはパピリオンで会うと必ず声をかけてきた。
 「天皇メッセージを知っているか」と聞いてきた。昭和天皇は47年9月、シーボルト連合国最高司令官政治顧問に「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」と伝えた(米国国立公文書館から沖縄県公文書館が収集した資料より)。令和、令和のかけ声を聞きながら、先々代の天皇は、どうして、あんなメッセージを発したのか-問いたくなる。
 地下鉄神保町の駅で海勢頭さんを送った。人混みが似合うような、似合わないような姿。
 相変わらず無愛想な顔つき。ボソッと呟く。「期待しているさ」。
 さっきまで一緒だった私達への挨拶だろうか。私は黙って広い背中を目で追った。

<♪喜瀬武原♪>

喜瀬武原 陽は落ちて、月が昇る頃、君はどこにいるのか。
姿もみせず、風が泣いている。山が泣いている、皆が泣いている、母が泣いている。
喜瀬武原 水清き、花のふるさとに嵐がやってくる、夜明けにやってくる、
風が呼んでいる、山が呼んでいる、皆が呼んでいる、母が呼んでいる、
闘い疲れて、ふるさとの山に、君はどこにいるのか、姿もみせず。
喜瀬武原 空高く、のろしよ燃え上がれ、平和の祈りこめて、のろしよ燃え上がれ、
歌が聞こえるよ、はるかな喜瀬武原。皆の歌声は、はるかな喜瀬武原、
闘い疲れて、家路を辿りゃ、友の歌声が心に残る

<♪月桃♪>

月桃ゆれて 花咲けば、夏のたよりは南風、緑は萌える-うりずんの、ふるさとの夏
月桃白い 花のかんざし、村のはずれの石垣に、手に取る人も今はいない。
ふるさとの夏、摩文仁の丘の祈りの歌に、夏の真昼は青い空、誓いの言葉、
今も新たな、ふるさとの夏、海はまぶしい、キャンの岬に寄せくる波は、変わらねど、
変わるはてない、浮世の情け。ふるさとの夏、
六月二三日待たず、月桃の花、散りました。長い長い、煙たなびく
ふるさとの夏、香れよ香れ、月桃の花。永久に咲く身の花心。変わらぬ命、
変わらぬ心、ふるさとの夏(基本文献-週刊金曜日/管理者:部分編集)
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《-ヒロシマの継承と連帯を考える<核と人類は共存できない>》

◎日時:2019年8月6日(火)開場12:20/開会12:50
◎場所:広島YMCA国際文化ホール
◎参加費1000円(高校生以下・福島避難者-無料)
◎内容
 ●平和講演「ヒロシマ、フクシマ、原発再稼働」講師:河合 弘之さん
   (弁護士・映画監督・脱原発弁護団全国連絡会-共同代表、等)
 ●被曝証言-切明 千枝子さん
 ●沖縄から-高里 鈴代さん
 ●うたと演奏-SETOMAYU(せとまゆ)さん
 ●福島、被ばく・避難-水戸 喜世子さん/安倍 ゆりかさん
 ■まとめ-米澤 鐡志(広島・電車内被爆者)
 ■コーディネーター‐河野 美代子さん(広島被曝二世・産婦人科医)
◎主催:8・6ヒロシマ平和の夕べ
 ●連絡先:〒730-0031広島市中区紙屋町2-2-25大野ビル5F河野クリニック気付
      ℡090-2063-9452/Fax050-3730-6587/E-mail【86h@heiwayube.org】


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(民守 正義)