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《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《【古来「神社・神道」】神道・神社の真のルーツは古代朝鮮半島》

 神道・神社は日本固有のものと信じられてきた。しかし高句麗、新羅、百済といった古代朝鮮半島にあった三つの国を由来とする神社が日本各地に数多く存在する。
 古代の半島と列島を繋ぐ知られざる“神の道”を探る。
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 4月30日に、その役目を退いた天皇明仁・美智子夫妻が2017年9月20日、朝鮮半島からの渡来人である高句麗の「高麗王若光」を祭神とした「高麗神社」(埼玉県日高市)を訪問した際、ネトウヨ(ネット右翼)らから「反日左翼」等と非難する声がネット内に相当数書き込まれた事は、まだ記憶に新しい。高麗川が近くに流れる、この「高麗神社」の広大な境内には「新羅王第29代武烈王」の石像等が建ち、国の重要文化財に指定される江戸時代初期の「高麗家住宅」が復元され残っていた。何故この地に、古代朝鮮半島にあった高句麗や新羅という国に関わる神社があるのか。神道・神社は日本古来の固有のものだと信じている人が大半だと思われるが、どうやら、そうではないようだ。

<天皇家と古代朝鮮>

〈私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ムリヨワン)の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています〉(宮内庁ホームページより)日韓サッカーW杯(2002年)共同開催を前にした01年12月18日の会見で明仁天皇はそう発言し、天皇家のルーツの一端を語ったものと話題になり、韓国では大歓迎された。
 日本のマスコミはダンマリを決め込んだが-。発言の根拠は797年完成とされる『続日本紀』である。国家形成の過程を記した『日本書紀』(720年)から77年後に完成した『続日本紀』は、平城京(現在の奈良県奈良市と大和郡山市辺り)に都が置かれた奈良時代を中心に国家形成後の歩みが記されている。これら文書は時の権力者に都合よく描かれており、真偽については様々な議論がある。ただ、ここではその記述を前提に、前出の天皇発言の内容をもう少し詳しく見ていこう。桓武天皇は8世紀から9世紀初めの人とされる。
 『続日本紀』によれば、生母は高野新笠である。その父は「和」と書いて「やまと」と読む姓で、古代朝鮮半島にあった百済系渡来人だと記されている。改姓し「高野」となった。
 娘の新笠は光仁天皇の側室から天皇の妻となり、後の桓武天皇を生むことになる。
 つまり天皇家には朝鮮半島からの渡来人の血が流れているということだ。これが事実なら今、「女性宮家」との関係議論で取り沙汰されている「万世一系の伝統的男系天皇家血族」もデマである事が解るし、また「嫌韓」を煽る「愛国者」の人達は、天皇家のルーツを歪め、唾を吐きかけていることになる。その発言の16年後に明仁・美智子夫妻が訪れた冒頭の高麗神社の由来も実は、この『続日本紀』に記されている。

<高麗人が祀った神社>

 高麗神社のある地は、716年に設置された「武蔵国高麗郡」であり、ここに駿河(現在の静岡県)など当時の7カ国に住んでいた高句麗人1799人が移住したと記される。
 7カ国とは駿河の他、甲斐(山梨県)、相模(神奈川県)、上総(千葉県中部)、下総(千葉県北部)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)である。それまで「倭国」と呼ばれていた列島に「日本」という国号が初めて定められた「大宝律令」(701年)制定の直後である。
 なお、この時期は先ず朝鮮の方が、文化程度が遥かに上にあった事を押さえておかなければならない。〈高麗人達の渡来人は、大陸の進んだ技術や文化を伝えました〉─。
 日高市のホームページは「高麗郡建郡1300年の歴史と文化」と題し、そう記す。先進技術を携え渡来した高句麗人達が、ここに集まり、先祖を祀ったのが高麗神社であった。
 高麗郡は1896年(明治29年)に入間郡に組み入れられて、その名が消えたが、高麗神社は残った。日高市だけでなく、先述の駿河(静岡県掛川市)にも「高麗神社」があり、祭神は「韓神」つまり朝鮮の神である。高麗郡設置から42年後の758年、同じ武蔵国に「新羅郡」が設置された。〈新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人〉が移住と『続日本紀』に記される。
 後に「新座郡」と改称する新羅郡は現在の和光市、朝霞市、新座市、志木市、西東京市や東京都練馬区の一部等の地域だ。列島の人口が急増したのは、稲作や青銅器・鉄器の製造技術を持った渡来人が列島各地に押し寄せた弥生時代(3世紀中頃まで)とされる。
 その後の古墳時代も活発な渡来と交流があった。百済から仏教が伝えられたのは6世紀半ばで、高麗郡設置前後の7世紀から8世紀にかけても数千人単位の渡来の記録が残る。
 弥生時代の列島の人口は60万人近くとされるので、相当数の渡来人がいたことになる。
 これだけの数の人々(しかも先進の技術と文化を持つ人達)が来れば、当然ながら単に、そこで暮らしたというだけでなく、祖先を祀るという半島の伝統も継承されただろう。
 日本固有と思われている神社の祭神に朝鮮由来の神が多い理由が、おぼろげながら想像できる。実際、朝鮮半島からの渡来人が祀った(祀られた)神社は全国各地に数多く存在している。

<半島から大挙し渡来>

〈神社・神宮というのは朝鮮からきている〉〈三国時代の古代朝鮮、新羅からきている〉
 作家で古代史研究家の故・金達寿(キムタルス)氏は『古代朝鮮と日本文化神々のふるさと』(86年、講談社学術文庫)の中でそう書く。この言葉に対して〈神社を日本固有のものと信じている多くの日本人は、驚きや、強い反発、違和感を覚えるであろう。 金氏は韓国人だから、そこに我田引水の匂いを嗅ぐ人もいるだろう。しかし私は今、この言葉は多くの真実を含んでいると思っている〉『神社の起源と古代朝鮮』(2013年、平凡社新書)の「あとがき」でそう書くのは、跡見学園女子大学名誉教授で、同書の他『原始の神社をもとめて-日本・琉球・済州島』(09年、平凡社新書)等の著書がある岡谷公二氏だ。
 岡谷氏は、その一文に続いて、こうも述べる。〈神社の成り立ちに、古代朝鮮、とりわけ新羅─伽耶の地域が或る役割を果たしたとだけは断言できる〉各地に残る朝鮮半島由来の神社を紹介する前に、〈古代の朝鮮半島と日本列島を巡る動き〉を、ざっと見ておこう。
 古代朝鮮半島に高句麗、百済、新羅の3国が並び立った紀元前1世紀頃から紀元後7世紀中頃までを、韓国の時代区分では「三国時代」と呼ぶ。660年に新羅が百済を滅ぼし、668年には新羅・唐の連合軍が高句麗を滅ぼして、朝鮮半島は新羅によって統一される。
 高麗神社を建てた高句麗人が列島に渡来してきたのはこの前後だとされる。
 また、この間、百済の残党に倭国が加勢し、唐・新羅連合軍と戦った663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」では、百済・倭連合軍が敗れ、半島から撤退する。
 百済人が大挙して列島に渡来したのはこの時だとされる。いずれにしても当時の百済人が、「朝鮮通信使」による倭国渡来の状況を見ても解るように楽団を鳴らし、極めて友好的に渡ってきており、今なお韓国をはじめとするコリアン達は「日本は我々を植民地支配したが、我々コリアンは歴史上、一度も他国を侵略した事が無い」というのが、彼らの崇高なプライドとしてある事を認めなければならない。

<上陸の痕跡、各地に>

 さて「各地に残る朝鮮半島由来の神社を紹介する」と前述したが、その数が多すぎて、とても全体を網羅できない。伊勢や出雲など重要な場所には触れず、ここでは冒頭の高麗神社関連の渡来系神社に絞って見ていく。668年の高句麗滅亡の前後、半島から逃れてきたとされる高麗の若光とその集団は列島のどこに来たのか。〈上陸した地は相模(神奈川県)の大磯であった〉と前出の金達寿氏は書く。大磯町には平塚市に跨る「高麗山」がある。
 同町のホームページでも〈奈良時代に、この山側一帯に高句麗からの渡来人が居住し集落を作ったことから「高麗山」の名前がついたといわれています〉とし、〈若光は、その(高麗郡の)郡令に任命されました〉と紹介する。高麗山の麓にある「高来(たかく)神社」は以前「高麗神社」と称し、地元の人達は現在もそう呼ぶ。『日本書紀』によれば、若光は666年に高句麗使節の副使として倭国を訪れているので、上陸・居住したのは奈良以前の飛鳥時代だろう。その後703年に、半島の旧王族に付けられる「王(こにきし)」の姓(かばね)が若光に与えられたと『続日本紀』は記す。そもそも「相模」の「サガ」は朝鮮語の「県」。こうした朝鮮語による神秘性が、国家統制によって神祗信仰の多彩で豊穣な霊的世界が失われた。
 祭式も画一化され、神道は権威主義的道徳に貶められた。
 その道筋は1871年(明治4年)の「神社の儀は国家の宗祗」という太政官布告によって決定づけられたが、国家神道創出のモメントは二つあった。一つは天皇制国家主義であり、一つは近代合理主義だ。左派からの批判は前者に集中し、後者は見落とされがちだが、二つが両輪になって明治の近代化の中で神祗信仰を押し潰していった。だから先の太政官布告は、1873年(明治6年)の教部省通達「梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑祈祷(よりきとう)、狐下げ(きつねさげ)禁止令」つまり呪術シャーマニズム撲滅宣言と一対のものだ。
 それを徹底的に無くすのは無理だったが、少なくとも神社空間からは確実に排除された。
 その一方で「国家の宗祗」の理想型として新たな神社を創っていった。それが靖国神社であり、護国神社であり、湊川神社であり、トドメが明治神宮という訳だ。そして神社を管理する内務省神社局は、人格神、それも国家の経営に偉業を立てた天皇や中心を祀るのが神社の本来の姿だとした。その上で明治後期には村落祭祀の統制に乗り出す。内務省の神社序列でいう郷社、村社の下に、各集落(字)毎に「鎮守の神」があり、そこに閉じた世界があった。
 しかし帝国主義化のためには集落意識を解体し国民的統合を強化しなきゃいかん。そこで集落のシンボルである「鎮守の神」を整理して一町村一社にするという方針を立てた訳だ。
─それに対して民俗学者の南方熊楠等が反対の論陣を張りましたね。
A:神社整理の強度は地域で温度差があって、熊楠の地元の和歌山、三重、大阪が最も激しく、和歌山県では3000社が500社になった。鳥取県は大正になってから、これに倣おうとするが、東伯郡安田村(現、琴浦町)大字八幡で日露戦争の帰還兵が、満州から帰還できたのは「八幡様のおかげ」と反対運動の先頭に立ち警官隊と衝突。こうした「宮騒動」が各地で勃発し、不徹底に終わった。実力闘争こそが大切という歴史の教訓。神社は権力にとっては諸刃の剣なのだった。抵抗の拠点にもなる。江戸時代の一揆もそう。

 秩父事件(1884年)での秩父因民党の決起集会は椋神社。現在でも三里塚の東峰神社は空港反対同盟の団結のシンボルになっている。また徴兵忌避祈願の神社が各地にあった事も近代神道史の隠された事実なのだ(注1)。
─そもそも神祗信仰には具体的な神名ではなく、ただそこに「神がおわします」という感覚があると思うのですね。国家神道の「人格神」とは違って「場所」のほうが重要。
民俗学者の野本寛一は信仰環境論としてこの視点を掘り下げています。
A:古い神社では祭神名は、よく変化します。だから『延喜式神名帳』に祭神名の記載はないし、祝詞でも「某々の社に鎮まります大神の御前に」とやるわけで、神社の本質は神が「坐す(います)」場所で、聖地ありきだ。ところが神社本庁は「祭神のご神徳」ありきだ。
 「霊験」ではなく「徳」。これは国家神道の本質を継承しているからだ。明治天皇に「徳」はあっても「霊験」はない。だからパワースポットブームで個々の神社は喜んでも、神社本庁は“神社の本義に非ず”と苦言を呈する。でもパワースポットという感覚こそ聖地ありきの神社の本質に合致する。ただ問題は、パワースポットに惹かれて神社に行った人が、そこで改憲署名といった日本会議的なイデオロギーに誘導されていく構造があることだ。
─古来の神祗信仰が国家神道に統合されていくなかで、それに対する反動というか、本来の信仰を受け継ぐかたちで大本のような教派神道も出てきます。
A:天理、金光等の教団や山岳信仰系の講社は法的には教派神道という括りで管理された。
「宗教に非ず」とされた神社神職は布教が禁止され、出雲大社では別に出雲大社教という教派神道を創るという変則的な形を取る事になる。大本は教派神道として公認されず、二度に亙る弾圧を受けた。大本の底流に流れるのは「幽閉された神々の復権」という思想。
だから国家神道のアマテラスに対して出口王仁三郎は自分の神格はスサノオだとした。
─大本は言わば古代復興。古代に今の世を糺すユートピアを見るという姿勢ですね。
 ヨーロッパの反近代のロマン主義の中では、社会主義と古代ドルイド教が両立しています。アジアでいえば、朝鮮半島の東学(注2)等と近しい気がしますね。
A:うん、ドルイド復興に引き寄せて言うと、大本は神道ペーガニズム(Paganism=異教)と言ってもいいと思う。国家神道の古代は律令制だけど、出口王仁三郎は、これに別の〈古〉を対置させた訳だ。

─さて敗戦後、国家神道は占領軍によって廃止されます。今後の神道の在り方を巡り、民俗学者の折口信夫(1887~1953年)らと葦津珍彦(1909~92年)が熾烈なヘゲモニー争いを繰り広げます。そこにどのような意味があったのでしょうか?
A:当初は「神社教」という構想もあったが、葦津が神社の連合体という方向に主導し、46年2月に神社本庁が結成される。その途上の45年12月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の「神道指令」が出される。これは国家神道を問題にしたもので、神社神道そのものは存続を許された。但し、それには制度的分離と共に「軍国主義的ないしは過激な国家主義的要素を剥奪せられた後は」という条件があった。想定されているのは靖国や明治など国家神道を代表する神社であり、もとより村の祭祀が問題にされたわけではなかった。
そこで民俗学者の柳田国男(1875~1962年)や折口が浮上する。柳田の「民俗神道」や、折口の神道の普遍化である「人類教」構想だ。実際は折口と柳田では、かなり違うが、国家神道に変わる神道の指導原理みたいなものが、この2人によって打ち出された事に意味があった。
 これに対して葦津は彼らの影響力を神社界から排除すべく徹底的に闘う。
─戦争責任の問題ですが、国家神道を掲げる事で神社は国民を戦地に送り出しました。
その事への反省なり総括はあったのでしょうか。
A:反省はともかく、このままじゃヤバいという危機意識はあった。焦点は天皇や軍人を祭る神社で、それ以外の神社にしてみれば、とばっちりみたいなもの。だから某社の祭神を「リンカーンにしろ」だとか「靖国を潰して各宗教の共同の広場にしろ」というような声も神社界にあった。そういう状況下で折口、柳田が浮上したわけだ。
 折口は戦前の40年から神職養成機関の國學院大學で民俗学を教えていたが、神道指令で右翼系の教員がパージされ、46年5月から神道概論も担当することになる。
 しかもできたばかりの神社本庁の宮川宗徳総長は折口の親友だ。その夏に開かれた神職講習会では折口はメイン講師として「神道宗教化の意義」という演題で各地を巡回講和し、47年の神社本庁設立1周年には「民族教より人類教へ」と題する記念講演を行なう。
 これは前年の天皇の「人間宣言」(46年1月1日)を受け、〈今までの神道は皇室国家と結びついて、人類教的宗教となる道を妨げられていたが、今こそ明るい希望の時が到来した〉という趣旨のものだった。これに強い危機感を抱いた葦津は様々な裏工作を重ね、遂に宮川総長を説得し、折口を神社界のメインラインから排除する事に成功する。

 柳田国男も46~47年にかけて、「新国学談」と銘打つ一連の著作を発表し、祖霊は山に留まるという民俗心意の基層を軸に、神社の起源は氏の神で祖霊祭祀にあると論じる等、やはり大きな影響力があった。だから戦後初めての53年の伊勢神宮の式年遷宮のアピール文は柳田が起草する事になったが、葦津は自分が書くと言って、それを横取りした。
 この辺りの事情については後に「神道教学についての書簡」という一文において、本人が赤裸々に告白している。彼の危機意識は、国家管理というタガがはずれたいま、神社界が団結しないと、神祗信仰がもつ多岐多様性故に無数の神道の乱立を招き、「皇御国(すめらみくに)」の統一的国民意識が解体されるという点にあった。実に正確に国家神道の本質を自覚していたというべきか、だから葦津にとって守るべきは「靖国神社、護国神社から明治神宮に至る統一国家の神々」であり、それを失えば残るのは「地方村落的古俗宗教」だという。
 だから柳田の神道は国民を解体して村民にしようとするものだという訳だ。
 そこで彼は神社本庁の機関紙である『神社新報』を掌握し、紙面から民俗神道論や「折口人類教」系のものを徹底的に排除し、明治神宮と靖国神社の記事で埋める事に注力する。
 こうして葦津は折口や柳田等の民俗神道派とのヘゲモニー闘争に勝ち、神社本庁のイデオローグとなり、現在の日本会議との関係にも繋がる訳だ。
─現在の日本社会の右傾化に対し、日本会議は大きな役割を果たしていると考えられています。しかし武田さんは、その議論の重要書籍、菅野完氏の『日本会議の研究』を批判されていますね。
A:菅野氏は日本会議を主導するのは「生長の家」原理主義者であり、神社本庁は本丸じゃないと言う訳だ。葦津の名前は1カ所だけ出てくるのに何の説明もなく、結局は日本会議における神社本庁のイデオロギーを過小評価し、免罪するのに貢献していると言っても過言ではないと思う(注3)。神社本庁の事務組織としての規模は大した事ないとか、そういう問題ではなく、イデオロギーが問題なのだ。葦津が作り上げたその核心は「国家管理なき国家神道」だ。
 神社ブームの今だからこそ、神道の立場から、それを徹底的に批判し、神々の解放を勝ち取るべきなのではないかということです。
(注1)喜田村理子著『徴兵・戦争と民衆』(吉川弘文館)参照。
(注2)朝鮮半島で1860年に崔済愚が起こした新宗教。後、天道教。政府の弾圧を受けて、1894年甲午農民戦争が勃発。3.1独立運動(1919年)では中心を担った。
(注3)神社本庁と日本会議の関係は、『日本会議と神社本庁』〈金曜日刊〉に詳しい。(基本文献-週刊金曜日/民守 正義-部分編集)
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《講演討論集会:なんとかならんか-この日本!?》

◎主催:同集会実行委員会
 ●連絡先:オール関西「平和と共生」
  (📠06-6607-6409/mail【ak.pnc2015@gmail.com】)
◎2019年5月26日(日)午後6時30分~8時30分(開場午後6時)
◎場所:エルおおさか本館6階・大会議室(大阪市中央区北浜東3-14)
 ●Osaka Metro(旧大阪市営地下鉄)谷町線・京阪天満橋2番出口より徒歩約670m)
◎講師:松尾 匡さん(立命大学経済学部教授)
◎資料代:800円


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(民守 正義)