リベラル勢力総結集で政権交代!(233)
《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《【経済思考】「小さきことは良きことなり」/同志社大学教授-浜矩子》
「スモール・イズ・ビューティフル」というフレーズについては御承知の通りだ。
いや、今や実は、そうでもないかもしれない。念のため申し上げておけば、これは本のタイトルである。イギリスの経済学者、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーが1973年に発表し、一世を風靡した。別段、この本をお読みくださいと言いたい訳ではない。
言いたいのは、スモールであることはビューティフルなだけではないという事だ。
小さいことは、美しいばかりではなく、正しくて平和的だ。今、つくづくそう思う。
この思いを筆者に抱かせているのが、中国の「一帯一路」構想である。
中国本土を起点として、欧州にいたる21世紀版シルクロードを構築する。
それを目指して、中国は大型のインフラ建設プロジェクトを地球各地で展開している。
アジアで。アフリカで。東欧で。そして今やEUの中心部に食い込んで、イタリアを「一帯一路」の枠組みの中に取り込もうとしている。イタリアも大いに乗り気だ。独仏主導型で欧州統合が深化していくことに反発しているからだ。そうしたイタリアの思惑は一先ず、さておき、そもそも中国は何故、このように自国の圏外に向かって政治経済的触手を伸ばそうとするのか。それは中国という国が基本的に大き過ぎるからなのだと思う。
巨大な図体の一体性を保持していくためには、常に爆発的な経済成長のエネルギーを続けなければならない。低成長経済化してしまえば、中国は求心力を失う。
一党独裁型政治への人々の憤懣や、反発を抑え込むことができなくなる。
大き過ぎて維持不能。そうならないために、巨大なものは常により巨大になることを追及する。この追及を止められない。何とも怖いことだ。中国が一つの国ではなかったら、こんなことにはならない。小さな国々が各々に独立を堅持しながら連帯しているのであれば、至って円満に繁栄を共有することができるはずである。小さきものたちは、誰も独りでは生きていけないことを、よく知っている。だから助け合う。だから平和裏に共存できる。
ロシアも、大き過ぎるから、更に大きくなることを追及しようとしてしまう。
かつてのソ連邦だった頃の大きさを何とか取り戻そうとする。いや、むしろ帝国ロシア時代の大きさを再び手に入れようとしているようにみえる。小さきものたちは、肩の寄せ合い方を知っている。大きすぎるものたちは、誰とも肩を寄せ合うことができない。
大きすぎる図体を持て余す国々は、ドンドンゆとりを失い、包容力と縁遠い世界に踏み込んでいってしまう。一帯一路構想を通じて、中国はグローバルな経済社会を、どこまで呑み込んでしまえば安心できるのだろう。大きくなり過ぎたものたちは、むしろ思い切って小さくなる方向に舵を切り替えたらいいと思う。中国もロシアも、実は様々な民族の寄り合い所帯だ。数多くのスモールでビューティフルなものたちの集合体に変身すればいい。
そうすれば、きっと平和を引き寄せることができる。(週刊金曜日)
《【安倍「令和」】安倍の新元号私物化の内幕!独断で「令和」決定、官邸幹部から「首相の元号でない」と諌められ…》
「平成」から「令和」への改元で浮かれた空気が流れる中、新元号を巡る内幕が明らかになった。30日付け朝日新聞朝刊の報道で、新元号「令和」は、安倍(独裁)首相が独断専行に近い形で決めた事が分かった。しかも、安倍(独裁)首相が当初から新元号を露骨に政治利用するつもりだった事も明らかになった。記事によると、元号案の絞り込みは政府要領に基づいて菅義偉官房長官の下で進めていたが、今年2月末からは安倍(独裁)首相が議論に加わったのだという。これだけでも異例だが、安倍(独裁)首相は、その時点で出揃っていた候補について、どれも気に入らず、再検討を指示。国文学者の中西進氏を含む複数の学者に新しい案を追加依頼した。そして新元号決定の1週間前、中西氏から届いた案の一つである「令和」に安倍(独裁)首相が目を留め「万葉集っていうのがいいよね」と反応。
3月28日に「令和」を本命にした形で最終案6案を有識者懇談会に提出したのだという。
有識者懇談会の前から官邸が「令和」に決めており、ほかの5案がダミーで、会議でも官邸担当者が「令和」に誘導していた。元号選定に詳しい関係者を取材したところ、こんな内幕を明かしてくれた。「官邸内の空気は有識者懇談会に完全に伝わっていた。
だいたい6案の中に『万名』と『万保』のように、同じ漢字一文字を使った元号案が含まれているのも、おかしな話。万の字を好むメンバーの賛成票を散らす事になってしまうから。
それでも懇談会のメンバーから『令和』以外の案を推す意見も実際、出た。
そうしたら、同席していた官邸の事務方が『一般の人名や会社名で使われている』とマイナスの要素を説明したらしい」また当の有識者懇談会メンバーからも、結論ありきを示唆する発言が出てきていた。日本民間放送連盟会長の大久保好男・日本テレビ社長が「事前に候補を教えて貰った訳でもなく、準備できなかった。感想のようなものを述べたに留まる」と懇談会が事後承認の機関に過ぎなかったことを認めた。いずれにしても、こうした露骨な誘導の結果、4月1日の有識者懇談会では、メンバー9人中8人が「令和」を支持したのだ。
その後の全閣僚会議も同様だ。全閣僚会議の議事概要によると、全閣僚会議では発言した閣僚10人の内、令和を明確に推したのは4人だったものの〈安倍(独裁)首相から新元号を令和としたいとの発言があり、了承された〉という。そういう意味では、安倍(独裁)首相と官邸が主導して「令和」を推していたのは、はっきりしていたのだが、しかし、まさかここまで首相個人が深く元号選定に関与していたとは…。なにしろ安倍(独裁)首相は慣例を破って初期段階から議論に参加し、出揃っていた候補を全てボツにして、追加案を出させた挙句、自分が気に入ったというだけで「令和」を押し通してしまったのだ。これでは安倍(独裁)首相による、安倍(独裁)首相のための元号だったのだ!(リテラ/管理者:部分編集)
《【元ハンセン病患者の思い】「共存、間違っていなかった」》
私立で国内唯一のハンセン病療養所、神山復生病院(静岡県御殿場市)が5月16日に創立130周年を迎える。かつて約150人いた入所者は現在4人で、平均年齢は89歳。
国の隔離政策で差別や偏見があった療養所は現在、介護や治療を受けながら療養生活を送れる「介護医療院」や緩和ケア科の病院などを併設し、地域に開かれた施設になっている。
「ハンセン病療養所がホスピスなどと共存共栄していくのは、間違っていなかったと確信しているんです」。雄大な富士山が間近に見える敷地内で、元患者の藤原登喜夫さん(86)は130年を迎える思いを語った。この病院は1889(明治22)年、フランス人のジェルマン・レジェ・テストウィド神父によって開設された国内初のハンセン病療養所。
神父が布教のために訪れた旧鮎沢村(現御殿場市)で、ハンセン病のため失明し水車小屋に幽閉されていた女性と出会ったのがきっかけだった。その後も国内でカトリックの父として知られる岩下壮一神父らが、厳しい財政事情を抱えながら運営に尽力。日本のマザー・テレサと呼ばれた井深八重さんが看護師長を務めた時もあった。
1940年代、入所者は最多の約150人に上った。岡山県出身の藤原さんは9歳の時に発症。12歳で同県瀬戸内市の国立療養所長島愛生園に入った。20歳になると外の世界が知りたくて、園を抜け出して多磨全生園(東京都東村山市)に向かったが、受け入れてもらえずに復生病院へ。地域と隔離されたこれまでと違い、自由に外出できる生活は新鮮だった。
夏には地元の祭りばやしが聞こえ「社会に帰ってきた」と実感した。
入所者の高齢化や減少に伴い、復生病院は地域で生き残る道を探った。
2002年、ホスピス病床があり内科や緩和ケア科等を診療する病院として、一般患者の受入れを開始。04年に復生病院の資料を展示する「復生記念館」を併設し、学芸員が年間1300人ほどの見学者にその歴史を伝えている。今春には介護医療院のサービスも始めた。
近くの国立駿河療養所等、国立のハンセン病療養所では施設の「将来構想」が思うように進んでいない所もあるが、復生病院は地域と交流しながら新たな姿を示している。
理事の畠山敬一さん(70)は「がん患者らと一緒に、最後まで元患者の面倒を見ていく」と話した。(毎日新聞)
《―アリランから島唄へ:悲しみと平和の祈りー》
<沖縄の朝鮮人「慰安婦」と「軍夫」>
―座間味島住民の証言―
◎ピーヤ(慰安所)は阿真の今仲村とか、マンダリ、カニタニ。7名くらい。兵隊は2~3名くらい並んで。歳は17・18歳。皆、奇麗だった。
◎慰安所の女は、衛生兵が毎月、検査したはず。梅毒の治療をしたりして。わからないで来て、かわいそう。一人で何十人も相手にされてー。たいへんさ…。
◎「軍夫」の中に「水勤(注)」という朝鮮人がいて、一つの班に4~5名ぐらい付いていた。皆「強制徴用」だった。食事は粗末で、それで御芋をもらって、朝早く炊いて食べていた。見つかったら、ビンタものよ。でも水勤の方が、日本の兵隊より凄い力持ち。
◎水勤(朝鮮人)で死んだ人の名前は、一人も残されていない。浮かばれますか?
【(注)「水勤」とは-沖縄戦に動員された朝鮮人軍人軍属の部隊:特設水上勤務隊】
1944年7月、大邱に集められた慶尚北道の若者たちが「特設水上勤務第101~第104中隊」に編成され、沖縄に送られた。その数約2,800名、1個中隊が700名前後からなる4個中隊だった。102中隊は奄美・徳之島で途中下船し、1944年12月迄その地に駐屯した。
残りの部隊が那覇港に到着したのが8月。101中隊は、そのまま宮古・八重山に向かったために、この時点で沖縄本島にいたのは103中隊と104中隊であった。
1944年当時、32軍に配備された部隊が続々と沖縄に入港し、それに伴って大量の軍需物資が運び込まれてきた。これらの陸揚げは、32軍直轄兵站部隊である「49兵站地区隊」の指揮命令(作命)を受け、水勤隊が担った。103中隊は那覇港で、104中隊は読谷の渡具知港と本部の渡久地港に分かれて軍需物資の陸揚げ運搬についた。翌年の1945年2月、姜仁昌氏らが所属した103中隊は慶良間諸島の座間味、阿嘉、慶留間に移動して行き、海上挺進第1、第2戦隊の指揮下に入った。また104中隊は1945年12月末那覇に戻って兵站業務に就いたが、第1小隊だけが45年2月慶良間諸島の渡嘉敷島に移動した。
そこで彼らは海上挺進第3戦隊の隷下にはいった。一方、奄美・徳之島にいた102中隊は44年12月沖縄本島に移動してきて、名護と現東村の村川田村で主に坑木伐採の作業についた。(その後、米軍上陸前の1945年2月もしくは3月には那覇に集結している)
作業時には日本人の監視がつき、些細なことにも厳しい体罰が加えられたうえ、食事は満足に与えられず、水さえも自由に飲めなかったという。腹を空かせた朝鮮人が奴隷のように扱われていた姿を地元の住民は見ている。45年3月末、米軍は遂に沖縄に上陸。
本島にいた102中隊と104中隊の2個小隊は、訓練を受けないまま戦闘部隊に再編成され、米軍との地上戦に突入していった。前線への弾薬運搬や斬り込み、そして32軍の南部撤退時には艦砲射撃、砲弾の降りしきる中、物資後送に当たり、連日犠牲者を出して行った。
ついに6月20日前後、南部の山城と新垣方面に追い詰められ部隊は壊滅した。
102中隊の名簿には「大部分死亡か?」とメモ書きが残されている。
皇国の臣民として沖縄戦に動員され犠牲になった朝鮮人の数は計り知れない。
しかし日本政府は朝鮮人軍人軍属について動員数を明らかにしておらず、生還者や死亡者、行方不明者について調査すらしなかった。そのために正確な状況が未だに解っていない。夫、息子、父の帰りを待ち侘びる家族の下には消息を知らせる一通の手紙も届けられなかった。朝鮮人の遺骨は故国に帰る術もなく沖縄の地に埋もれたままになっている。
当時当然、受け取るべき俸給も支払われていないし、遺族への補償もないままだ。
特設水上勤務隊の部隊名が刻まれた慰霊塔は一か所だけである。残念なのは102中隊の部隊名がないこと。おそらく『兵站地区隊の記録』には当初の編成部隊が記録されていたために、遅れて本島にやって来た102中隊名が抜けたものと思われる。
(「アリランのうた-オキナワからの証言」抜粋)
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