リベラル勢力総結集で政権交代!(232)
《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《【統計改竄】「修正エンゲル係数」の摩訶不思議:これも安倍政権への忖度か/鷲尾香一(元ロイター通信編集委員)》
「毎月勤労統計」の不正調査問題に端を発し、大きな社会問題となった政府の不正統計疑惑。反省するどころか、総務省統計局がホームページ上で、これまでの「エンゲル係数」に対して、「修正エンゲル係数」なる数値を公表し、物議を醸している。
統計局では、エンゲル係数について「エンゲル係数は、時代の変化の下で変わりゆく私達の食やライフスタイル、そして社会経済や景気の状況等、家計を取り巻く多くの事を凝縮させ、一つの数値となって映し出してくれています」としている。
しかし現在のエンゲル係数は、「食料支出の消費支出全体に占める割合であって、所得の増減とは直接関係ありません。従って所得が増加しても消費支出が減少した場合、食料支出に減少がなければエンゲル係数は上昇することとなります。この場合、『所得が高くなるにつれ、エンゲル係数は低くなる』というエンゲルの法則は成り立ちません」と指摘している。つまり「現在のエンゲル係数は時代の変化に対応していない」と言いたいようだ。
その結果として「物価変動の影響を除去した実質食料支出の実質可処分所得に占める割合」を「修正エンゲル係数」として公表した。エンゲル係数は、ご存知の通り「家計の消費支出総額に占める食料費の割合」を示す。家計の消費支出の中で、食料品に、どの程度を使っているかを示すもの。そして、その割合が高ければ高いほど、食料品以外に支出を回す余裕がないため、生活水準が低い(生活が苦しい)となる。このエンゲル係数が、第2次安倍政権に入ってから上昇している。2005年に2人以上世帯のエンゲル係数は22.9%と最低を記録し、その後は23%台で推移していたが、2013年から上昇を開始し、2016年には25.8%まで上昇、その後も高水準で推移している。これはアベノミクス失策によって、国民の生活が「苦しくなった」ことの証左とも言える。安倍(経済音痴)首相が自画自賛するように、失業率が低下し、名目賃金・所得が上昇しているのであれば、「エンゲルの法則」上は、エンゲル係数は低下しなければならない。この点については、国会で野党が安倍(経済音痴)首相を追及している。
その時の安倍(経済音痴)首相の答弁は「(エンゲル係数の上昇は)物価変動の他、食生活や生活スタイルの変化が含まれている」というものだった。言い換えれば、総務省が「修正エンゲル係数」を作った理由である「所得が増加しても消費支出が減少した場合(安倍(経済音痴)首相のいうところの食生活や生活スタイルの変化)、食料支出に減少がなければエンゲル係数は上昇する」という事になる。そして修正エンゲル係数は、アベノミクス政策以降も見事にエンゲル係数の上昇が抑えられた結果となっているのだ。「アベノミクスによりエンゲル係数が上昇したのではないか」と問題視された途端に、それを否定するような「修正エンゲル係数」が登場することの摩訶不思議。そこには安倍政権への“忖度”があるように思えるのは、筆者だけだろうか。(週刊金曜日/管理者:部分編集)
《【憲法「天皇⇔安倍」】平成の最後までマスコミがスルーし続けた…天皇・皇后の護憲発言と安倍政権へのカウンター》
4月30日、明仁天皇が退位した。メディアではここのところ連日、その回顧特集が繰り返し流れている。しかし、そうした回顧特集の中で殆ど触れられていない事がある。
それは明仁天皇と美智子皇后の、平和と護憲の思い。そして、それを壊そうとする安倍政権へのカウンターを発信してきたことだ。元々、即位後の朝見の儀でも「皆さんと共に日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い」と表明したように、明仁天皇は以前から日本国憲法を遵守する考えそして平和への思いを強調してきたが、特に第二次安倍政権発足以降は、安倍(戦争)首相の“戦争のできる国づくり”政策、改憲に強い危機感を抱き、政権に警鐘を鳴らしているとしか考えられない、踏み込んだ発言を繰り返し行なってきた。
先ず第二次安倍政権が誕生した翌年2013年の10月には、美智子皇后が誕生日に際した文書コメントで護憲の姿勢を示唆した。美智子皇后は、一年で印象に残った出来事を「5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法を巡り、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます」とした上で、以前、あきる野市五日市の郷土館で「五日市憲法草案」を見たときの思い出を、このように語った。「明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由等、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」
日本国憲法と同様の理念をもった憲法観が日本の「市井の人々」によっても創られていた事を強調し、基本的人権の尊重や法の下の平等、言論の自由、信教の自由等が、決して右派の言うような「現憲法は米国の押しつけ」等ではない事を示唆したのだ。そして同じ年の12月、今度は、明仁天皇が80歳の誕生日会見で、これまでの歩みを振り返って「やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです」と語り、こう続けたのである。「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」日本国憲法を「平和と民主主義を守るべき大切なもの」と最大限に評価する明確な“護憲発言”だった。
しかも明仁天皇は、わざわざ憲法制定過程における「知日派の米国人の協力」に言及していた。これは右派の言う「米国による押し付け憲法」なる批判を牽制したものとしか思えない。安倍(戦争)首相は2012年に党のネット番組で「みっともない憲法ですよ、はっきり言って。それは日本人が作ったんじゃないですからね」と日本国憲法を罵倒していたが、明仁天皇の誕生日会見での発言は、それと真っ向から対峙するものだった。
<天皇が安倍政権に危機感を抱いた始まりは「主権回復の日」式典>
こうしたリベラルな考え方の持ち主と言われる明仁天皇だが、実は践祚してからの誕生日会見を振り返ってみると、記者から具体的に社会情勢や政治的な話題についての質問が飛んでも、一般論を短く話すか、一言か二言、憲法や平和、民主主義について触れるというのが専らだった。それが憲法4条に反しないギリギリのラインを保ちつつも、ここまで踏み込んだ発言をするようになったのは、第二次安倍政権発足以降のこと。
これらの発言が、安倍政権の戦争政策や改憲への危機感から発されたものであることは明らかだ。実際、この年の天皇・皇后の誕生日会見の前に、安倍政権に対して危惧を抱かせたであろう決定的な出来事があった。2013年4月28日に行われた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」のことだ。4月28日は1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、本土がアメリカの占領から独立した日。第二次安倍政権はこの日を「主権回復の日」と位置付け、政府主催で初めて式典を開き、天皇と皇后を出席させた。
式典は極めて復古的な、右翼色の強いものだった。当日、菅義偉官房長官が閉式の辞を述べ、天皇・皇后が退席しようとしたとき、突然、会場の出席者らが両手を挙げて「天皇陛下万歳!」と叫んだのである。安倍(戦争)首相らも壇上でこれに続き、高らかに「天皇陛下万歳」を三唱。天皇と皇后は、足を止め、会場をちらりと見やり、わずかに会釈してから会場を去ったが、その表情は固まったままだった。実は、この式典の開催は、自民党が野党時代から公約に掲げる等、安倍(戦争)首相の強い拘りがあった。
しかし天皇・皇后は事前段階から周辺に拒絶感を吐露していたといわれている。
実際、2016年12月24日付の毎日新聞朝刊記事によれば〈陛下は、式典への出席を求める政府側の事前説明に対し「その当時、沖縄の主権は、まだ回復されていません」と指摘されていた〉という。前年の衆院選公約で「国防軍の明記」を盛り込んだ改憲案を掲げた安倍自民党は、政権を奪取し、その動きを本格化させていた。
そんな中、明仁天皇の誕生日会見に“変化”が起きた。上述のように傘寿を迎えた明仁天皇は、会見の中で、安倍政権へのカウンターとしか取れない、護憲発言を行った。
いずれにしても、明仁天皇が安倍(戦争)首相による復古的プロパガンダへの政治利用と、その憲法軽視の姿勢に危機感をもっており、それが誕生日会見での言葉に現れたのだろう。
ところが、こうした明仁天皇の動きに対して、安倍官邸は宮内庁へのプレッシャー、締め付けを強めていく。たとえば翌2014年の4月、「正論」(産経新聞社)5月号に「憲法巡る両陛下のご発言公表への違和感」と題した文書が掲載された。〈両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねない〉〈宮内庁のマネジメントはどうなっているのか〉と、明仁天皇の“護憲発言”を批判する内容だ。
執筆したのは、安倍(戦争)首相のブレーンの一人と言われる八木秀次・麗澤大学教授だ。
即ち「改憲の邪魔をするな」という安倍側からの攻撃に他ならなかった。こうした安倍(戦争)首相に近い右派からの“天皇批判”は、その後、ドンドン剥き出しになっていった。
<「大戦への深い反省」を語った天皇、「A級戦犯」に言及した皇后>
しかし陰に陽に圧力がかけられる中、それでも天皇と皇后は、自分達にできるやり方で、安倍政権による平和の破壊と改憲に強い疑義を呈すような姿勢を続けた。
例えば美智子皇后は2014年の誕生日文書コメントで「来年戦後70年を迎えることについて今のお気持ちをお聞かせ下さい」という質問にこう答えている。「私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従って、その時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います」この皇后発言の2カ月前には、安倍(戦争)首相がA級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で哀悼メッセージを送っていたことが報じられていた。連合国による裁判を「報復」と位置づけ、処刑された全員を「昭和殉難者」として慰霊する法要で、安倍(戦争)首相は戦犯達を「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と賞賛したという。そうしたタイミングで皇后は、A級戦犯に踏み込む異例のコメントを出したのだ。明仁天皇も、2015年の安倍首相による戦後70年談話が公開された翌日の8月15日、戦没者追悼記念式典で「先の大戦に対する深い反省」を明言した。「終戦以来、既に70年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民の弛みない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。
ここに過去を顧み、先の大戦に対する深い反省と共に今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬ事を切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」明仁天皇が、戦没者追悼式典で戦争に対する「深い反省」を使ったのは、この年が初めてのことだった。
そのため、この夏、強行成立されようとしていた、憲法の平和主義を解釈改憲によって骨抜きにする戦争法制関連法案に対する天皇からの「反論」ではないかとも取り沙汰された。
以降、天皇は同式典で「深い反省」の言葉を用い続けている。だが安倍政権と皇室の対立が深くなるにつれ、官邸の“天皇封じ込め”は一層、露骨になっていた。
例えば2016年に天皇がビデオで直接国民に語りかけた「生前退位」を巡る軋轢だ。
そもそも天皇側は、これ以前から、女性宮家の創設や「生前退位」について政府に検討を要請していた。にも関わらず官邸は、無視をし続けた。そうした背景があって、天皇側から「生前退位の意向」をNHKにリーク、そして明仁天皇自らの「おことば」公開という流れになった訳だが、これに対し官邸は激怒。天皇の「おことば」表明後、風岡典之・宮内庁長官(当時)を事実上、更迭し、次長に子飼いの警察官僚・西村泰彦氏をあてて牽制するという報復人事に出たのである。しかも安倍政権は、国民世論に押されて渋々「生前退位」だけは認める方向に転換したものの、その政府有識者会議やヒアリング対象者には、安倍(戦争)首相直々の指名で“生前退位反対派”の日本会議系メンバーを複数送り込み、制度化を望む天皇の希望を無視して「一代限り」とした。更に、この有識者会議のヒアリングでは、安倍(戦争)首相が人選した平川祐弘・東京大学名誉教授が「ご自分で定義された天皇の役割、拡大された役割を絶対的条件にして、それを果たせないから退位したいというのは、ちょっとおかしいのではないか」と天皇を批判する始末だった。
<皇后は安倍(戦争)首相が無視したICANノーベル賞を賞賛>
こうした安倍政権の“報復”に、天皇はショックを受けたとも報じられているが、いずれにしても、官邸は皇室と宮内庁への圧力を強化し、天皇の発言を封じ込めようとしたのだ。
事実、2016年と2017年の誕生日会見では、2013年のように憲法に関する踏み込んだ発言は完全に封印され、一年の動静を端的に振り返る形となっていた。
しかし、それでも天皇・皇后は安倍政権へのカウンターを発信し続けた。
美智子皇后が、2017年10月の誕生日に際し、宮内記者会からの質問に答える形で出した文書では、この年のノーベル平和賞に「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」が選ばれたことに言及。「大きな意義があった」と評価してこう綴ったのだ。〈平和賞は、核兵器廃絶国際キャンペーン「ICAN」が受賞しました。核兵器の問題に関し、日本の立場は複雑ですが、本当に長い長い年月に亙る広島、長崎の被爆者達の努力により、核兵器の非人道性、一度、使用された場合の恐るべき結果等に、ようやく世界の目が向けられたことには大きな意義があったと思います。そして、それと共に日本の被爆者の心が、決して戦いの連鎖を作る「報復」にではなく、常に将来の平和の希求へと向けられてきたことに、世界の目が注がれることを願っています。〉周知のように、100カ国超のNGOが参加し、日本からも7団体が加わっている連合組織であるICANは、被爆者の証言を聞く会合を開き、各国政府に直接働きかける等して、2017年7月の国連核兵器禁止条約の採択に貢献。そのことが評価されてノーベル平和賞を受賞した。だが国連核兵器禁止条約の交渉にすら望まず、批准を拒否するという強硬な態度を執ってきた安倍(戦争)首相は、ICANの平和賞受賞には一言もコメントを出していない。
その中にあって、美智子皇后が誕生日文書の中でICANについて掘り下げ、その受賞の意義を大きく評価したのは対照的だ。しかも、これは一般論ではなく、明らかに核兵器廃絶の世界的潮流に逆らい、更に朝鮮民主主義人民共和国の核・ミサイル問題を利用して好戦的世論を扇動している安倍政権の動きを意識したものと解釈できる。
実際、文書では〈戦いの連鎖を作る「報復」〉と、わざわざカッコに入れ、「報復」を強調する形で否定していた。美智子皇后が当時、緊張状態が高まっていた朝鮮半島情勢を念頭に置いていたとしても、何ら不思議ではない。
<沖縄苛めの安倍政権に対して、天皇は沖縄への強い思いを>
憲法問題と並び、天皇が発信し続けてきたのが、沖縄を巡る問題だ。昨年の最後の誕生日会見でも、今年2月に行われた在位30年式典でも、天皇・皇后は沖縄への強い思いを繰り返し発信した。明仁天皇は、昨年12月20日に宮中で行われた誕生日会見で、途中、何度も言葉を詰まらせ、ときに涙声になりながら、自らが天皇として皇后と共に歩んできた道程を振り返る形で、戦後の平和と反戦にかける思い、戦争の犠牲の大きさを正しく伝える姿勢、沖縄への気持ち、日本人だけでなく外国人への心遣い、そして日本国憲法における「象徴」の意味等について語った。中でも印象的だったのが、安倍政権による“苛め”と言える状況が苛烈を極める沖縄への強い言及だ。周知の通り、昨年9月に行われた沖縄知事選では、逝去した翁長雄志前知事の遺志を継ぎ、辺野古新基地建設に明確にNOを示した玉城デニー氏が当選した。
だが安倍政権は、この沖縄の“民意”を無視して辺野古の海への土砂投入を強行。
しかも「辺野古移設反対なら普天間基地の返還はない」という卑劣な二択を迫り、基地に反対する人々を恫喝している。そんな状況の中、明仁天皇は「沖縄に心を寄せていく」事を訴えた。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効(本土の主権回復)から、沖縄の復帰までに、20年の歳月を要した事を振り返った上で、改めて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史を辿ってきました」と、本土から見捨てられてきた歴史を強調。「皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました」と続けたあと、声を震わせ、会見場を見やりながら、こう力を込めた。「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私共の思いは、これからも変わる事はありません」
「心を寄せていく」ことを強調したのは、明らかに今の日本政府による沖縄切り捨てを意識してのものだろう。「先の大戦を“含め”実に長い苦難の歴史」「沖縄の人々が“耐え続けた”犠牲」という言い回しからも、それが本土に“捨て石”とされた沖縄戦のみを指すものではないことは明白だ。元々、明仁天皇の沖縄にかける思いは極めて強いものがある。
現在も米軍基地の押し付けという「犠牲」を強い、県民の基地反対の意思を潰そうとしている安倍(戦争)首相の姿が、その目にどう映っているか想像に難くない。2013年の4月28日、安倍(戦争)首相の肝煎りで行われた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」にあたっては、政府側の説明に対し「その当時、沖縄の主権は、まだ回復されていません」と反論し、出席に難色を示していたという。また皇太子時代の1975年に沖縄を初訪問したときには、火炎瓶を投げつけられるという事件が起きたが、事前に「何が起きても受けます」と覚悟を決めていた現在の明仁天皇は、その日の夜、こんな談話を公表した。〈払われた多くの犠牲は、一時の行為や言葉によって贖えるものでなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません〉在位中最後となった今年の訪問も含め、沖縄を11回訪れた明仁天皇。 天皇としての最後の誕生日会見で、改めて「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていく」と宣言したことは、現在も政府が沖縄を虐げていることを深く憂慮する発言に他ならないだろう。
<在位30年記念式典で天皇皇后作詞作曲の琉歌「歌声の響」が>
天皇・皇后の沖縄への強い思いは、今年2月24日に行われた「在位30年記念式典」でも十分に窺えた。式典では沖縄出身の歌手の三浦大知が、明仁天皇が作詞し、美智子皇后が作曲した「歌声の響」を歌唱したのだが、これは天皇・皇后の明確な“メッセージ”だった。
そもそも「歌声の響」は琉歌(沖縄の島々に伝わる8・8・8・6調の定型詩)だ。〈ダンジユカリユシヌ/ウタグイヌフィビチ〉(だんじよかれよしの歌声の響)と始まり、〈ミウクルワレガウ/ミニドゥヌクル〉(見送る笑顔目にど残る)と続く。
「だんじゅかりゆし」というのは旅立ちを祝って歌われる沖縄の歌で、「本当にめでたい」という意味。ここには、天皇・皇后にとって忘れられない沖縄のエピソードが込められている。明仁天皇が「歌声の響」を詩作したのは皇太子時代、美智子皇后(当時は皇太子妃)と沖縄を初訪問した1975年に遡る。当時の沖縄は3年前に本土へ復帰したばかりで、天皇の戦争責任を問う声も多く、皇室に対する強い反感があった。
実際、この訪問で明仁天皇が「ひめゆりの塔」で献花した際、火炎瓶を投げつけられるという事件が起きている。だが明仁天皇の沖縄訪問は覚悟の上だった。
訪問前、琉球文化研究等の第一人者である外間守善氏から「何が起こるかわかりませんから、ぜひ用心して下さい」と心配された今上天皇は、「何が起きても受けます」と述べたという(朝日新聞2016年12月18日付)。その火炎瓶事件の翌日に向かったのが、辺野古のある名護市の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」。療養所の人々が二人を見送る際に歌った歌が「だんじゅかりゆし」だった。そして東京に戻った明仁天皇が、この思い出を琉歌として詠み、沖縄愛楽園の人々に贈ったのが、先に紹介した一首だ。
皆さんの「だんじゅかりゆし」と歌うその響が、私達を見送るその笑顔が、今でも目に浮かんで消えません─。そこに美智子皇后が琉球民謡風のメロディをつけたのが、琉歌「歌声の響」なのである。つまり今の天皇と皇后にとって「歌声の響」はまさに、自分達を受け入れるか、どうか分からなかった沖縄で、社会的弱者であるハンセン病を患う人々から、自らの旅路(進むべき道)に祝福を貰ったという思い出そのものだった。
そして、その歌を30周年式典、最後の在位式典で沖縄出身の三浦が歌う事になったのは、まさに天皇・皇后が在位の最後まで、沖縄に対する贖罪の念を抱き続けたという証だろう。
それは、今も沖縄に米軍基地押し付けを強行し続けるばかりか、反対する沖縄県民を恫喝・攻撃し続ける安倍政権とは対照的なものだ!
<天皇タブーより強大になった安倍政権タブー>
こうして7年間の言動を振り返ってみれば、天皇と皇后が如何に、安倍政権による民主主義や平和主義の破壊に心を痛め、なんとかそれを押し止めようとギリギリのところで発言を繰り返していた事がよく解る。しかし天皇・皇后のこうした発言や姿勢はテレビ等のマスコミで報じられる事は殆どなかった。NHKが2013年の誕生日会見で憲法に触れた部分をカットして放送したのをはじめ、多くのメディアは戦争や憲法と関係のない当たり障りない部分ばかりをクローズアップ。全文紹介したとしても、その意図をきちんと報じる事は殆どなかった。そして今、平成から令和への代替わりにあたっても「振り返り」の中で、護憲や反戦、安倍政権へのカウンター的発言が紹介される事は殆どない。いったい何故か。
それは安倍政権が、天皇・皇后のそうした動きに陰に陽に圧力をかけ、それをメディアが忖度しているからだ。天皇よりも安倍政権を恐れたメディアは、政権批判に繋がる天皇の発言を封印してしまったのだ。昭和から平成の代替わりでは大規模な自粛が起きて、メディアにおける天皇タブーの存在が浮き彫りになった。
しかし平成から令和への代替わりで浮かび上がったのは、天皇よりも安倍政権批判がタブーになってしまったという「令和の始まり」だったのである。(リテラ/管理者:部分編集)
《―アリランから島唄へ:悲しみと平和の祈りー》
【元皇軍兵士・沖縄からサイパンへの移民の証言5】
◎(「島(沖縄)の女性が、皇軍に強姦されたりは、ありましたか?」との問いに対し)
「それはある。特に、この島(周辺)では、あると思いますよ」
◎サイパン島には、わたしも含め、多くの沖縄人が移民していたが、その時の「軍夫」に朝鮮人も連れて来られた。その「軍夫」らは、水を持ってきたり、食料をくれたりもしてくれたんですが、その事が逆に軍部の方から、そうした行為が「捕虜になる事を勧めているスパイらしき者が徘徊しているから気をつけろ」と言われた時期があった。
その時、たまたま朝鮮人二人が兵隊に捕まえられ、引っ張ってこられた。
そして見せしめに山の広場に「避難民」が集められ、「スパイ」と決めつけられ、軍夫(朝鮮人)が「決して、そんな事をしていない!」と声を張り上げていたが、受け入れられない。もちろん目隠しはされているし、手は後ろ手に縛られ、最後は軍夫(朝鮮人)が「天皇陛下、万歳!」を三唱し終わると同時に撃ち殺されてしまった。
◎実際、沖縄の人達、多くの朝鮮人が、日本軍のために殺されているんじゃないかなー。
◎その内、戦局がドンドン悪くなって、移民や日本兵の中でも、あちこちで集団自決等が起こった。中には死にきれずに捕虜になった者もいたが、いずれにしても、こうした経験があるだけに「軍隊の論理とは?」「反戦平和」という現在の僕があると思う。
(「アリランのうた-オキナワからの証言」抜粋)
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《憲法と性的マイノリティ~憲法が導く虹色の視点~》
*本セミナーの正式名称は《憲法とLGBT~憲法が導く虹色の視点~》であるが、ここで「LGBT」は誤用かつ差別的であるため、管理者責任で「修正」した。
◎第一部:講演-「LGBTってなんやねん~私は私、あんたはあんた」
●講師:仲岡 しゅん弁護士(大阪弁護士会)
◎第二部:パネルディスカッション
●ロバート キャンベルさん(日本文学研究者)
/村木 真紀さん(虹色ダイバーシティ理事長・代表)
/仲岡 しゅん弁護士(大阪弁護士会)
◎主催:大阪弁護士会
◎日時:2019年5月11日(土)午後1時~午後4時(開場:午後0時30分)
◎場所:大阪弁護士会館2階ホール
◎参加費:無料◎事前申込:5月7日まで(定員600名)
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②「企業内人権研修」等の講師派遣も行います。【但し有料(2万円程度-委細相談)】
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◎なお寄せていただく相談意見等は、とりあえず全てEメールで送信してください。
<送信先Eメールアドレス>yutan0571@yahoo.co.jp(なおツイッターでの投稿は①匿名性が高いこと、②ウイルス対策上等、業者助言により一切、開封・受付いたしません。)
(民守 正義)
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