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《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》

《【SNS精神荒廃】インターネットと承認欲求:ネットで承認欲求を満たす功罪/能代亨(精神科医)》

【管理者】管理者は、産業カウンセラーであり、SNSと精神心理に及ぼす影響については、現在の我々業界としても、重要研究課題である。その意味で、自身もブロガーとしてインターネット社会に精通する標記精神科医師に、インターネット依存が起きる社会的メカニズムのお考えをインタビュー形式で掲載した。
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Q: 昨今インターネット依存やゲーム障害が大きな社会問題となっていますね。
A: ネット依存やゲーム障害というと、一括りに「悪者」という形で問題視されています。
 しかし、そのネットやゲームを楽しみ、それを欲求充足としながら、なんとか社会と折り合いをつけている人も多くいます。だから一概にネットで生きる人達を否定することはしたくありません。学生時代、ゲームセンターにあるアーケードゲームで県代表になるほど熱中した我が身を振り返ってみると、1日10時間以上ゲームをやりこむ若者の実態は全く不思議ではありません。実際そうして全国ランク1位を取った知人もいますが、彼はゲーム障害にはなりませんでした。それはゲーム以外にも承認欲求、所属欲求が満たされる楽しみや付き合いがあったからです。インターネット依存やゲーム障害に該当するケースを見るに、ゲーム以外の欲求充足の手段が無い方が大半です。社会的問題と見做さざるを得ないゲーム障害の判断基準は、例えばゲームをやっていないとイライラしたり物を壊したり、過剰にお金を使うのが止められないといった行動です。
Q: インターネット依存やゲーム障害が起こってしまう社会的メカニズムはどういったものなのでしょうか。
A: プレイ時間自体に分水嶺があるのではなく、ゲームやSNSしかないことがハイリスクの兆候と言えるでしょう。仕事や家族を失い、社会関係をなくして社会との繋がりが途絶え、もう一度社会的欲求を充たすための再構築ができない。そうした状況からさらなる深みにはまってしまう。ここら辺の状況は、アルコール依存症の方たちと似ています。
 ただアルコール依存に比べて、純然たる行動嗜癖であるネット依存やゲーム障害は依存から抜け出す人が比較的多く存在しています。ゲーム障害の治療には集団精神療法的手法も導入されています。ゲーム越しでしか承認されなかった状態に対し、当事者同士で認め合い、リアルで話し合っても相手にしてもらえる体験を提供するわけです。
 更にソーシャルスキルも身につけ、実生活に出て行く心理的な援助を受けることができれば、当人がこれからもう一度社会的欲求を満たしながら生きていく際に、松葉杖のような支えになるだろうと思います。ネット依存の根幹に承認欲求の問題があると感じている方もいると思うのですが、その歴史的背景には先ず20世紀末に流行した自己実現欲求から説明する必要があります。しかし自己実現は難しいという課題が知られるようになり、結果的にインターネット上では2010年頃から承認欲求という言葉が流行し始めました。

 ネットユーザーにとって、マズローの承認欲求という言葉は、人に褒められたい、認められたいという欲求を文字通りに表す言葉として、非常に使い勝手が良かったのでしょう。
 それがオンラインのスラングとして定着していきました。古くからある共同体社会では、承認欲求や所属欲求は既にある身分や家柄、あるいは○○村に住んでいる○○さんの家の子供という文脈により、所与の境遇の中で充たされる傾向がありました。しかし一期一会で文脈を欠いている都会で承認欲求や所属欲求を充たすのは、容易ではありません。
 個人主義化が進み共同体に縛られなくなった社会では、大学に進学したり企業に就職したりする度に、自分の力で新たに承認欲求と所属欲求を、新たな組織の中で充たす必要に迫られるようになったのです。結果、それを、充たすのに躍起になっている人を揶揄ったり、あるいは自分が認められたいのに認められていない不全感を言語化するための言葉として、承認欲求という言葉が求められてきたのだろうと思います。
Q: 以前は、企業に所属する事自体で所属欲求を充たす事もできていたという事ですね。
A: はい。「○○社の誰々です」と言うだけで認めてもらえたり、社員旅行・社内運動会・飲みニケーションで承認欲求と所属欲求を充たしたりしていました。そういうシガラミの中で充たさなければならなかった、とも言えます。ただ欲求充足とシガラミはコインの表裏で、シガラミが弱くなり自由に承認欲求や所属欲求の場所を選べるようになった反面、自分で両方を充たさなければならなくなってしまった。会社に入っていれば安心、会社が共同体という認識を社員が持っているかというと、今は終身雇用ではないため、そこまで会社にも心理的に繋がれないし頼ることも難しくなっているのじゃないでしょうか。
 インターネットで欲求を充たす場合、一つの投稿によって瞬間湯沸かし器的に有名になって承認されるのは比較的簡単でも、ずっと承認され続けるというのはとても難しい。
 自分ではセルフコントロールしているつもりでも、見る側は、もっと面白いものを、もっと楽しいものを期待します。そうすると周りに引っ張られて結果的に言動や行動がエスカレートしてしまう。そういう方は、ニコニコ動画でもユーチューブでもブログでもツイッターでも後を絶ちません。認められたい、たくさんの人に読まれたいと承認欲求を充たすために投稿し続けると、どうしても過激な表現になってしまいます。だから私も自分のブログには、あまり読まれないであろう記事を定期的に書くようにしていて、それが長く続ける秘訣だと思っています。それでも欲求に飲まれて脱線しそうになる事もあります。
 だから古参のネットユーザーの間では、急激にフォロワーの数が増える状況は危険だと言われています。そもそもネットメディア自体が、ユーザーの「いいね」等の承認欲求、リツイートやシェア等の所属欲求に意識が向くように作られてしまっているのが現状です。

 それは、やはり今日のネットメディアの問題点であり、注視しておくべきポイントだと思います。昨年の4月から私も人気ソーシャルゲーム(注1)を始めてみたのですが、ゲーム内で入手したレアキャラクターの話題をSNSのファンコミュニティに投稿し、ファン同士で承認欲求や所属欲求を充たしあえる点は上手くできていると感心しました。
 仲間がいると思えるだけでなく、皆がゲーム課金しているから、それが一般の感覚だと錯覚してしまうのです。SNSを使ってコミュニケーションしていると、そこには同じ思想の人間しかいないのですよ。反対しそうな人は排除されるため同じような思想が結束し、お互いに「いいね」を押し合って承認欲求も充たされます。ソーシャルゲームでコミュニティが盛り上がる現象と、トランプ大統領のように極端な思想が先鋭化しながら、そこに深くのめり込んでいく人達がいる現象とは地続きだと私は考えています。
 もちろんインターネット依存、ゲーム障害として臨床的にケアが必要な人達がいることは重大な問題ではありますが、他方で今の若者はSNS、ソーシャルゲームという欲求充足が簡単にできる強力なシステムを相手取ってさえ、それなりに健全に生きている人が多い点にも目を向けるべきだと思います。そこは私のような臨床だけではなく、ネット文化にも通じている、ある意味での「外野」の立場の者が、臨床の世界とソーシャルゲームの世界は連続的だけれども違っているといった視点を発信していくべきだと思っています。
Q: 所属欲求と承認欲求が成立するために、先生は対立することがあっても関係が続く“雨降って地固まるの人間関係”を提唱されていますが、そうした人間関係を長く続けるには、どのような条件が揃えばいいとお考えですか。
A:それが難しいところです。昔はある時点で喧嘩をして泥んこまみれになって叩いたり蹴ったりし合い、そうやって逞しくなりながら御互いを認め合って仲良くなるというプロセスがありました。だけど今はもう、そういう過程がありません。平成時代の物分かりが良くて平和なコミュニケーションのあり方というのが、承認欲求や所属欲求を洗練させていく上で本当に妥当な方法なのか、個人的には疑問を感じています。インターネットで“雨降って地固まるの人間関係”が構築可能なのかという質問もよく受けますが、私自身はかれこれ20年来インターネットで知り合った者同士でオフ会等もやりながら長く付き合っていきました。
 つまりオフラインの繋がりを持つ事が、従来の人間関係での“雨降って地固まる”に近いものが起こりうる土壌なのだと考えています。現代人のコミュニケーションは、若者だけでなく中高年時代も段々、オンラインに頼るように変化しています。
 しかしSNSだけで言葉だけ、あるいは1枚の写真だけでコミュニケーションを取り、お互い腹を立て過ぎずに仲良くやっていくということは、意外と難しいと思うのです。

 言葉って、思っている以上に鋭くて、一言でも人間は傷つきますから。
 昔は、ゲームセンター文化にしても他の様々なサブカルチャーでも、「人」よりも「場」の方が優勢でした。「場」に行けば、だいたい誰かがいて、そこに集っているメンバーと自然に話し、そこに所属し、そこで承認欲求を満たすという仕組みです。
 それが携帯電話、SNSの普及により「場」に行く事なくオンラインで集まり、どこでも繋がれるようになった反面、コミュニケーションのウェイトは言葉が占めるように変化しました。しかもSNS上で一緒にいると体感するためには、「いいね」をつけたり、リツイートしたりシェアしたりして、読み続け発信し続けない限り、一緒にいる事になりません。
 心理療法では、何かを話すだけでなくお互い黙って座って何かをやっている時間も大事であるといわれています。その“ただいるだけ”というのがSNS空間では認められません。
 ここは見落としてはいけない変化だと思います。ただコミュニケーション能力が高くなく、現実世界では「場」に加わりにくい人でも「いいね」とシェアボタンを使って、とりあえず所属し承認されるというようなプラスの側面もあります。そういう意味では、インターネットは承認所属欲求を得る間口を広くしたと言えます。
Q: 今後のインターネット社会における依存や障害にはどのような視点で向き合うことが必要なのでしょうか。
A:現代では、どんな人に対しても上手にコミュニケーションしなければならないということが、ある種世の中の大前提になっていますよね。例えば就職面接の際でもそうだし、コンビになどの接客業でもそう。相手が誰で自分がどういう立場でも、そつなく振る舞わなければならない。でも自分とは異なった思想信条やジェンダーの人と共通の取引をしたり、そつなく付き合ったりしていくためには、実は分かり合わない方がいい。

 今時の多様性を成立させるための様式として、キャラ・プロフィール・属性をお互いに認識しあい、それ以上のことはあまり深く忖度しないのが、「オンライン的なコミュニケーション作法」だと思います。以前、私は、そんな作法で承認欲求や所属欲求を充たして本当に幸せなのかと疑っていたのですが、今では、そういう“分人主義(注2)”でも若い人は満足できるのだと考えるようになりました。今はインターネットも商業化され、スクールカースト上位の人達もインターネット社会に入り込み、いわば「日なた」の人達がインターネットの主役となっています。しかしインターネットは、社会の「はぐれ者」でクラスの中で、ちょっと疎外されてきたような「日陰者」達が、自由にかつ同じ仲間がいるという希望を持てる未開地でもありました。そういう人達が、オフ会をやったりしながら生きる縁を手に入れていた経緯もあります。SNSで「いいね」やシェアやリツイートを繰り返し、好きなコンテンツの流行に乗っかって、多くの仲間に囲まれている気持ちになって救われているネットユーザーも多いと思うのです。私は、それを無下にしたくなないと思っています。ゲーム障害やネット依存への懸念は理解できますし、重大なケースは臨床的に治療すべきです。
 ですが私自身、それらに救われてきた経緯があるので、ギリギリで踏み止まって楽しんでいる人々を批判的に見過ぎてはいけないと考えます。
 この点は、臨床しか見ていない人とは少し見地が違うかもしれません。
 総論としてはインターネット依存、ゲーム障害が治療されていくということは、良いことだと思っていますが、過剰診断になってしまうような未来は見たくないです。
 世の中には、治療を必要とする人だけでなく、思春期の「はみ出し」と見做すべき人や、それらに助けられて何とか適応している人もたくさんいます。彼らを肯定的に見る視点を、私は臨床の先生方にも知って頂きたいです。障害未満のネットやゲームの世界が知られていくことを、切に願っています。
【注1】ソーシャルゲーム:主にSNS上で複数のプレイヤーが参加して遊ぶゲーム。
SNS上での会話機能、友達招待機能等も備える。
【注2】分人主義:作家の平野啓一郎氏が提唱。人が持つ多様なペルソナの全てを、「本当の自分」と考えるあり方。(基本文献- JAICO日本産業カウンセリング協会)
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(民守 正義)