「戦争法-廃止」と「安倍政権‐打倒」(24)

「戦争法-廃止」と「安倍政権‐打倒」(24)


《『あしたのジョー』ちばてつやが語る戦争体験と反戦への思い》
  「戦争法制が国民の大多数が反対する中、強行採決(?)されてしまった後も、桂歌丸や瀬戸内寂聴など、多くの文化人が引き続き戦争へと向かいつつある、この国を憂慮する声を上げ続けている。特に実際に先の戦争を体験した方々は、自らのトラウマを抉り出してでも、再び聞こえつつある軍靴の音に対し反対の声を上げている。そんな中『あしたのジョー』等で知られる漫画界の重鎮・ちばてつやも「戦争法制」に対し言葉を紡いだ。それは10月24日にゲスト出演した『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』(TBSラジオ)での発言である。〈非常に私は不安に感じていますね。そっちの方向に行っていいのかな?そっちの方向に行かない方が、いいんじゃないのかな?日本は、もっと良い方向がある。戦争をしない国っていうふうに皆が認め始めてるんでしょ。日本には憲法があるのだから絶対、戦争できないんだよ、あの国は。戦争をしない代わりに色んなところでね、橋つくったり井戸を掘ったり、そういうことで困った人に薬をつくってね、この間もノーベル賞で、いい仕事しましたよね。そういうことで世界中の人に皆から尊敬される国になったらいいのに、怖がられる国になりたいのかな?もう少しくらい経済経済っていうけど、慎ましくていいから、あの国は皆から愛されるいい国だよ、あの国は滅ぼしちゃいけないよって言われるような国になって欲しいな-と私は思うのですよね。それは難しいのでしょうけど、今は、そうなりつつあるのに、もったいないな、せっかくいい方向に行きかけてきたのに-ということは、ちょっと私は感じますけれども〉ちばてつやが、このような発言をせずにはいられなかった背景には、彼の壮絶な戦争体験がある。ちばは6歳のとき、満州の奉天で終戦を迎えた。
 酷い空襲等にもさらされず、それまで日本とアメリカが戦争をしていることすら知らなかった-というほど牧歌的だった、ちば少年の生活は終戦の時期を境に一変。父・母・3人の弟と共に1年にも及ぶ壮絶な引き揚げ体験を経験するのである。その時期のことを彼は『ちばてつやが語る「ちばてつや」』の中でこのように語っている。
〈六歳だった私は、終戦の意味も解らず、弟三人と一緒に両親の決死の逃避行についていくばかりだった。幼いながら一歩、間違えば死んでしまう、殺されてしまうという危険な状況にいることだけは、本能で理解していたように思う。今思えば家族が誰一人欠けることなく帰国できたのは奇跡に近い〉
 そして、この満州からの引き揚げ体験は、ちばてつやの「漫画家」としての根幹をつくっているという。〈この時、生きて日本に帰れたからこそ、私の漫画家人生もあるのだが、漫画家となった私の意識の底には、常にこの時の体験が潜んでいる〉幼き、ちば少年が潜り抜けた満州引き揚げ体験とはいかなるものだったのか?前掲の『ちばてつやが語る「ちばてつや」』では、このように綴られている。〈戦争とは無縁と思われた私達の住環境は、終戦に近づくに連れ、次第に不穏な雰囲気に包まれていった。何より私達を見る中国の人々の視線が、ど んどん厳しくなっていった。それまでは「日本人のお子様」という感じで見ていたのが「日本鬼子のガキ」という感じに変わっていた。「日本はいよいよ負けそうだ」という情報が中国人の間にも広まっていたので「今に見ろよ」と自分達を支配していた日本人への憎しみが一気に加速していたのだと思う。そして終戦の日の8月15日を境に日本人と中国人の立場は逆転した、中国人は日本人と判ると石をぶつけたり見境なく襲撃しては物を盗ったりするようになった〉〈このまま社宅にいては危険だというので、冬になってから私達一家は、そこから避難し同じ印刷会社の社員どうし、家族で固まって各地を転々と逃げ回ることになる。そのころ既に蒋介石の国民党軍と毛沢東の八路軍の間で内戦が始まっていて昼間の移動は危険だった。そのため昼は学校の校舎や工場の倉庫に隠れ、夜陰に乗じて移動した〉
 終戦後、ちば一家は、このような逃避行を続けるわけだが、冬の奉天は零下20℃ほどになる厳しい寒さに加え、殆ど食べるものもない環境。一緒になって逃げ回った仲間の中には、道半ばで倒れる者もたくさんおり、彼は子供ながら、たくさんの「死」を見つめてきた。
 前述のラジオで、ちばてつやはこう語る。〈ああ、人間ってすぐ死ぬのだなってことは思いましたね。昨日まで一緒に遊んでいた子が次の日に、もう息してないんですよね、冷たくなってる。あんな元気だった子が、死んでいる。それから一生懸命こう元気にこう、皆を叱咤激励して引き連れてた、お爺ちゃんが冷たくなってる。簡単に人間は死ぬってことを、その時は刷り込まれたっていうか、だから私のキャラクターは、すぐ死んでしまうっていうことが、私の感覚なのですよね。そう言いながら、しぶといのですよ、私みたいに何日も食べない子供達もいるのに、生き残って日本に帰ってきた人もいるし、あんなに元気だったのに、コロッと死んでいる人も見たし、死んでいる人達を跨いで乗り越えて帰ってきたという現実もあったし、引き揚げの一年間の体験っていうのは、私の人間形成において大事な色んなことが刷り込まれたのかなと感じますけどね〉しかし、そんな暗黒の引き揚げ生活の中にも、一つだけ、ちばてつやの未来を明るく照らす灯火があった。〈逃避行が続く中、私達一家は中国人の徐集川さんと再会した。徐さんは父の会社の部下だった人で、父とも親しく私達兄弟のことも可愛がってくれていた。徐さんは見つかれば自らも危険なことを覚悟で「ここにいたら凍え死んでしまう」と、私達一家を中国人街にある自宅の屋根裏に、かくまってくれたのだった〉
 こうして、一先ず身の安全を確保した屋根裏生活は、冬が過ぎるまでの間数週間続く。そして、この屋根裏生活での体験が、後の漫画家・ちばてつやをつくる礎となったという。
 〈その屋根裏では、寒かったですけども母親が一生懸命、本を読んでくれたり、それから一生懸命つくり話をしたり、してくれたんですけども、尽きちゃったものだから、私に今度、絵を描いてあげなさいとか、弟達は小さいですから、私が六歳ですから長男の。下が4歳の、2歳の、それから産まれて何ヵ月っていう。それが直ぐに泣くのですよね、外へ出たがって。狭いところにいるから。そういうところで弟達のために、まあ昔は漫画を知らないから、ただ絵を描いているだけなのだけど、その絵の説明をすると、弟達がもうワクワクするわけね、目を輝かして。「この人はどこへ行くの?」とか「この馬は、どこへ行くの?」ていうようなことを聞くわけ。すると一生懸命考えて、そうなるのだろうってことを、ストーリーをつくっているようなものですよね、つくりながらお話し て、そういうことがね、私が漫画家になるための原点、その時は気がつかなかったけど、とても大事な時間だったのかなというように思いますけども〉この時の体験は、前掲の『ちばてつやが語る「ちばてつや」』でも、以下のように綴られている。〈私が、それまでに読んだ童話や昔話を混ぜこぜにして考えただけの話なのだが、絵にして見せると弟達がワッと喜ぶ。そのワクワクする様子を見て、子供ながらに「描いてよかった」と満足感を感じたのだ。思えば「自分が作った絵と話で人を喜ばせることができる」と読者を意識したのは、この時が最初だったように思う〉前述した通り、徐さんの力添えもあり、その後、ちば一家は誰一人欠けることなく、無事に日本に帰ってこられた。しかし、それはもう「死」と隣り合わせのギリギリの状態だったようだ。〈引揚船に乗ったからといって安心はできなかった。相変わらず乏しい食糧事情の中、私の弟達は、あばら骨が浮いてお腹が異常に膨らんでいるような栄養状態だった。遊び仲間の子は、そこで力尽きて亡くなり、出航した、その船から水葬に付された。昨日まで一緒に船の中を遊び回っていたのに、今日はもういない。「どうしていないの?」と母に尋ねると、「あの子は死んだのよ。かわいそうに…」と赤い目をして涙ぐんでいた〉
 この時の壮絶な体験は後に『家路』という作品に描かれたり、同じく満州引き揚げ体験をもつ赤塚不二夫や森田拳次らとともに『ボクの満州』という一冊を上梓したりと、ちばは自らの心の傷を抉り出してでも日本人が絶対に忘れてはならない悲惨な戦争体験を伝え続けていくことになる。それは戦争というものが本当に愚かなもので、人間が誰しも持つ「闇」「鬼」の面を否応なく引き摺り出してしまう醜いものだからだ。
戦後70 年、せっかく平和の時を築いてきたのにも関わらず、それを、こんな簡単に壊してしまっていいものだろうか?「戦争なんて怖くない」との賜う人々は、実際に戦争で地獄を見た、ちばてつやの以下の言葉を読んで、それでも本当に戦争は愚かではないものなのか、怖くはないものなか、どうか、もう一度よく考えてみてほしい。昨日まで仲の良かった隣人が、ある日を境に「鬼」になる。そんな状況をつくりだすのが「戦争」なのだ。〈あんなに優しそうな人が、もうお腹がすいてしまう、もしくは自分の家族を守るためということになると鬼になってしまう、というようなことを何度か見ているので。逆に鬼みたいな人も優しいところがあったりね。だから人間ってね、ちょっとしたことでね、ガラッと(変わる)。だから色んな要素があるのですね、悪い部分、悪魔的な要素も天使的な要素も、悪魔みたいなところも皆、持ってる。でも、その人が、どういう生き方をしているか、環境によって神様みたいな人になったり、悪魔みたいになってしまったり鬼になってしまったり、そういうようなことってよくある〉(リテラ/管理者-過去の戦争体験を知ることが今の「戦争法時代に必要」と思い掲載した)

《「後の総仕上げはPKOで自衛隊が死ぬことだ」元レンジャー隊員がPKO協力法に憤怒!(IWJ)》
「こう言いたいのですよ、安倍首相は。9条があったから、まともに自衛隊は住民保護もできなかった、戦死者も出した。だから9条も変えるのだ、って。それで憲法改正ですよ」
 2015年9月21日、伊藤塾東京校で「井筒高雄×泥憲和-我、国と自衛隊を愛す、故に戦争法に反対する」と題された学習会が開かれた。元自衛官である泥憲和氏は「日本はPKOから撤退した方がいい」と述べ、日本が世界各国で、これまで取組んできた活動実績を踏まえつつPKO以外の国際貢献のあり方を提案した。また元レンジャー隊員の井筒高雄氏も、今国会で成立した「戦争関連法案」の一つである「国連平和維持活動(PKO)協力法」の改悪について、その危険性や自衛隊内の実情を指摘し「カンボジアPKOから23年、平和維持活動は時間と共に拡大し今後は必ず自衛隊が海外で死ぬことになる」と憤った。

<「日本も人を出さなくては国際社会では評価してくれない」という自民党のまやかし ~日本のPKOへの人的貢献>
 泥氏は、今回の「戦争関連法案」を巡る議論について、主に「集団的自衛権」に焦点があてられ「PKOの積極参加」については、あまり注目されなかったのはでないかと述べ次のデータを示す。
「これは昨年(2014年)の数ですが、世界が、どれくらいPKOに人的貢献したか。中国2192人、フランス939人、アメリカ113人、ロシア 92人、日本271人。ドイツ214人。ドイツ、日本、イギリス、どちらも200人台です。実は日本は既に西側諸国並みの貢献を実際やってきたわけです」泥氏は具体的な数字を持ちだし、政府・与党が度々、使用するレトリック「日本も人を出さなくては国際社会では評価されない」は「まやかしだ」と批判した。

<PKOはPeace Keeping Operationではなく、やっていることはForceです>
 また泥氏は、平成25年度の防衛白書を参照しつつ「9のPKOが国連憲章第7章の下で強力な権限を与えられている」ことについて、この「強力な権限」が「自衛または任務の防衛に限り実力の行使が認められている」と記述された部分に当たると指摘する。PKO部隊による「実力の行使」について、この規定は実際には、どれほどの制限を加えるものなのだろうか。
「『自衛または任務の防衛に限り』とされているが、実は武力行使の理由は二つしかないんです。一つは自己保全のため。もう一つは任務を守るため、つまり民間人を守るための武器の使用。だから、この『限り』というのは、ただの修辞です。つまり何でもできるということです」一方、今回の「戦争法案」で改悪された「国連平和維持活動(PKO)協力法」では、PKOにおける自衛隊の武器使用について「いわゆる安全確保業務、及びいわゆる駆け付け警護の実施に当たり、自己保存型及び武器等防護を越える武器使用が可能」と新たなに追加・明記された。このような自衛隊による武器使用の権限の拡大について、井筒氏も次のように危機感を露わにする。「もう今度の改正で、部隊や住民を守るためなら武器を使って相手を殺しちゃってもOK。駆けつけ警護という言葉は綺麗なんだけど何をするのかというと、一緒にやっている軍隊の人達が戦闘に巻き込まれて、行方不明者が出ちゃったら探しに行くとかですね、ベースキャンプが、やられているかもしれないという時は、日本の自衛隊も、そっちまで出張っていって、バンバン武器を使って相手を蹴散らせながら、自分達PKOの部隊を守る。PKOといっても今は『Peace Keeping Operation』ではなく、やっていることは『Force』なんですよ」

<「PKOは政府軍の虐殺を止めることができない」>
 しかし住民を守るためには、より攻撃的な武器使用も容認せざるを得ないのではないか。そのうえで現地住民は、そんなPKOを支持しているのだろうか。事態はそう単純ではないようだ。これに関して泥氏は、現在のPKOが置かれている深刻なジレンマを次のように説明する。「PKOというのは相手国政府の同意がなければ派遣できないのです。ですが住民を虐待、虐殺しているのは反政府勢力だけでなく政府軍もやっている。ではPKOは、どっちを止めることができるか。反政府勢力の行為を止めることはできるでしょう。だけど政府軍の行為を武力行使で止めることはできないのですよ。それしようとしたら政府が出ていってくれと、こう言われたらPKOは身動きできなくなります」更に「ですから同じように残虐行為をしているにも関わらず、政府軍の行為は野放し。そしてゲリラの行為ばかりをPKOが攻撃してくる。こうなると国連は中立性を失って、住民から見れば政府軍の味方をしているように見えてしまう。現実に政府っていうのは決して民衆の味方でないことは幾らでもあることなんです」その上でスリランカ政府による2万人の住民虐殺や、南スーダンでの政府軍による残虐行為の事例を紹介し、既にマリ、ソマリア、ゴラン高原、南スーダン等ではPKO部隊が武装集団に狙われ、死傷者が多発していると指摘した。

<PKO以外にどのような国際貢献の方法があるか?~「平和構築」「選挙支援」「開発による平和構築」>
 泥氏は「日本はPKOから撤退したほうがいい」という。PKO以外の国際貢献の方法として、国連が行う7つの活動(「紛争予防」「平和維持(PKO)」「平和構築」「選挙支援」「開発による平和構築」 「平和のための行動」「軍縮」「平和維持」)の内、次の3点「平和構築」「選挙支援」「開発による平和構築」で、日本が重要な役割を果たせるはずだと指摘する。

【紹介】「平和の琉歌」http://bit.ly/1MQbwcr :YouTube:伊波 洋一 (いは よういち)

《お知らせと【拡散希望】「澤地久枝のよびかけ-アベ政治を許さない!」》
 同じポスターを全国一斉にかかげよう!
12月3日(水)午後1時きっかり
◆◆全国一斉行動:再開のお知らせ◆◆
 政治のあまりの酷さに、また「アベ政治を許さない」を掲げようと思い、呼びかけます。
 再開第二回目の12月3日(水)で国会前には、有志が立ちます。そして毎月3日午後1時に繰り返します。
 各々の場で、同じ抗議ポスターを、同じ時間に掲げます。
 現在の政治のありかたに対する、私たちのギリギリの意思表明です。
 ファックスやネットでも広げてゆきましょう。
2015年10月 澤地久枝

*「アベ政治をゆるさない」A4ポスターは【アベ政治を許さない(pdf)】でダウンロードしてください。またA3ポスターは「セブンイレブン」のネットプリントで印刷できます。
・予約番号42066022:A3,白黒:プリント有効期限2015/11/05(1枚20円)

(民守 正義)