「戦争法-廃止」と「安倍政権‐打倒」(23)
「戦争法-廃止」と「安倍政権‐打倒」(23)
《「九条壊すな」「政権にNO」憲法公布69年にちなみ集会》
憲法公布から69年となる3日、安倍政権が九条の解釈を変更して「戦争関連法」を成立させたことに反発して、各地で憲法に因む集会が開かれた。参加者らは「憲法違反の政治が加速している」「違憲の『戦争法』の廃止を求めよう」と声を上げた。東京都新宿区で行われた集会には約百人が参加。主催した「若者憲法集会実行委員会」メンバーのKさんは「憲法は生まれた直後から様々な攻撃を受けながら命と尊厳を守ってきたが、違憲の戦争法が成立して危機にある。法廃止を求めて声を上げよう」と呼び掛けた。参加した大学生らは「野党共闘を求め、賛成議員を落選させる運動を今後も続けたい」等と発言した。
神戸市で開かれた集会では、五歳の双子を連れて参加した同市東灘区の運転手Sさんは「憲法の大切さを理解してほしいと思い連れてきた。戦争を起こさないことの大切さは分かってくれたみたい」と話した。
高知市では憲法学者の小林節-慶応大名誉教授が講演。約1200人の聴衆を前に「政府が九条を叩き壊した。野党が手を組んで政権をとり、法律を廃止しなければならない」と訴えた。
<国会前>
「戦争関連法」を成立させた安倍政権への抗議として「アベ政治を許さない」とメッセージの書かれた紙が3日午後1時、各地で一斉に掲げられ、平和憲法を守ろうとの思いが広がった。取り組みの呼び掛け人は作家の沢地久枝さんで「戦争法案」が衆院を通過した直後の7月18日に続き、この日が二回目。俳人の金子兜太さんが揮毫したメッセージを、参加者各自がインターネットからプリントして持ち寄る等した。東京・永田町の国会正門前には約600人(主催者発表)が集まった。午後1時になるのに合わせ、女優の木内みどりさんと作家の落合恵子さんがカウントダウンを開始。参加者は、国会に向けて高々とメッセージを掲げ「戦争反対」「九条壊すな」と叫んだ。ステージに立った落合さんは、沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)移設に伴う名護市辺野古の新基地建設計画や原発再稼動等にも触れ「政権にレッドカードを出し続け、7月の参院選で答えを出しましょう」と訴えた。メッセージを掲げる抗議行動は、今後も毎月3日午後一時に全国各地で実施したいという。
小学五年の孫娘と参加した江戸川区のK・Tさんは「孫達の世代のためにも、戦争のない世の中を守っていきたい」と力を込めた。名古屋市であった「憲法九条を守ろう2015愛知県民のつどい」でも冒頭、参加者約1500人が一斉に紙を掲げた。沢地さんも、講演のため訪れた長野県で紙を掲げた。
《桂歌丸が戦争の空気に危機感!戦争がもたらした落語界の暗い過去》
戦後70年という節目の年。民主主義を無視する形で「戦争法案」が強行採決(?)されて、この夏は過ぎた。そんな中、それでも「戦争の悲惨さ」を伝えようと多くの人が声を上げ続けている。落語家の桂歌丸もその一人である。終戦時には9歳、疎開先の千葉から故郷の横浜に帰ると一面が焼け野原、もちろん生家も焼失していたという経験を持つ歌丸は語る。〈今、日本は色んな事でもめてるじゃないですか。戦争の『せ』の字も、してもらいたくないですよね。あんな思いなんか二度としたくないし、させたくない〉〈テレビで戦争が見られる時代ですからね。あれを見て若い方がカッコいいと思ったら、えらいことになる〉
戦時中、ひもじい思いをしながらも、なんとか口にすることのできたサツマイモばかり食べる幼き日々。それがトラウマとなり〈あたしぁ、とうとう、いまだにサツマイモが食べらんねえんだ〉と告白する歌丸師匠は、落語家らしく、こんな表現で「戦争」の醜さ・悲惨さを表現した。〈人間、人を泣かせる事と人を怒らせる事、これは凄く簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや〉〈人間にとって一番肝心な笑いがないのが戦争をしている所〉戦争には笑いがない。桂歌丸がこう語るのには、戦中の落語界が当時の体制に半ば強制されるような形で53種の噺を口座にかけないよう自粛し、 更に戦意高揚を煽るような新作落語を次々と発表したことで、戦争協力に加担してしまった過去への反省も込められているのだろう。落語界が戦時中辿った道程とは、いかなるものだったのかは演芸評論家である柏木新による『噺家達の戦争─禁演落語と国策落語』に詳しい。突然だが、浅草・本法寺に「噺塚」という塚がある。これは戦時中、葬られた53種の「禁演落語」の墓として1941年10月につくられたものである。これら53の噺は、遊郭に関した噺、妾を扱った噺、色恋にまつわる噺等、国のために質素倹約を奨励された時局に合わないとされたものが選ばれた。その中には吉原を舞台にした「明鳥」等、今でも盛んに高座に上げられる人気の噺も含まれている。これら禁演落語は、あくまで落語界側による「自主規制」の体裁をとっていたが、その過程を、よく見てみれば事実上、国からの半ば強制であった。落語界が自粛に走らなければならなかった理由の一つとして、先ず1940年2月、警視庁が興行取締規則を改悪、落語家・歌手・俳優等、全ての芸能関係者が「技芸者之証」を携帯するよう義務づけられたことがあげられる。これにより権力が庶民に大きな影響を与える芸能を管理することが容易くなった。実際、榎本健一(エノケン)、古川ロッパと並び三大喜劇人として人気を集めた柳家・柳家金語楼は戦中、落語家の鑑札を取り上げられ、俳優への転業を余儀なくされている。
彼の自伝『泣き笑い50年』(日本図書センター)には、当時の警視庁とのやり取りがこう綴られている。〈「君は、噺家の看板を外して俳優の鑑札にし給え。第一、君が噺をしたら、お客が笑うじゃないか…」「そりゃ笑いますよ、笑わせるのが噺家の商売だもの…」「それがいかん、今時そんな…第一それに、芝居なら“ここがいけないから、こう直せ”と結果がつけられるのと違って、落語というのは掴みどころがない…」「でもねえ、三十何年この方、私は高座を離れたことがなかったんですよ」「いやダメだ。どうしても噺がやりたけりゃ余暇にやるがいい。本業はあくまでも俳優の鑑札にしなきゃいかん…」〉庶民から「笑い」すら奪おうとする戦時下体制の酷さが、よく分かるエピソードだ。そして、この「技芸者之証」の制度に加え、1940年7月7日に発布された「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」等、銃後の生活の引き締めを意図した動きも決定的な影響を与える。「ぜいたくは敵だ」といった標語が飛び交う中、遊郭や色恋をネタに笑いを生み出す芸は権力から睨まれるようになっていき、自主規制へと向かわざるを得なくなっていく。しかし、もっと罪深く悲劇的だったのは、落語界が戦争協力の一端を担ってしまった「国策落語」だ。
戦意高揚のための文化政策への協力を強いられた落語界は古典落語の名作を封印するだけに留まらず、時局に合った国策落語を新作として次々と発表していく。内容は軍隊賛美や貯蓄、債券購入、献金奨励等を入れ込んだ、まるでプロパガンダのような内容。本稿冒頭で引いた桂歌丸のインタビューでも当時の国策落語について〈つまんなかったでしょうね〉 〈お国のためになるような話ばっかりしなきゃなんないでしょ。落語だか修身だか、わかんなくなっちゃう〉と語られている。人々を笑わせるために演じられる落語なのに、何もおかしくないという悲しい落語が戦時中は、たくさん高座に上げられた。権力の意向に沿うための落語は、ドンドン歪なものに変質。「笑い」どころか、ただ単に人を傷つけるものにすら変わっていった。当時のスローガン「産めよ殖やせよ」をテーマにつくられた 「子宝部隊長」という落語では、子供を産んでいない女性に向けられる、こんな酷い台詞が登場する。〈何が無理だ。産めよ殖やせよ、子宝部隊長だ。国策線に順応して、人的資源を確保する。それが吾れ吾れの急務だ。兵隊さんになる男の子を一日でも早く生む事が、お国の為に尽くす一つの仕事だとしたら、子供を産まない女なんか意義がないぞ。お前が、どうしても男の子を産まないんなら、国策に違反するスパイ行動として、憲兵へ訴えるぞ〉何も面白くない、女性を愚弄するような、このような台詞から、いかに当時の落語が、ねじ曲げられてしまっていたのかという事がよく分かる。ただ、 このような状況は浪曲・漫才・講談等、庶民の人気を集める他の演芸においても同じだった。しかし芸人達も、ただ唯々諾々とお上のいう事に従っていた訳ではない。林家彦六は著書『噺家の手帖』の中で、漫才師・林家染団治のこんなエピソードを紹介している。〈少し愉快な話をしよう。大東亜戦争になってから国民は金銀を手放しダイヤを提供し、果ては銅像から鉄瓶まで、お上へ差し上げた。その頃のこと。総理は東条英機大将だ。首相官邸に宴会があって二、三の芸人が余興に出演した。その中に漫才で〈ゴリラ〉の真似を得意にしている林家染団治がいた。やがて自分の出演順がきたので対人の芸人と二人で定めの場所へ出て一礼し漫才にとりかかると総理以下主客の居並ぶ客間の中央にテーブルが据えてあって花瓶に花が一ぱい飾ってある。漫才を演りながら染団治が、どうも彼の花瓶はメッキではなくって本物の金だナと睨んだ。やがて漫才の喋りが終わって得意のゴリラの真似になったので『どじょうすくい』を踊りながら舞台から客席へ降りてゆき、卓上の花瓶に近づいて叩いたり、ひっかいたり肚の中で、てめえだけ金を持っていて、この罰当たりウォーッとどなった。庶民の淡い反抗だ〉また浪曲師の広沢虎造も、愛国的内容の浪曲を演じさせられた壇上で、政府の役員を目の前に〈こういう新作台本は私は甚だ不得意で「ヤレ!」といわれてもヤレまへん、芸人は自分の持っている芸を大切にして、その芸でお国に御奉公すればこそ愛国であって、戦争ものを読んだからというて、それが何の愛国だっしゃろ〉と言い放ったとの逸話も残されている。これらのエピソードは聞いているだけで大変胸のすく思いのする話だが、これらはあくまでも「ささやかな抵抗」に過ぎず、戦時下、芸人達は自分達のやりたい芸をできない状況に追い込まれたのは厳然たる事実だ。先程ご紹介した「噺塚」では今でも毎年、落語芸術協会による法要が行われ「禁演落語」を生み出してしまった苦い経験を忘れまいと落語家達が集まっている。
しかし爆笑問題が政治ネタの漫才をNHKに持っていったら却下されたり、SEALDsのデモに参加した石田純一が事務所や広告代理店から圧力を受けたりと、どうも時代は「禁演落語」を生み出してしまった時代に逆戻りしているような気がしてならない。エンタテインメントは庶民の生きる糧であり、そして「笑い」は庶民が持ち得る権力への抵抗の武器だ。
それが奪われるような状況を再び、もたらしてはならないし権力に、そのような介入を許すことも断じて認められない。最後に戦時中は「仏領インドシナ二三隊」に従軍し戦後、人間国宝にまでなった五代目柳家小さんの言葉を引いて本稿を閉じたい。戦争は我々に何の利益ももたらしてはくれないし、何よりも大切な「笑い」を奪うものなのだ。
〈お前らは、よくテレビや映画で見ていると戦争なんていうものは何か勇ましいものだ、カッコいいもんだと思っているだろう。冗談じゃねえぞ。そんなもんじゃねえ。実際、行ってごらんよ〉〈そりゃ、もうむごいもんだぜ〉〈だからな、これから何事かおきても日本は、戦争なんかしちゃいけねえ。行った俺たちが言うんだから間違いねえよ〉(リテラ)
ツイッター上に幼い娘の写真を無断で転用された上「『戦争関連法』が成立する前の反対デモに参加して死亡した」等とウソの書き込みをされたとして、新潟市の両親が東京地方裁判所に投稿者の情報の開示を求め認められた。弁護士によると、こうしたケースで情報の開示が認められるのは異例のことだ。申立をしていたのは新潟市の大嶋陽さんとその妻で14日、弁護士同席の下、会見を開いた。それによると今年7月、ツイッター上に生まれたばかりの娘の写真が無断で転用された上「『戦争関連法』が成立する前の反対デモに無理やり連れて行かれ、熱中症で死亡した」等とウソの書き込みをされたということだ。去年8月、大嶋さんが別のデモに参加した時の投稿写真が転用され、娘の名前は架空のものでしたが、ツイートが拡散したため大嶋さんは今年8月「肖像権の侵害に当たる」として東京地方裁判所に投稿者の情報の開示を求める仮処分の申請をした。その結果、運営するツイッター社に情報の開示を命じる決定が出され、会社側も応じたということだ。弁護士によるとネット上で、成りすましの被害が相次ぐ中、顔写真の無断転用で裁判所が投稿者の情報の開示を命じるのは異例だということだ。開示されたのはネット上の住所に当たるIPアドレスで、弁護士は今後、投稿者の特定を進めるとしている。大嶋さんは「娘を守る親として毅然とした行動を取ることが必要だと考えた」と話している。
《お知らせと【拡散希望】「澤地久枝のよびかけ-アベ政治を許さない!」》
同じポスターを全国一斉にかかげよう!
12月3日(水)午後1時きっかり◆◆全国一斉行動:再開のお知らせ◆◆
政治のあまりの酷さに、また「アベ政治を許さない」を掲げようと思い、呼びかけます。
再開第二回目の12月3日(水)で国会前には、有志が立ちます。そして毎月3日午後1時に繰り返します。各々の場で、同じ抗議ポスターを、同じ時間に掲げます。
現在の政治のありかたに対する、私たちのギリギリの意思表明です。
ファックスやネットでも広げてゆきましょう。;2015年10月 澤地久枝
*「アベ政治をゆるさない」A4ポスターは【アベ政治を許さない(pdf)】でダウンロードしてください。またA3ポスターは「セブンイレブン」のネットプリントで印刷できます。
・予約番号42066022:A3,白黒:プリント有効期限2015/11/05(1枚20円)
【追伸】沖縄-辺野古で警察の住民に対する「集団暴行事件」が多発しています。これに対する論評記事も掲載すべきですが準備ができていません。とりあえず参考サイト【一部屋一泊5万円前後の高級リゾートホテルに泊まり、背後から突き飛ばして公務執行妨害に持ってく機動隊:http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ddf3a5819621d36202ff94876a6ac7b9】をご一読ください。
表向きの「丁寧な説明」「次は経済」とは裏腹に、この「暴力・ヤクザ手法」が「安倍内閣の本質」なのです!
《「九条壊すな」「政権にNO」憲法公布69年にちなみ集会》
憲法公布から69年となる3日、安倍政権が九条の解釈を変更して「戦争関連法」を成立させたことに反発して、各地で憲法に因む集会が開かれた。参加者らは「憲法違反の政治が加速している」「違憲の『戦争法』の廃止を求めよう」と声を上げた。東京都新宿区で行われた集会には約百人が参加。主催した「若者憲法集会実行委員会」メンバーのKさんは「憲法は生まれた直後から様々な攻撃を受けながら命と尊厳を守ってきたが、違憲の戦争法が成立して危機にある。法廃止を求めて声を上げよう」と呼び掛けた。参加した大学生らは「野党共闘を求め、賛成議員を落選させる運動を今後も続けたい」等と発言した。
神戸市で開かれた集会では、五歳の双子を連れて参加した同市東灘区の運転手Sさんは「憲法の大切さを理解してほしいと思い連れてきた。戦争を起こさないことの大切さは分かってくれたみたい」と話した。
高知市では憲法学者の小林節-慶応大名誉教授が講演。約1200人の聴衆を前に「政府が九条を叩き壊した。野党が手を組んで政権をとり、法律を廃止しなければならない」と訴えた。
<国会前>
「戦争関連法」を成立させた安倍政権への抗議として「アベ政治を許さない」とメッセージの書かれた紙が3日午後1時、各地で一斉に掲げられ、平和憲法を守ろうとの思いが広がった。取り組みの呼び掛け人は作家の沢地久枝さんで「戦争法案」が衆院を通過した直後の7月18日に続き、この日が二回目。俳人の金子兜太さんが揮毫したメッセージを、参加者各自がインターネットからプリントして持ち寄る等した。東京・永田町の国会正門前には約600人(主催者発表)が集まった。午後1時になるのに合わせ、女優の木内みどりさんと作家の落合恵子さんがカウントダウンを開始。参加者は、国会に向けて高々とメッセージを掲げ「戦争反対」「九条壊すな」と叫んだ。ステージに立った落合さんは、沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)移設に伴う名護市辺野古の新基地建設計画や原発再稼動等にも触れ「政権にレッドカードを出し続け、7月の参院選で答えを出しましょう」と訴えた。メッセージを掲げる抗議行動は、今後も毎月3日午後一時に全国各地で実施したいという。
小学五年の孫娘と参加した江戸川区のK・Tさんは「孫達の世代のためにも、戦争のない世の中を守っていきたい」と力を込めた。名古屋市であった「憲法九条を守ろう2015愛知県民のつどい」でも冒頭、参加者約1500人が一斉に紙を掲げた。沢地さんも、講演のため訪れた長野県で紙を掲げた。
《桂歌丸が戦争の空気に危機感!戦争がもたらした落語界の暗い過去》
戦後70年という節目の年。民主主義を無視する形で「戦争法案」が強行採決(?)されて、この夏は過ぎた。そんな中、それでも「戦争の悲惨さ」を伝えようと多くの人が声を上げ続けている。落語家の桂歌丸もその一人である。終戦時には9歳、疎開先の千葉から故郷の横浜に帰ると一面が焼け野原、もちろん生家も焼失していたという経験を持つ歌丸は語る。〈今、日本は色んな事でもめてるじゃないですか。戦争の『せ』の字も、してもらいたくないですよね。あんな思いなんか二度としたくないし、させたくない〉〈テレビで戦争が見られる時代ですからね。あれを見て若い方がカッコいいと思ったら、えらいことになる〉
戦時中、ひもじい思いをしながらも、なんとか口にすることのできたサツマイモばかり食べる幼き日々。それがトラウマとなり〈あたしぁ、とうとう、いまだにサツマイモが食べらんねえんだ〉と告白する歌丸師匠は、落語家らしく、こんな表現で「戦争」の醜さ・悲惨さを表現した。〈人間、人を泣かせる事と人を怒らせる事、これは凄く簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや〉〈人間にとって一番肝心な笑いがないのが戦争をしている所〉戦争には笑いがない。桂歌丸がこう語るのには、戦中の落語界が当時の体制に半ば強制されるような形で53種の噺を口座にかけないよう自粛し、 更に戦意高揚を煽るような新作落語を次々と発表したことで、戦争協力に加担してしまった過去への反省も込められているのだろう。落語界が戦時中辿った道程とは、いかなるものだったのかは演芸評論家である柏木新による『噺家達の戦争─禁演落語と国策落語』に詳しい。突然だが、浅草・本法寺に「噺塚」という塚がある。これは戦時中、葬られた53種の「禁演落語」の墓として1941年10月につくられたものである。これら53の噺は、遊郭に関した噺、妾を扱った噺、色恋にまつわる噺等、国のために質素倹約を奨励された時局に合わないとされたものが選ばれた。その中には吉原を舞台にした「明鳥」等、今でも盛んに高座に上げられる人気の噺も含まれている。これら禁演落語は、あくまで落語界側による「自主規制」の体裁をとっていたが、その過程を、よく見てみれば事実上、国からの半ば強制であった。落語界が自粛に走らなければならなかった理由の一つとして、先ず1940年2月、警視庁が興行取締規則を改悪、落語家・歌手・俳優等、全ての芸能関係者が「技芸者之証」を携帯するよう義務づけられたことがあげられる。これにより権力が庶民に大きな影響を与える芸能を管理することが容易くなった。実際、榎本健一(エノケン)、古川ロッパと並び三大喜劇人として人気を集めた柳家・柳家金語楼は戦中、落語家の鑑札を取り上げられ、俳優への転業を余儀なくされている。
彼の自伝『泣き笑い50年』(日本図書センター)には、当時の警視庁とのやり取りがこう綴られている。〈「君は、噺家の看板を外して俳優の鑑札にし給え。第一、君が噺をしたら、お客が笑うじゃないか…」「そりゃ笑いますよ、笑わせるのが噺家の商売だもの…」「それがいかん、今時そんな…第一それに、芝居なら“ここがいけないから、こう直せ”と結果がつけられるのと違って、落語というのは掴みどころがない…」「でもねえ、三十何年この方、私は高座を離れたことがなかったんですよ」「いやダメだ。どうしても噺がやりたけりゃ余暇にやるがいい。本業はあくまでも俳優の鑑札にしなきゃいかん…」〉庶民から「笑い」すら奪おうとする戦時下体制の酷さが、よく分かるエピソードだ。そして、この「技芸者之証」の制度に加え、1940年7月7日に発布された「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」等、銃後の生活の引き締めを意図した動きも決定的な影響を与える。「ぜいたくは敵だ」といった標語が飛び交う中、遊郭や色恋をネタに笑いを生み出す芸は権力から睨まれるようになっていき、自主規制へと向かわざるを得なくなっていく。しかし、もっと罪深く悲劇的だったのは、落語界が戦争協力の一端を担ってしまった「国策落語」だ。
戦意高揚のための文化政策への協力を強いられた落語界は古典落語の名作を封印するだけに留まらず、時局に合った国策落語を新作として次々と発表していく。内容は軍隊賛美や貯蓄、債券購入、献金奨励等を入れ込んだ、まるでプロパガンダのような内容。本稿冒頭で引いた桂歌丸のインタビューでも当時の国策落語について〈つまんなかったでしょうね〉 〈お国のためになるような話ばっかりしなきゃなんないでしょ。落語だか修身だか、わかんなくなっちゃう〉と語られている。人々を笑わせるために演じられる落語なのに、何もおかしくないという悲しい落語が戦時中は、たくさん高座に上げられた。権力の意向に沿うための落語は、ドンドン歪なものに変質。「笑い」どころか、ただ単に人を傷つけるものにすら変わっていった。当時のスローガン「産めよ殖やせよ」をテーマにつくられた 「子宝部隊長」という落語では、子供を産んでいない女性に向けられる、こんな酷い台詞が登場する。〈何が無理だ。産めよ殖やせよ、子宝部隊長だ。国策線に順応して、人的資源を確保する。それが吾れ吾れの急務だ。兵隊さんになる男の子を一日でも早く生む事が、お国の為に尽くす一つの仕事だとしたら、子供を産まない女なんか意義がないぞ。お前が、どうしても男の子を産まないんなら、国策に違反するスパイ行動として、憲兵へ訴えるぞ〉何も面白くない、女性を愚弄するような、このような台詞から、いかに当時の落語が、ねじ曲げられてしまっていたのかという事がよく分かる。ただ、 このような状況は浪曲・漫才・講談等、庶民の人気を集める他の演芸においても同じだった。しかし芸人達も、ただ唯々諾々とお上のいう事に従っていた訳ではない。林家彦六は著書『噺家の手帖』の中で、漫才師・林家染団治のこんなエピソードを紹介している。〈少し愉快な話をしよう。大東亜戦争になってから国民は金銀を手放しダイヤを提供し、果ては銅像から鉄瓶まで、お上へ差し上げた。その頃のこと。総理は東条英機大将だ。首相官邸に宴会があって二、三の芸人が余興に出演した。その中に漫才で〈ゴリラ〉の真似を得意にしている林家染団治がいた。やがて自分の出演順がきたので対人の芸人と二人で定めの場所へ出て一礼し漫才にとりかかると総理以下主客の居並ぶ客間の中央にテーブルが据えてあって花瓶に花が一ぱい飾ってある。漫才を演りながら染団治が、どうも彼の花瓶はメッキではなくって本物の金だナと睨んだ。やがて漫才の喋りが終わって得意のゴリラの真似になったので『どじょうすくい』を踊りながら舞台から客席へ降りてゆき、卓上の花瓶に近づいて叩いたり、ひっかいたり肚の中で、てめえだけ金を持っていて、この罰当たりウォーッとどなった。庶民の淡い反抗だ〉また浪曲師の広沢虎造も、愛国的内容の浪曲を演じさせられた壇上で、政府の役員を目の前に〈こういう新作台本は私は甚だ不得意で「ヤレ!」といわれてもヤレまへん、芸人は自分の持っている芸を大切にして、その芸でお国に御奉公すればこそ愛国であって、戦争ものを読んだからというて、それが何の愛国だっしゃろ〉と言い放ったとの逸話も残されている。これらのエピソードは聞いているだけで大変胸のすく思いのする話だが、これらはあくまでも「ささやかな抵抗」に過ぎず、戦時下、芸人達は自分達のやりたい芸をできない状況に追い込まれたのは厳然たる事実だ。先程ご紹介した「噺塚」では今でも毎年、落語芸術協会による法要が行われ「禁演落語」を生み出してしまった苦い経験を忘れまいと落語家達が集まっている。
しかし爆笑問題が政治ネタの漫才をNHKに持っていったら却下されたり、SEALDsのデモに参加した石田純一が事務所や広告代理店から圧力を受けたりと、どうも時代は「禁演落語」を生み出してしまった時代に逆戻りしているような気がしてならない。エンタテインメントは庶民の生きる糧であり、そして「笑い」は庶民が持ち得る権力への抵抗の武器だ。
それが奪われるような状況を再び、もたらしてはならないし権力に、そのような介入を許すことも断じて認められない。最後に戦時中は「仏領インドシナ二三隊」に従軍し戦後、人間国宝にまでなった五代目柳家小さんの言葉を引いて本稿を閉じたい。戦争は我々に何の利益ももたらしてはくれないし、何よりも大切な「笑い」を奪うものなのだ。
〈お前らは、よくテレビや映画で見ていると戦争なんていうものは何か勇ましいものだ、カッコいいもんだと思っているだろう。冗談じゃねえぞ。そんなもんじゃねえ。実際、行ってごらんよ〉〈そりゃ、もうむごいもんだぜ〉〈だからな、これから何事かおきても日本は、戦争なんかしちゃいけねえ。行った俺たちが言うんだから間違いねえよ〉(リテラ)
《ツイッターにウソ:投稿者の情報開示命令》
ツイッター上に幼い娘の写真を無断で転用された上「『戦争関連法』が成立する前の反対デモに参加して死亡した」等とウソの書き込みをされたとして、新潟市の両親が東京地方裁判所に投稿者の情報の開示を求め認められた。弁護士によると、こうしたケースで情報の開示が認められるのは異例のことだ。申立をしていたのは新潟市の大嶋陽さんとその妻で14日、弁護士同席の下、会見を開いた。それによると今年7月、ツイッター上に生まれたばかりの娘の写真が無断で転用された上「『戦争関連法』が成立する前の反対デモに無理やり連れて行かれ、熱中症で死亡した」等とウソの書き込みをされたということだ。去年8月、大嶋さんが別のデモに参加した時の投稿写真が転用され、娘の名前は架空のものでしたが、ツイートが拡散したため大嶋さんは今年8月「肖像権の侵害に当たる」として東京地方裁判所に投稿者の情報の開示を求める仮処分の申請をした。その結果、運営するツイッター社に情報の開示を命じる決定が出され、会社側も応じたということだ。弁護士によるとネット上で、成りすましの被害が相次ぐ中、顔写真の無断転用で裁判所が投稿者の情報の開示を命じるのは異例だということだ。開示されたのはネット上の住所に当たるIPアドレスで、弁護士は今後、投稿者の特定を進めるとしている。大嶋さんは「娘を守る親として毅然とした行動を取ることが必要だと考えた」と話している。
《お知らせと【拡散希望】「澤地久枝のよびかけ-アベ政治を許さない!」》
同じポスターを全国一斉にかかげよう!
12月3日(水)午後1時きっかり◆◆全国一斉行動:再開のお知らせ◆◆
政治のあまりの酷さに、また「アベ政治を許さない」を掲げようと思い、呼びかけます。
再開第二回目の12月3日(水)で国会前には、有志が立ちます。そして毎月3日午後1時に繰り返します。各々の場で、同じ抗議ポスターを、同じ時間に掲げます。
現在の政治のありかたに対する、私たちのギリギリの意思表明です。
ファックスやネットでも広げてゆきましょう。;2015年10月 澤地久枝
*「アベ政治をゆるさない」A4ポスターは【アベ政治を許さない(pdf)】でダウンロードしてください。またA3ポスターは「セブンイレブン」のネットプリントで印刷できます。
・予約番号42066022:A3,白黒:プリント有効期限2015/11/05(1枚20円)
【追伸】沖縄-辺野古で警察の住民に対する「集団暴行事件」が多発しています。これに対する論評記事も掲載すべきですが準備ができていません。とりあえず参考サイト【一部屋一泊5万円前後の高級リゾートホテルに泊まり、背後から突き飛ばして公務執行妨害に持ってく機動隊:http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ddf3a5819621d36202ff94876a6ac7b9】をご一読ください。
表向きの「丁寧な説明」「次は経済」とは裏腹に、この「暴力・ヤクザ手法」が「安倍内閣の本質」なのです!
(民守 正義)
0コメント