「戦争法案-粉砕」から「安倍政権‐打倒へ」(24)

「戦争法案-粉砕」から「安倍政権‐打倒へ」(24)



《参議院「戦争法案-廃案!」と「安陪内閣打倒!」を目指して!》
<中谷防衛相“IS掃討参加“で「オトボケ発言!」で審議中断(8/19)>
参議院平和安全保障特別委員会において福島委員(社民)が「西側主要国がISILへの掃討を行う場合、日本も後方支援することが政府提案の『戦争法案』では法理論上、可能か?」を質したのに対し中谷防衛相は「政策判断として考えていないし将来もない」と答弁。そこで福島委員が「貴方の政策判断を聞いているのではない。法理論上で聞いている」と再三にわたり質問したが中谷防衛相も「オトボケ発言」を繰り返し度々、審議が中断し鴻池委員長も中谷防衛相に「福島委員の質問に的確に答えられるなら答えなさい」と嗜む始末だ。結局、中谷防衛相は「一般論としてはありうるが、~」と、かろうじて法理論上はあることに留まった。また過日の小池委員(共産)の質問指摘に関る「防衛省統合幕僚監部が同関連法案の成立を前提にして作成した内部シュミレーション文書において同法案の成立時期を8月としていること」という国会無視が明らかになったことへの再質問について中谷防衛相は「5月下旬の作成当時の様々な報道等を踏まえて最も早い場合に対応しなければならないことを考えて記述したものだ」と言訳した。しかし過日の小池委員質問の際には「今、初めて見たもので、すぐさま答えられない」と答弁したが、その後、中谷防衛相自身が指示した事が明らかになっている。更に中谷防衛相は「新たな日米防衛協力の指針、ガイドラインが特定の地域を対象としていないにも関らず、文書では南シナ海に対する関与の在り方が検討事項となっている」と指摘されたのに対しては「あくまでも今後検討していくべき課題として記載したと聞いている」と述べた。なお福島委員は省統合幕僚監部長の証人喚問を求めた。

〔国会前では同法案に反対する人達が抗議の声〕
「戦争法案」を審議している参議院特別委員会再開中、同法案に反対する人達が国会前で抗議の声を上げた。1週間ぶりに参議院での審議が再開されたのを受けて19日夜、国会前には法案に反対する人達が仕事を終えて集まった。集まった人達は「平和憲法を守ろう」「戦争をさせない」等と書かれたプラカードを掲げながら、同関連法案への抗議・廃案を訴えた。

<今では誰でも知っている「砂川判決」陰謀説を暴露!(8/19)>
「『生活の党と山本太郎となかまたち』共同代表-山本委員は、政府が「集団的自衛権=合憲」の拠所にしている「砂川判決」について、冒頭から米国の外交機密文書(情報機密期限切れ)を示し「そもそも砂川判決自体、1959年3月30日に東京地方裁判所で、米軍駐留(日米安保条約に基く)の違憲判決が出て、これに慌てた米国マッカーサー駐日大使が当時の藤山外務大臣に面会をして、地裁違憲判決を破棄さして日本政府が直接、最高裁に跳躍上告することを迫り、結果的に当時の田中最高裁判所長官が跳躍上告を約束した。そこで、この米国から出た、この外交文書の存在は御存知でしたか?」と質問を捲くし立てた。しかし岸田外相は「米国において様々な公文書が公開されており~(中略)~日本国政府として、この公開された文書について一々コメントすることは適当でないと考えます」とゴニョゴニョした答弁。そこで山本議員も単刀直入に「要は、この文書の存在は、知っていたって事でよろしいですね?」と念押し。それでも岸田外相は、往生際悪く「~(中略)~砂川事件の際の最高裁判所への跳躍上告が、この米国の要望によるものである、というご指摘はあたらない」と言いながら、最終的には「(中略)日本側に、これに該当するような文書は存在しない」とシラをきった。
 これに対し山本議員は「米国の公文書館から出てきている交換文書が日本側にはない。それは破棄しただけの話じゃないの?」と皮肉を言った上で再度、陰謀の流れを、さらに具体的に述べ、最後に「砂川判決自体が陰謀判決であって、なおかつ当時としては『集団的自衛権』等、何も想定した判旨は、どこにもない。元々、陰謀判決の上に歪んだ極解解釈。そんな忠犬ハチ公もビックリの『米国の植民地』戦争法案には反対せざるを得ない」と言葉を投げつけて質問を終えた。

《「戦争総理=安倍総理!」「戦争関連法案‐廃案!」の声・抗議行動!》
<特攻した仲間の生まれ変わり…86歳、街頭の学生に感謝>
「死ねと命じられて爆弾もろとも敵艦に突っ込んでいった特攻隊員達。人生には心からの笑いがあり、友情と恋が溢れ咲いていることすら知らず五体爆裂し肉片となって恨み死にした」
 Aさん(86)は今夏、戦争で失った仲間を思いペンをとった。平和憲法の下で戦争をしてこなかった日本。その姿が揺れる現状に耐えられなくなっていた。16歳だったAさんは1944年12月、特攻隊員をめざして海軍飛行予科練習生になった。防府にあった通信学校で何度も「ピーッ」という信号音を聴いた。その音は数秒間続き途切れる。「特攻機が敵艦に突っ込んだ」班長が言った。先輩達の「最後の叫び」だった。特別な感情は湧かない。上官から「死ね」と言われたら死ぬしかないと思っていた。45年8月15日。特攻隊員として死ぬ前に戦争が終わった。日本は全滅するまで戦うと思っていたのに一転して生かされた。終戦後は大学で文学を専攻し学生運動にも身を投じた。細々と書き続けた小説が賞をとった事もある。だが生きる事の意味を実感できないまま歳月を重ねた。
昨夏、安倍政権は憲法解釈を変え、集団的自衛権行使容認を閣議決定。海外で自衛隊が武力を使えるようになる道へ踏み込んだ。「あの時代に戻るのか」焦燥感に駆られた。そんなとき、新聞やテレビで「戦争関連法案」に異を唱える学生らの姿に触れた。自分の命と向き合い、その命を自分のために使おうとしていると見えた。同時に特攻で死んだ仲間らが生まれ変わり街頭で声を上げていると思えた。
「心から感謝する。今の貴方方のようにこそ、我々は生きていたかったのだ」。Aさんが涙を流しながら結んだ文章は、朝日新聞大阪本社版の7月18日付朝刊「声」欄に掲載された。
86歳のメッセージは学生達にも届いた。京都を中心に活動している「SEALDs(シールズ)KANSAI」のメンバー、Bさん(23)はスマートフォンに「声」の画像を保存している。「特攻隊員の死を美化せず、深く考えようと思いました」と話す。東京を拠点とする「SEALDs」のCさん(24)はタブレット端末の待ち受け画面にCさんのツイッターには、批判やナイフの写真が送信される事がある。気持ちが沈んだときに「声」を読むと、背中を押してもらった気持ちになるという。「自分の言葉が支えになっているとしたら嬉しい」心臓や肺を患い、13種の薬が手放せないAさん。いつか学生達の思いを聞きたいと思っている。(管理者:一部責任編集・「声」欄、省略)

<鶴見俊輔が戦場で味わった「恐怖」と戦後に下した「決断」>
〔鶴見俊輔さんが戦地で味わった恐怖〕
哲学者の鶴見俊輔さんが亡くなった。93歳だった。「安保の夏」に逝くなんて、もっと生きていてほしかった。鶴見さんが何かあったら発言してくれる。そう思うだけで、心強い気持ちになれたのに……。
あれこれ感慨にふけっていたら「SEALDsKANSAI」のメンバーであるAさんの「鶴見さん達の存在があるから僕達がある」というコメントが朝日新聞に載った。さすがSEALDsの一員である。鶴見さんという「どんな教条からも自由な知性」(社会学者の上野千鶴子さんの言葉)が耕した土壌があるから、彼らの反安保運動が広がるのだとちゃんと分かっている。
では何故、鶴見さんは戦後を代表する思索者になったのだろう。その理由は『鶴見俊輔に戦後世代が聞く 戦争が遺したもの』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二の共著)で余すところなく語られている。祖父は戦前の有力政治家・後藤新平。父はベストセラー作家で代議士。鶴見さんはそんな名家に生まれながら母の躾の厳しさに反発し少年時代から放蕩と自殺未遂を繰り返した。15歳で渡米。ハーバード大で言語学や哲学を学び19歳のとき、日米開戦で収容所入りか帰国かの選択を迫られた。
日本は〈すぐにも負ける〉。米国の方が〈いくらかでも正しいと思ったけど、勝ったアメリカにくっついて、英語を話して日本に帰ってくる自分なんて耐えられない〉と帰国した。
結核を病んだままジャカルタの海軍武官府に送られ、敵側の短波放送の翻訳に従事した。
ちょっとした厭戦気分を漏らしただけで憲兵に密告される時代である。自分の反戦思想を周囲に悟られはせぬかと緊張のし通しで、余計な事は一切、喋らぬようにしていたと鶴見さんは回想し、こう述べている。〈みんな「鬼畜米英を殺せ」とか言って日本が勝つと思っている。その間に一人置かれると、ものすごい恐怖なんだ。日本人そのものが怖い。/だから当時は上官と話していると、私としては自分の内面を一生懸命にごまかしているから、チックみたいな症状が起こって、手をズボンにこすりつけるのが止まないんだ。白い服を着ていると汚れて黒くなるのだよ。もう大変な恐怖だった〉

〔「敵を殺せ」と命令されたらどうするか〕
鶴見さんの周囲には捕虜を試し切りしたのを自慢する兵士がいた。偶々拿捕され収容中に病気になったインドの民間人の殺害を命じられた同僚もいた。日本の軍人さえ薬が不足しているのに、そんな奴にやる薬はないというのが殺害の理由だった。
鶴見さんが後で同僚から聞いた話では、そのインド人に〈毒薬を飲ませたんだが死なないんだ。それで生きたまま、穴に入れて土をかけたが、まだ死ななくてグウグウ言ってうめいていた。それからピストルを乱射して、土の中でうめくのが止まったから、ようやく帰ってきた〉のだという。軍はアヘンを売買し、機密費で軍人の階級別慰安所を作っていた。将校や兵隊は毎日アヘンを吸ったり、遊びに出かけたりしている。が、敵側の放送を聴いている鶴見さんには戦争の最前線が刻々と近づいてくるのが判る。そんな状況下で鶴見さんは自分がすべき最後の決断について考えた。ついに敵が上陸してきたらどうするか。日本の戦争目的を信じてないから敵と戦って殺すことだけはしたくない。〈だから残る選択肢は、上官に向かって銃を向けて反抗するか、自分に向けて自殺するか、そのどっちかしかないと考えた。だけど結局、私が選んだのは後者だった。上官に鉄砲を向けるだけの気力はなかった。戦争中に私は、生き残りたいと思ったことはない。殺したくない。ただそれだけだった〉
結核の悪化で手術を2度受けた。が、治らないので1944年末、内地に送還された。おかげで鶴見さんは命拾いするのだが戦後もずっと悩み続けた。〈だってあのとき、自分に「敵を殺せ」という命令が下ったら、どうしていただろうと考える訳です。命令を断わって一思いに自殺したと思いたいのだけれども、戦争中はもう毎日が恐ろしくて暮らしている訳だから、その恐怖に屈して命令を聞いてしまったかもしれない〉

〔SEALDsはベ平連の再来〕
悩み抜いた末に鶴見さんが出した結論は「自分は人を殺した。人を殺すのは悪い」と一息で言える人間になろうという事だった。
 和歌で上の句と下の句の間に隙間ができるのを腰折れと言う。「一息で言える」とは腰折れにならぬことだ。それが自分としての最高の理想で、それ以上の理想は自分に対して立てず他人にも要求しない。
〈どんな恐怖にも理屈にも迷わされないで、一息でバッと「自分は人を殺した。人を殺すのは悪い」と言えるようになる。そこまでくるのに戦後、随分、時間がかかりました。自分の中で哲学的に解決がついたのは、今から10年ぐらい前ですよ〉と鶴見さんは言う。鶴見さんが生涯考え抜いたのは、戦争という極限状況下での加害責任の問題だった。直接手を下したかどうかに関わりなく、せめて自分が加担した絶対悪を直視できる人間でありたいという心からの叫びだろう。
 その鶴見さんの思いの結晶が'65年に作家の小田実さんらと結成したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)だ。掲げたスローガンは「殺すな」。参加も脱退も本人の自由。命令する者は誰もいない。つまり軍隊と正反対の開かれた運動体だった。そのベ平連が何十万もの人々を動かしたのを読者もご存じだと思う。SEALDsはベ平連の再来で、更に創意工夫を重ねた新世代の運動体だ。(管理者:べ平連とは「似ているところもあるが『再来』とは言い過ぎ。非なるところも多い」因みに管理者は70年安保の「関西べ平連事務局員」であった)
もし鶴見さんが元気だったら、彼らと共に街頭を歩かれたに違いない。叶うことなら、その姿を見たかった。
 そして貴方の志は見事に受け継がれましたねと声をかけたかった。
(『週刊現代』本年8月15日・22日合併号より:管理者ー一部責任編集)
(民守 正義)


《ガイド》
 ★「戦争法案を止める緊急デモ in OSAKA」
全国若者一斉行動に大阪から連帯します。
   8月23日(日)16:00集合
   集合場所;浪速区・関谷町公園東側グラウンド(最寄り駅:地下鉄堺筋線「恵美須町」)
全国若者一斉行動HP〔http://www.takebackdemocracy2015.com/〕

★「8・30 おおさか大集会~戦争法案を廃案に!アベ政治を許さない!」
8月30日(日)16:00~/集会17:00頃からパレード/於:大阪‐扇町公園
*いよいよ実質的な闘いの天王山です。家族揃って参加をどうぞ♪
★「戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会十万人・全国百万人大行動」
8月30日(日)14;00~/於:東京‐国会議事堂前

■〔民主党「対案」なし!「闘いの励ましメール」を!〕【民主党本部 ご意見メール担当:〒100-0014 東京都千代田区永田町1-11-1:電話 03-3595-9988:
URL http://www.dpj.or.jp:
民主党へのご意見はこちらから→:
https://ssl.dpj.or.jp/form/contact/request】
文例;「戦争法案に対案ナンセンス!直ちに廃案を!」