「戦争法案-反対」の蠢き(27)
「戦争法案-反対」の蠢き(27)
《「戦争総理=安倍総理!」「戦争関連法案‐廃案!」の声・抗議行動!》
<SEALDs等は本当に「戦争関連法案‐廃案!」の具体戦術を持っているのか?>
先ずSEALDsや安全保障関連法案に反対する学者の会等々の闘いによって今日の「戦争関連法案‐廃案!」の国民世論・運動を盛上げ維持してきた事に敬意を表する。その上で少々、厳しい意見を呈する。8月30日「国会包囲行動」の成功は私も願ってやまないが、その後、リベラル野党(民主党・社民党・公明党平和派・みんなの党・共産党等)との念密な同法案廃案に向けた作戦行動の協議はできているのか?それなりに答えられる中心的な方、あるいは岩上さんでも山口法政大教授でもいいから答えてもらいたい。
ハッキリ言って何万人のデモ・国会包囲行動を何回しても「アベ」の消化試合に付き合っている程度では同法案は成立してしまう。今は共産党‐小池議員のおかげで審議ストップしているが、次に審議不能・マヒに持ち込んで、やむなく廃案に追い詰めるためには、どのようにリベラル野党が具体戦術に取り組むのか、イメージだけでも意思統一する必要がある。本当は、この問題提起はSEALDs等に言うのではなくリベラル野党に言うべき事だが、その中心的な役割を果たすべき民主党が、国会質問でも「穏健派」で話にならない。(蓮舫・福山・大串等)それどころか「細野」は「維新」と一緒になって「憲法違反の拡大解釈=集団的自衛権」を前提とした「戦争法案―対案」を合作する始末だ。それだけにSEALDs等には、もっとリベラル野党に「物言う大衆運動団体」になってもらいたい。
多少、ヤツアタリ的苦言である事は解っている。でも時間が無いのだ!
<吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(前編)※「週刊朝日」抜粋>
戦争の犠牲者に祈りを捧げる夏を迎えた。戦後70年。焦土からの驚異的な復興と平和な社会をつくりあげながら安全保障(戦争)政策で今、日本が岐路に立つ。戦後に寄り添い、数多くの映画に出演してきた吉永小百合さんが、戦争の愚かさ、平和の尊さを語った。
* * *
数日前に映画「母と暮せば」の撮影を終えたばかり。12月の公開に向けて撮影中とはまた違う忙しさです。私にとっては119本目の出演作になりました。救急車だと言って笑っているのですけど、テーマが長崎の原爆ですから、戦後70年の今年の内に公開しようとスタッフみんなで頑張っています。
この忙しさに追われている間に「戦争関連法案」が衆議院で強行採決されてしまいました。映画関係者らでつくる「映画人九条の会」の反対アピールの賛同者に加わりました。
振り返ってみれば、私は10代で映画の世界に入ってからは、演じることで社会も戦争も原爆も学んできたと思っています。更に人との出会いによって、平和や核の事を考えてきました。もしも作品で出会わなかったら、私は原爆も戦争もここまで考える事はなかったのかもしれません。でもまた同時に終戦の年に生まれた一人として、考え続けなければならないんだろう、という思いも持つのです。私自身、父や母に戦争について聞いたことは、殆どありませんでした。南方戦線に送られていた父が病気で倒れたために帰還できて、私が生まれた事は、それとなく聞いています。また私が生まれる直前に東京大空襲がありました。だから私はこの世に生まれ、生かされた事に感謝しなければいけないと思っています。生まれなかった命も、生まれてすぐに奪われた命もあるのですから。母からは、私が生まれた頃は、食べるものもないし母乳も出ないし、いきなり、みそ汁を含ませたとか、私を背負って神奈川県の農村へ食料を求めて通ったとか、そんな話を聞きました。子供を連れていると、いくらか多めに野菜や牛乳等を分けて貰えたそうです。戦中から戦後へ、親の世代が体験した話を、もっともっと聞いておくべきだったと今になって悔やんでいます。
〔演じることで戦争を学んだ〕
原爆を描いた映画に出演した最初は1966年の「愛と死の記録」です。原爆の後遺症に苦しむ青年と彼を愛する娘の悲劇です。大江健三郎さんの『ヒロシ マ・ノート』の中で紹介されている実話で監督は蔵原惟繕さん。8月の広島で毎日、厳しいリハーサルとロケが続いて、音を上げそうになりましたけど、演じている内にドンドン、ヒロインに引き付けられてヒロインの心情と一体となって思い切り演じられたという充足感を持つ事ができました。
ところが完成した作品からは、原爆ドームやケロイドの顔が出ている場面が殆ど削られてしまいました。当時は、また今とは違う様々な思惑があったのでしょうが、原爆をテーマにした映画なのに何故という強い思いの中で、撮影所の食堂前の芝生で座り込みをしてしまいました。そして、それから2年後、映画「あゝひめゆりの塔」に出演しました。臨時看護婦部隊として従軍し、死に追いやられた沖縄師範の女子学生たちの悲劇を描いた作品でした。
当時、本当の意味で、まだ戦争を解っていなかった私は、映画に描かれたあまりの悲惨さに、ただただ泣き叫ぶだけでした。ところが完成試写を見た私は愕然としました。スクリーンの中の私達が、あまりにも泣いているので本当の厳しさが観客に伝わらないのではないか、こんな演技で良かったのだろうかと考え、いたたまれなくなってしまいました。
自分自身、頑張った事は事実ですけれど、演技者の気持ちと観客は必ずしも一致しないのではないかと痛感したのです。それから何年もして実際のひめゆり部隊にいて生き残った方が「涙も出ない状況でした」と話されるのをテレビで拝見して、戦争の本当の過酷さを突きつけられた思いがしました。
どちらも、いろいろな意味で私には思い出に残る、青春時代の作品です。
〔原爆詩を朗読して一字一句を大切に〕
その後「夢千代日記」に出演します。81年の2月から放映されたNHKの連続ドラマで、出演したテレビドラマの中でも最も好きな作品です。私の演じた主人公の夢千代は、母親の胎内にいたときに広島で被爆した胎内被爆者。原爆症を発症しており余命2年と宣告されていました。この出演がキッカケとなって、原爆の詩の朗読が始まりました。86年に東京で開かれた平和の集いで被爆者の団体から依頼されて原爆詩人といわれる峠三吉さんや栗原貞子さんの詩を朗読した事が最初です。
それからは映画の撮影に入っていないときに、演劇や音楽等の舞台に触れる機会の少ない、地方の中学校等を中心に出かけては朗読していました。全校生徒三十数人といった山村の分校を訪ね、生徒達と交流しながら原爆詩を読んだ事もあります。そして「第二楽章」と題して、私の「編」という形で本になりCDも出すことができました。
「第二楽章」とは恐ろしい出来事そのものが起きた瞬間から時間が流れて、次の世代へ移っていく時代になって語り継ぐべき事を、どう語っていけばいいだろうと考えて生まれたタイトルです。音楽でいえば、激しいアレグロではなくて静かで穏やかなアダージョ。経験そのものを持たない世代の人にも共感を持ってもらえるように優しさと想像力をもって聴いて貰えるように語りかけたいと思いました。
ですから朗読は自分の感情を入れないで、一字一句丁寧に読んでいく事を心がけています。悲惨さや哀しさに読み手の私の感情が高ぶっていると、聴く人はそこで終わってしまいますから。自分をコントロールする事の大切さを自分に言い聞かせています。
井伏鱒二さんの『黒い雨』の朗読をしている奈良岡朋子さんが、やはり「一字一句伝える事を大切にしている」と言われたのを新聞で拝見して、大先輩がそう言われるのだから、私もこれでいいんだ、と納得しています。
朗読の会は、その後、海外でも持たれました。アメリカ・シアトルの郊外での朗読が最初の海外です。95年の事ですが、この2カ月前に米スミソニアン博物館で予定されていた原爆展が中止になっていましたから、日が迫ってくるにつれて、アメリカ人に原爆を伝える事ができるだろうかととても不安になって眠れなくなったほどです。でも朗読が終わったとき、皆さんが立ち上がって拍手をしてくださったので、ほんとにほっとしたものです。
イギリスのオックスフォード大学での朗読は2011年の秋です。坂本龍一さんのピアノの演奏に支えられての朗読でしたが、このときも幸いに多くの共感をもって受け入れられました。坂本さんが「朗読は音楽」だと言われましたが、日本語で朗読しても音楽と同じで言葉の壁を越えて伝わるのですね。
<吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(後編)※「週刊朝日」抜粋>
今年はワシントンで画家・丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」の展覧会が開かれていますよね。原爆投下直後の広島で惨状を目の当たりにし、原爆を描く事をライフワークとした夫妻です。惨状を写真で直接伝える事も大切ですが、作家のフィルターを通して詩や小説、絵画、演劇といった表現で伝える事で、写真とはまた違う共感を呼ぶという事もあると思います。
そういう意味でも、ヒロシマの悲劇を最も強く伝える戯曲が、井上ひさしさんの「父と暮せば」だと思います。原爆で死んで幽霊になった父と生き残った娘の物語です。
この本の冒頭で広島と長崎に落とされた原爆のことを、日本人の上に落とされただけではなく、人間の存在全体に落とされたものであり、だからまた、あの地獄を知っていながら知らないふりをするのは、何にもまして罪深い事だと述べています。
人間が人間として生きる事も死ぬ事も一瞬にして奪ってしまう原爆は、本当にとんでもないこと。その現実を私達は絶対に知っていなければならないと思うんですね。
どんな反対や困難があっても原爆展も続けていく事が大切なんだと思います。めげそうになっても辛い状況の中でも声を上げて「戦争はいけない、核はいやだ」と伝えていかなければいけないと思うのです。
その真実の姿を見なかったために、とても残念な事に私達はもちろんの事、被爆者さえも、これだけ大きな力を持つ核なんだから、平和に利用したら素晴らしいエネルギーになるんじゃないかと思ってしまいました。そして、ちゃんとした知識も持たずにウカウカしている内に、この狭い列島に54基もの原発ができて福島の悲劇を招きました。
あれから4年も経つというのに、いまだに放射性汚染水が漏れているという報道があります。福島の人達の怒りと悲しみは、今でも癒やされる事はありません。
そして、あの大震災の夏、服飾デザイナーの三宅一生さんからの依頼で、福島の原発被災者の方の詩を朗読しました。三宅さんには前々から原爆の詩の朗読をとお声をかけて頂いていたのですが、3・11後に福島の詩人・和合亮一さんの詩を託されたのです。そして今年の3月、福島の詩人達、子供達の詩を朗読したCDを作りました。それが「第二楽章 福島への思い」です。
《ガイド》
★「戦争法案を止める緊急デモ in OSAKA」
全国若者一斉行動に大阪から連帯します。
8月23日(日)16:00集合
集合場所;浪速区・関谷町公園東側グラウンド
(最寄り駅:地下鉄堺筋線「恵美須町」)
全国若者一斉行動HP〔http://www.takebackdemocracy2015.com/〕
★「8・30 おおさか大集会~戦争法案を廃案に!アベ政治を許さない!」
8月30日(日)16:00~/集会17:00頃からパレード/於:大阪‐扇町公園
*いよいよ実質的な闘いの天王山です。家族揃って参加をどうぞ♪
★「戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会十万人・全国百万人大行動」
8月30日(日)14;00~/於:東京‐国会議事堂前
■〔民主党「対案」なし!「闘いの励ましメール」を!〕【民主党本部 ご意見メール担当:〒100-0014 東京都千代田区永田町1-11-1:電話 03-3595-9988:URL http://www.dpj.or.jp:
民主党へのご意見はこちらから→:https://ssl.dpj.or.jp/form/contact/request】
文例;「戦争法案に対案ナンセンス!直ちに廃案を!」
《「戦争総理=安倍総理!」「戦争関連法案‐廃案!」の声・抗議行動!》
<SEALDs等は本当に「戦争関連法案‐廃案!」の具体戦術を持っているのか?>
先ずSEALDsや安全保障関連法案に反対する学者の会等々の闘いによって今日の「戦争関連法案‐廃案!」の国民世論・運動を盛上げ維持してきた事に敬意を表する。その上で少々、厳しい意見を呈する。8月30日「国会包囲行動」の成功は私も願ってやまないが、その後、リベラル野党(民主党・社民党・公明党平和派・みんなの党・共産党等)との念密な同法案廃案に向けた作戦行動の協議はできているのか?それなりに答えられる中心的な方、あるいは岩上さんでも山口法政大教授でもいいから答えてもらいたい。
ハッキリ言って何万人のデモ・国会包囲行動を何回しても「アベ」の消化試合に付き合っている程度では同法案は成立してしまう。今は共産党‐小池議員のおかげで審議ストップしているが、次に審議不能・マヒに持ち込んで、やむなく廃案に追い詰めるためには、どのようにリベラル野党が具体戦術に取り組むのか、イメージだけでも意思統一する必要がある。本当は、この問題提起はSEALDs等に言うのではなくリベラル野党に言うべき事だが、その中心的な役割を果たすべき民主党が、国会質問でも「穏健派」で話にならない。(蓮舫・福山・大串等)それどころか「細野」は「維新」と一緒になって「憲法違反の拡大解釈=集団的自衛権」を前提とした「戦争法案―対案」を合作する始末だ。それだけにSEALDs等には、もっとリベラル野党に「物言う大衆運動団体」になってもらいたい。
多少、ヤツアタリ的苦言である事は解っている。でも時間が無いのだ!
<吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(前編)※「週刊朝日」抜粋>
戦争の犠牲者に祈りを捧げる夏を迎えた。戦後70年。焦土からの驚異的な復興と平和な社会をつくりあげながら安全保障(戦争)政策で今、日本が岐路に立つ。戦後に寄り添い、数多くの映画に出演してきた吉永小百合さんが、戦争の愚かさ、平和の尊さを語った。
* * *
数日前に映画「母と暮せば」の撮影を終えたばかり。12月の公開に向けて撮影中とはまた違う忙しさです。私にとっては119本目の出演作になりました。救急車だと言って笑っているのですけど、テーマが長崎の原爆ですから、戦後70年の今年の内に公開しようとスタッフみんなで頑張っています。
この忙しさに追われている間に「戦争関連法案」が衆議院で強行採決されてしまいました。映画関係者らでつくる「映画人九条の会」の反対アピールの賛同者に加わりました。
振り返ってみれば、私は10代で映画の世界に入ってからは、演じることで社会も戦争も原爆も学んできたと思っています。更に人との出会いによって、平和や核の事を考えてきました。もしも作品で出会わなかったら、私は原爆も戦争もここまで考える事はなかったのかもしれません。でもまた同時に終戦の年に生まれた一人として、考え続けなければならないんだろう、という思いも持つのです。私自身、父や母に戦争について聞いたことは、殆どありませんでした。南方戦線に送られていた父が病気で倒れたために帰還できて、私が生まれた事は、それとなく聞いています。また私が生まれる直前に東京大空襲がありました。だから私はこの世に生まれ、生かされた事に感謝しなければいけないと思っています。生まれなかった命も、生まれてすぐに奪われた命もあるのですから。母からは、私が生まれた頃は、食べるものもないし母乳も出ないし、いきなり、みそ汁を含ませたとか、私を背負って神奈川県の農村へ食料を求めて通ったとか、そんな話を聞きました。子供を連れていると、いくらか多めに野菜や牛乳等を分けて貰えたそうです。戦中から戦後へ、親の世代が体験した話を、もっともっと聞いておくべきだったと今になって悔やんでいます。
〔演じることで戦争を学んだ〕
原爆を描いた映画に出演した最初は1966年の「愛と死の記録」です。原爆の後遺症に苦しむ青年と彼を愛する娘の悲劇です。大江健三郎さんの『ヒロシ マ・ノート』の中で紹介されている実話で監督は蔵原惟繕さん。8月の広島で毎日、厳しいリハーサルとロケが続いて、音を上げそうになりましたけど、演じている内にドンドン、ヒロインに引き付けられてヒロインの心情と一体となって思い切り演じられたという充足感を持つ事ができました。
ところが完成した作品からは、原爆ドームやケロイドの顔が出ている場面が殆ど削られてしまいました。当時は、また今とは違う様々な思惑があったのでしょうが、原爆をテーマにした映画なのに何故という強い思いの中で、撮影所の食堂前の芝生で座り込みをしてしまいました。そして、それから2年後、映画「あゝひめゆりの塔」に出演しました。臨時看護婦部隊として従軍し、死に追いやられた沖縄師範の女子学生たちの悲劇を描いた作品でした。
当時、本当の意味で、まだ戦争を解っていなかった私は、映画に描かれたあまりの悲惨さに、ただただ泣き叫ぶだけでした。ところが完成試写を見た私は愕然としました。スクリーンの中の私達が、あまりにも泣いているので本当の厳しさが観客に伝わらないのではないか、こんな演技で良かったのだろうかと考え、いたたまれなくなってしまいました。
自分自身、頑張った事は事実ですけれど、演技者の気持ちと観客は必ずしも一致しないのではないかと痛感したのです。それから何年もして実際のひめゆり部隊にいて生き残った方が「涙も出ない状況でした」と話されるのをテレビで拝見して、戦争の本当の過酷さを突きつけられた思いがしました。
どちらも、いろいろな意味で私には思い出に残る、青春時代の作品です。
〔原爆詩を朗読して一字一句を大切に〕
その後「夢千代日記」に出演します。81年の2月から放映されたNHKの連続ドラマで、出演したテレビドラマの中でも最も好きな作品です。私の演じた主人公の夢千代は、母親の胎内にいたときに広島で被爆した胎内被爆者。原爆症を発症しており余命2年と宣告されていました。この出演がキッカケとなって、原爆の詩の朗読が始まりました。86年に東京で開かれた平和の集いで被爆者の団体から依頼されて原爆詩人といわれる峠三吉さんや栗原貞子さんの詩を朗読した事が最初です。
それからは映画の撮影に入っていないときに、演劇や音楽等の舞台に触れる機会の少ない、地方の中学校等を中心に出かけては朗読していました。全校生徒三十数人といった山村の分校を訪ね、生徒達と交流しながら原爆詩を読んだ事もあります。そして「第二楽章」と題して、私の「編」という形で本になりCDも出すことができました。
「第二楽章」とは恐ろしい出来事そのものが起きた瞬間から時間が流れて、次の世代へ移っていく時代になって語り継ぐべき事を、どう語っていけばいいだろうと考えて生まれたタイトルです。音楽でいえば、激しいアレグロではなくて静かで穏やかなアダージョ。経験そのものを持たない世代の人にも共感を持ってもらえるように優しさと想像力をもって聴いて貰えるように語りかけたいと思いました。
ですから朗読は自分の感情を入れないで、一字一句丁寧に読んでいく事を心がけています。悲惨さや哀しさに読み手の私の感情が高ぶっていると、聴く人はそこで終わってしまいますから。自分をコントロールする事の大切さを自分に言い聞かせています。
井伏鱒二さんの『黒い雨』の朗読をしている奈良岡朋子さんが、やはり「一字一句伝える事を大切にしている」と言われたのを新聞で拝見して、大先輩がそう言われるのだから、私もこれでいいんだ、と納得しています。
朗読の会は、その後、海外でも持たれました。アメリカ・シアトルの郊外での朗読が最初の海外です。95年の事ですが、この2カ月前に米スミソニアン博物館で予定されていた原爆展が中止になっていましたから、日が迫ってくるにつれて、アメリカ人に原爆を伝える事ができるだろうかととても不安になって眠れなくなったほどです。でも朗読が終わったとき、皆さんが立ち上がって拍手をしてくださったので、ほんとにほっとしたものです。
イギリスのオックスフォード大学での朗読は2011年の秋です。坂本龍一さんのピアノの演奏に支えられての朗読でしたが、このときも幸いに多くの共感をもって受け入れられました。坂本さんが「朗読は音楽」だと言われましたが、日本語で朗読しても音楽と同じで言葉の壁を越えて伝わるのですね。
<吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(後編)※「週刊朝日」抜粋>
今年はワシントンで画家・丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」の展覧会が開かれていますよね。原爆投下直後の広島で惨状を目の当たりにし、原爆を描く事をライフワークとした夫妻です。惨状を写真で直接伝える事も大切ですが、作家のフィルターを通して詩や小説、絵画、演劇といった表現で伝える事で、写真とはまた違う共感を呼ぶという事もあると思います。
そういう意味でも、ヒロシマの悲劇を最も強く伝える戯曲が、井上ひさしさんの「父と暮せば」だと思います。原爆で死んで幽霊になった父と生き残った娘の物語です。
この本の冒頭で広島と長崎に落とされた原爆のことを、日本人の上に落とされただけではなく、人間の存在全体に落とされたものであり、だからまた、あの地獄を知っていながら知らないふりをするのは、何にもまして罪深い事だと述べています。
人間が人間として生きる事も死ぬ事も一瞬にして奪ってしまう原爆は、本当にとんでもないこと。その現実を私達は絶対に知っていなければならないと思うんですね。
どんな反対や困難があっても原爆展も続けていく事が大切なんだと思います。めげそうになっても辛い状況の中でも声を上げて「戦争はいけない、核はいやだ」と伝えていかなければいけないと思うのです。
その真実の姿を見なかったために、とても残念な事に私達はもちろんの事、被爆者さえも、これだけ大きな力を持つ核なんだから、平和に利用したら素晴らしいエネルギーになるんじゃないかと思ってしまいました。そして、ちゃんとした知識も持たずにウカウカしている内に、この狭い列島に54基もの原発ができて福島の悲劇を招きました。
あれから4年も経つというのに、いまだに放射性汚染水が漏れているという報道があります。福島の人達の怒りと悲しみは、今でも癒やされる事はありません。
そして、あの大震災の夏、服飾デザイナーの三宅一生さんからの依頼で、福島の原発被災者の方の詩を朗読しました。三宅さんには前々から原爆の詩の朗読をとお声をかけて頂いていたのですが、3・11後に福島の詩人・和合亮一さんの詩を託されたのです。そして今年の3月、福島の詩人達、子供達の詩を朗読したCDを作りました。それが「第二楽章 福島への思い」です。
(民守 正義)
《ガイド》
★「戦争法案を止める緊急デモ in OSAKA」
全国若者一斉行動に大阪から連帯します。
8月23日(日)16:00集合
集合場所;浪速区・関谷町公園東側グラウンド
(最寄り駅:地下鉄堺筋線「恵美須町」)
全国若者一斉行動HP〔http://www.takebackdemocracy2015.com/〕
★「8・30 おおさか大集会~戦争法案を廃案に!アベ政治を許さない!」
8月30日(日)16:00~/集会17:00頃からパレード/於:大阪‐扇町公園
*いよいよ実質的な闘いの天王山です。家族揃って参加をどうぞ♪
★「戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会十万人・全国百万人大行動」
8月30日(日)14;00~/於:東京‐国会議事堂前
■〔民主党「対案」なし!「闘いの励ましメール」を!〕【民主党本部 ご意見メール担当:〒100-0014 東京都千代田区永田町1-11-1:電話 03-3595-9988:URL http://www.dpj.or.jp:
民主党へのご意見はこちらから→:https://ssl.dpj.or.jp/form/contact/request】
文例;「戦争法案に対案ナンセンス!直ちに廃案を!」
0コメント