コラムーひとりごと60 「憲法の番人『故 滝井 繁男さん』」

コラムーひとりごと60
「憲法の番人『故 滝井 繁男さん』」



{憲法の番人『故 滝井 繁男さん』という人}

<「故 滝井 繁男さん」の人生>
私は全く「滝井 繁男さん」という方を知らなかった、この方が亡くなった新聞での悲報に接し、初めて知った次第である。でも日本の法曹界に、まだまだ「憲法の番人」とも言える方々が地道に頑張っていることを知って、頭の下がる思いと恥ずかしい思いになる。
 滝井さんは1936年生まれ(没78歳)。人権派弁護士から最高裁判事に転じ、社会的弱者の救済に道を開いた。1999年には「大阪弁護士会会長」に就任している。
 滝井さんは亡くなる直前まで、司法界を目指す若者に「法曹は豊かな人間性を身に付け、平和憲法実現に力を尽くすべきだ」と言う事を講演等で語り継ごうとして、書き残した草稿が見つかった。それは「憲法の番人」が紡いだ「遺言」でもある。

<「憲法の番人」が言いたかったこと>
〔我が国においては旧憲法下、行政に大きな比重がおかれ、司法はもとより立法機関でさえ、官の主導を抑制できなかった〕
〔我が国司法は、現行憲法の下で、その面目を一新し(中略)三権分立が高らかに謳われた〕
◎滝井さんは、かつて「朝日」の取材で「崇高な理念を掲げた憲法の下で人々の意識も社会の仕組みも大きく変ると信じていました」と語った。滝井さんは1960~80年代、大阪空港の夜間飛行差止め訴訟で、先頭に立って闘う。国側は「空港をどう運用するかは国の権限」と主張。和解にこぎつけるまで14年の歳月がかかった。
〔戦後の行政システムの骨格は、基本的には変ることはなかった〕
◎戦後も続く「官主導」の社会。そこに生じるヒズミを法律家は正せるのか。
〔独創的な製品は、様々な引き出しを持っていてこそ生まれる。(中略)法律家の仕事は、世間で考えられているより、はるかにクリエイティブなものだ〕
◎2002年、最高裁判事に就任して4年後、利息制限法と出資法の上限金利の間にある「グレーゾーン金利」での貸し付けを実質、認めない判決を導く。
◎滝井さんの退官後の弁。「立法が動かず、司法に救いを求めてきた時、答えないといけない事もある」
〔国民は永い間、統治客体であることに慣れ、統治主体としての自覚を欠いたまま半世紀以上を過ごしてきている。(中略)意識改革は一朝一夕にできることではない〕
◎滝井さんは、一人ひとりの市民が「統治される側」から脱却する大切さを訴える。
◎更に滝井さんは言う。「国民主権を実質あるもにするのは市民の責務。それが果たせなけば憲法は、ただの美文に終わる」

<「安倍政権」と故 滝井さん>
安倍政権は昨年7月、憲法9条の解釈を閣議決定で変更し、集団的自衛権の行使容認に踏み切った。故 滝井さんには「国民を置き去りにするもの」と映った。
7か月前「知る権利」と激しくぶつかる特定秘密保護法も成立したばかり。
「歯止めが少しづつ外されている。こういう一つひとつの動きを見過ごすと、戦争に近づいていく」
そして現代の若者達に、特に伝えかったメッセージ。
「21世紀の司法を担う法曹には、豊かな人間性や感受性を基本とし、社会に対する洞察力、人権感覚等が一層、強く求めらる」

 確かに安倍政権の全く「憲法無視」の「集団的自衛権容認」「戦争準備一連法案」の論議に付き合っていると、本来あるべき現行憲法「平和主義」が感覚的に遠ざかっている自分に気づき故 滝井さんのメッセージで「自分が生まれ育った故郷」に戻された気持ちになる。
 改めて「自分の活動人生の原点は『憲法-平和主義』にある」ことを忘れずに現実の「憲法違反-アベ」と闘っていく決意を新たにした。
                  
(民守 正義)