コラムーひとりごと33 「卒業式」と「日の丸・君が代」

コラムーひとりごと33
「卒業式」と「日の丸・君が代」



 今年の府立高校卒業式が3月1日前後、府内の中学校が3月1 1日で、本稿掲載の頃は、おそらく共に終了している。そして今年の府立高校卒業式では「君が代斉唱;不起立」が8名、出たようである。多分、これから「大阪府君が代条例」で、懲戒処分(戒告?)手続に入るのだろう。でも、そもそも「何故、卒業式に『日の丸・君が代』なのか?」その内心からの動機付け、納得できる「情念」が沸いてこず、それが先生方も同様なら「職務」とはいえ、お辛いだろう。そこで、あまりイデオロギッシュにならない程度に「『卒業式』と『日の丸・君が代』」について、私なりの考え・思いを述べてみたい。

《「卒業式に『日の丸・君が代』」その法的根拠は?》
(1)根本は「学習指導要領」しか見当たらず、「学習指導要領」には「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」とだけ記載されている。しかし、この記載だけでは、教師自身の「君が代斉唱;起立」義務は生じず、それを補完するものとして「大阪府君が代条例(2011年6月成立)」がある。
*東京都においては「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(10.23通達)」で対応している。
(2)「日の丸・君が代=国旗・国歌」である事は「国旗国歌法」で定まっている。
  ただ「日の丸=国旗」は、ともかくも「君が代=国歌」としている事には私自身、抵抗感があり、その意見は結構多い。(石原慎太郎も類似の意見を言っている)
 何故なら「君が代」は歌詞のごとく「天皇継承が永く続く事を願う歌」であって「日本国礼賛の歌」ではない。それに歌詞もメロディーも、ハッキリ言ってダサイ。
 なお余談であるが、ある大阪府内の中学校音楽教師が「君が代」の事を「恋の歌だ」と説明し、生徒が異論を唱えても頑として受け入れなかったようだ。「先生!ウソは教えてはいけませんよ!」

《それでも何故、卒業式に「日の丸・君が代」なの?》
「卒業式に『日の丸・君が代』」の法的根拠は、上記により理解できるが、内心の理解としては、相当に納得し難い。そもそも「学習指導要領」に記載されている「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,~」の「その意義」て何ですか?実際、「その意義」の説明は全くなく、当方で勝手に想像するしかないが、少なくとも「愛国心」を醸成する機会だとするなら、それは無理だ。その理由の一つは「愛国心」なるものは「恋愛・夫婦感情」と似たもので「郷土愛や住み慣れた街、温かい人間関係等々から発展した自然感情」であって、教育で教えるものではなく、また馴染まない。
 第一、高校生活・中学生活の各々一回づつの入学式・卒業式の「日の丸・君が代」程度で「愛国心の醸成の機会」なんていうなら、腹を抱えて笑うしかない。もう一つの理由は「愛国心」も多様で、少なくとも私は「過去の日本の過ちを率直に認め、独自の平和外交路線を歩む日本」に「愛国心」を抱く。逆に過去の過ちを見苦しい言い訳・正当化しようと往生際の悪い方々には「似非愛国心」を感じる。つまり「愛国心」も様々で、「日の丸・君が代」に固執し、何かしらの「愛国心価値観」を身に付けさせようとしても曖昧で、形式倒れするだけだろう。(それが「口パクチェック」)
 なお「教育勅語的・特攻隊的愛国心」を思い描いて「日の丸・君が代」に拘っているなら、それは全く無理。「早く軍国右翼ノスタルジアから目覚めなさい」と言っておく。

<「愛国心」絡みでない他の「その意義」て考えられる?>
 「学習指導要領」で入学式・卒業式の「日の丸・君が代」について「その意義を踏まえ,~」と記載しながら「その意義」の説明がないので、当方で勝手に「愛国心」絡みと仮定して考えてみたが、上記のように全て否定できる。そうすると「入学式・卒業式と『日の丸・君が代』」がセットでなければならない他の「その意義」は見当たらない。ということは、文部科学省「学習指導要領」は、「その意義」の合理的意味はどうでもよく、とにかく伝統的に行ってきた「入学式・卒業式」の形式に拘って「何としても『日の丸・君が代』を掲揚・斉唱させたい」というのが本音だろう。
 しかし、その押付けが現場に混乱と硬直化を招いている元凶である事は明確である。

《本来、あるべき「卒業式」て、どうなの?》
 そもそも「入学式・卒業式」の主役は誰か?偉そうに祝辞をたれる「校長」でもなければ、感動の涙を流す「父母」でもない。「入学・卒業する生徒自身」だ。
 だとすれば生徒達の主体性を尊重して「『日の丸・君が代』が必要か」問うてみればいい。特に「卒業式」なら、その企画も生徒会に任せ、教師は「ドタバタ・おふざけ」にならない程度に助言・サポートすればいい。そういうように「柔らか頭」で考えると「口パクチェック」も「懲戒処分」も「戦時教育の復活だ」とのイデオロギー論争も淘汰され、加えて生徒達の最後の「思い出の自主教育」の機会ともなる。
 但し、その場合「学習指導要領」の「その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」を削除して貰わないといけない。文部科学省が、もし「削除できない」というなら、「入学式・卒業式には『日の丸・君が代』が必要」という客観的・合理的かつ科学的な理由を説明しなければならない。本当は「その理由」がないなら(政治的圧力だけなら)、この際、削除して、たまには現場の自主性・創造力等に任せた方がよい。何故なら「保守・右翼的な立場」でも「愛国心教育効果」ない割には「労多く」、現場に余計な混乱と不信を招くだけで得策ではないからである。

《「日の丸・君が代」を生徒達・父母が拒否したら、どうするの?》
 昨年の大阪府立高校卒業式で「君が代-不起立・不斉唱」した生徒がいたようである。彼女は「君が代-不起立・不斉唱」決行の思いをビラにして、校門前で配布した。クラス仲間も、それを温かく見守ったようである。実は私も高校卒業式前日に「I高校教師集団を批判する」というビラを夜中に忍び込んで、皆の机上に配布し、卒業式当日はボイコットした。
 おそらく彼女も私も、少数・孤立しても「これが正しい」と確信して行った事であろう。
 加えて私は、その後、子供の運動会等で「君が代斉唱」のときは「抗議の意思」を示すために唄わずに片手を高く挙げることにしていた。
 校長等に言いたい。今はともかく将来、「日の丸・君が代」を拒否する生徒達・父母が少なからず出てきたら、どうするのか。「日の丸・君が代」を唄うための卒業式なのか、生徒達のための卒業式なのか、その判断が問われる。そのとき、文部科学省や府教委の指導・流れに従うのか。それとも「人間-教師」の良心に従うのか。まさに黒澤明監督「生きる」に見る人間の真価が問われるのだ。
(民守 正義)