コラムーひとりごと25 「フォーク」と育った青春

コラムーひとりごと25
「フォーク」と育った青春


*今回は、お気楽ネタなので、流し読みでどうぞ。
{フォークと出会いの原点―テレビドラマ「若者たち」}
 私が京都府舞鶴市に転居して中学校に入学した頃、連続テレビ青春ドラマ「若者たち」が放映された。この「若者たち」は、やや「社会派」で「両親を亡くした5人兄弟が、社会や兄弟間で様々な確執等を繰り返しながらも逞しく歩き続けて行く」ことを描いたもので、私は毎回、感動し実際、視聴率も相当、高かった。(主要俳優:田中邦衛、橋本功 、山本圭、佐藤オリエ、松山省二、等)   
何故、この連続テレビ青春ドラマ「若者たち」を取り上げたかというと、前稿でも述べたように、私は中学生になってから、どんどん社会問題に関心を持ち、中学生なりの社会運動に参画していくのだが、その思想的影響を大きく与えた一つに、この連続テレビ青春ドラマ「若者たち」があった。そして、この「若者たち」主題歌も殆どの若者に歌われ、「フォークの原点」と言えるものだった。今でも団塊の世代の方々だったら、唄える方も多いだろう。(君の行く道は、果てしなく遠い♪だのに、なぜ~♪)
最近のテレビ界では、これだけの含蓄のあるドラマ番組を製作しない。くだらないバラエティー番組より「考えさせる」番組制作に、もっと取組んで欲しいと思う。

{アメリカ(反戦)フォークの到来}
1960年代後半前後になると、日本にもアメリカンフォークが入りだし、ピーター・ポール&マリーが1964年来日、「500マイル」「花はどこへ行った」、そしてボブ・ディランの「風に吹かれて」「時代は変る」等が日本でも流行りだした。おりしもアメリカが1865年「ベトナム戦争-北爆本格開始」がされており、当時のアメリカンフォークにも「反戦」のイメージは強かった。なおビートルズは1966年に来日している。

{日本国内の音楽状況}
<グループ・サウンズとフォークソング全盛時代>
1967年より1969年にかけてグループ・サウンズが大流行。代表的なグループには「ザ タイガーズ」「テンプターズ」「ブルーコメッツ」「ワイルドワンズ」等々がある。
一方、フォークソングは1966年「マイク真木『バラが咲いた』」が事実上の幕開けに、「五つの赤い風船」が「恋は風に乗って」「遠い世界に」「血まみれの鳩」「 まるで洪水のように」が1969年までに出している。特に「遠い世界に」は私の18番で、今でも譜面無しに全部、唄える。
そして1967年「高石友也『受験生ブルース』『思い出の赤いヤッケ』」「遠藤賢司『夜汽車のブルース』『カレーライス』」「小室等『雨が空から降れば』」「フォーク・クルセダーズ『イムジン河』『帰って来たヨッパライ』」「森山良子『この広い野原いっぱい』」。1968年「岡林信康『くそくらえ節』『がいこつの唄』」「高田渡『自衛隊に入ろう』」1969年 「はしだのりひことシューベルツ『風』」「ビリーバンバン『白いブランコ』」等々が世に出され、「フォーク全盛期時代」を迎える。
この「フォーク全盛期時代」は、ちょうど1970年前後の学生運動が盛んだった時代とも重なり、歌の文句も反戦・体制批判のメッセージ性が強く、逆に音楽性には低いものも多かった。それだけに「発売禁止」または「発売自粛」になったフォークもある。例えば岡林信康のフォークは多く、「山谷ブルース」「くそくらえ節」「手紙」「チューリップのアップリケ」が「部落差別を扱っている」「内容が体制批判的」というだけで「発売禁止(自粛)」となっている。でも歌詞の知っている人なら解ると思うが、特に反社会的・差別的な部分は無く、むしろ「問題提起」型で、明らかにレコード会社の「過剰反応 /逆に差別的」だと批判できる。今ならレコード会社の方が人権運動団体に糾弾されるだろう。
他にも1968年「フォーク・クルセダーズ『イムジン河』」が、1971年「赤い鳥『竹田の子守唄』」が発売禁止(自粛)となっている。「イムジン河」が発売自粛になったのは「朝鮮民主主義共和国のプロパガンダ曲だ」と言われたのが発売自粛の理由らしいが、レコード会社の販売回収の措置に立腹したフォーク・クルセダーズが、抗議の気持ちを込めて「イムジン河」のレコードを逆回転させ、編曲したのが「悲しくてやりきれない」だと言われている。「竹田の子守唄」が放送禁止歌になったのは、京都府竹田地区が被差別地区であること、歌詞の中にある「在所」が被差別部落を意味していることが理由らしいが、これもレコード会社の差別的過剰反応。当時の竹田地区の方々は、地元コーラスで「竹田の子守唄」を歌っていたという。

<大阪府にも「差別的過剰反応」が->
 話は変わるが、大阪府でも「差別的過剰反応」がある。私が労働相談の管理担当をしていて、「労働相談PRチラシ」を何千枚か刷ったとき、突然、所長が「これはアカン!刷りなおしや!」と言い出した。驚いた私が、どこが悪いのか解らず所長に聞いてみると、様々な職業の人の漫画カットの中に「工事中、すみません」をしているような男性の絵があって、片手でヘルメットを下げている手の指が四本しか見えていないから「差別だ!」と言われるかもしれないからだという。そこで私が「そんなもの、漫画だから仕方ない。そう連想する方が差別だし、それは似非差別の言いがかりだ」と反論したが、所長も「面倒なことになる」と譲らない。そこで本庁担当課である労政福祉課(勤労者福祉G)の見解を質してみると、当該課もほぼ所長と同意見。立腹した私は「それなら部落解放同盟大阪府連に直接、見解を質してみよう!」と言うと、慌てた当該課の者が「外部団体ではなく、内部の人権室に見解を質してみよう」と言い出し、渋々、私も認めた。そこで人権室の見解はこうだ。「色々、言う府民も居るから、刷り直した方がいいんじゃない?」もう人権室の「正当反差別理論を理解し守り、似非差別難癖には闘う」という姿勢が全く無く、所長と同様に「面倒なことはかわす」という姿勢のみの体質に元々、解っていたが、なお更に呆れ果てた。言っておくが私は中学時代から部落解放運動に参画し、結婚差別も経験している。辞令一枚でノンポリ職員が、「人権室職員」というだけで、特に人権問題に長けている訳でも何でもない。結果的に、やむなく刷り直しに応じたが、後日、その友人でもある部落解放同盟大阪府連役員に、一連の出来事をチクッてやると、当該府連役員も大阪府の対応に笑い転げて「また何か、できることがあれば言うて~」と言われ、少しは落ち着いた。
 でも、これに類似した出来事は、他にもあり、以前から問題指摘している「大阪府人事当局個人情報保護法違反疑惑」や、いい加減な「職員人権研修」も含め、今後とも糾すべき事は糾させてもらう。

<「フォーク全盛時代」の曲がり角>
 この「フォーク全盛時代」には、全国各地で自然発生的にフォーク集会が開催され、それは、さながら「反戦集会」の様相も呈し、国家権力も警戒心を持ってくる、1969年には毎週定例的に開催されていた「フォーク反戦集会(東京新宿駅西口広場)」に機動隊が動員され、ガス弾を使って弾圧、強制解散させられる。
 私がフォークギターを手にしたのは、大阪に転居した1970年だが、初めてアルバイトして得た賃金で、当時としては、やや高額なヤマハギターを買い、毎日のように夜遅くまで練習したのを覚えている。同時に高校にあった「フォークソンググループ」に入れてもらったり、友達と一緒にアベノ地下街でフォークギターを弾きだし、20人位は集まって「フォーク集会」を開催したこともある。
 また当時は、阪急東梅田本通に「歌声喫茶 こだま」があり、よくデートに利用し、フォーク等を唄いに行ったものだ。
  ただ、この頃から徐々に「岡林信康・高石友也・中川五郎」に代表される「反戦・反体制フォーク」から「井上陽水『人生が二度あれば』」「吉田拓郎『結婚しようよ』」「はしだのりひことクライマックス『花嫁』」「上条恒彦『出発の歌』」「 北山修・加藤和彦『あの素晴しい愛をもう一度』」「赤い鳥『翼をください』」「ガロ(GARO)『学生街の喫茶店』」、そして「かぐや姫『神田川』」「グレープ『精霊流し』」とニューミュージックに転換していき、学生運動も下火になっていく。

{青春時代は、人生の初期設定}
 今、思うに私の青春時代は、①漠然とではあるが、何か「こうありたい」と思う「拘り」と②使命感をもって関ろうとする「社会運動への参画」③自分を癒し、励まし、自己感情を確認する音楽(フォーク等)の三つが三位一体となって「自己実現」を模索していたと想起する。(「勉強すること」が入っていないのが情けないが…)
 青春時代は、人生の初期設定の時代。今の時代に、人生に大きく影響を与えるような刺激、社会的出来事、関ジャニやAKB等ではなく、「人生観」を左右する音楽があるだろうか。私には、それが今の若者にあるかどうか、わからないが、少なくとも国家管理・コントロールが厳しくて、画一的・管理的・マニュアル的で、自由な発想と自由な活動機会を奪うような事だけはするべきではないと思う。それは大人(リベラル派)の責任でもある。
(民守 正義)