コラムーひとりごと24 「愛国心」
コラムーひとりごと24「愛国心」
{最近の「愛国心」に関る思い}
<くだらない「2チャンネル」的書き込み>
最近の「2チャンネル」的な書き込みを見ると、「反日」だとか「売国奴」「非国民」といった言葉で相手を罵倒しているのを、よく目にする。ひどいのは当然、相手が判らないのに何の根拠もなく「北朝鮮のスパイか!」と「北朝鮮」を引合いに出せば、自分の論理性のない「バカ発言」も許されるとでも思っているかのようである。確かに、これらの書き込みは目立つが、実際に書き込んでいる人々は少数派ではないかと思う。
ただ、こうした相手に対する決め付け、レッテル張りは、1970年前後の学生運動華やかしい頃の左翼系の悪習で「ナンセンス」「日和見主義」「反革命」「反動分子」等々、学生集会等で大学当局や他党派、意見の異なったグループ等に対して、よく野次っていたものだ。(但し、かつての学生運動の方が、もう少しインテリジェンスがありましたよ)
その意味で質の程度の差はあるものの、今の右翼系とかつての左翼系と悪習が逆転していることに「時代は変わったな~」と感じる。
<自分の中にある「日常的愛国心」>
さて「2チャンネル的書き込み」の話は、いい加減にして、もう少し「愛国心」について、私なりに掘り下げて考えてみよう。実は私は、小学校卒業までは「国防少年(信じ難いかと思うが…)」だった。だから卒業文集には「自衛隊戸締り論」を論拠に「国防の重要性」と「自分の国防への夢」を書き綴った。しかし小学校卒業と同時に京都府舞鶴市に転居し、そこからは、むしろ部落解放運動をはじめとした社会運動に傾倒していった。そして50歳頃に至るまで、何らかの社会運動に関る訳だが、その永い期間、少なくとも「愛国心」を主観的には意識したことがない。強いて言えば、オリンピック等で、いつのまにか日本を応援している自分と、右翼宣伝カーの音響に「うるさいな~」とイライラする自分が並存するくらいだ。
<「愛国心」想定質問-「愛国心」観>
そこで自分の「愛国度」を確かめるべく、何問かの想定質問を自分にしてみた。
1.国のために闘えるか?→その闘いが他国からの侵略であれば闘えるが、逆に他国への侵略なら闘わない。(日本の誤った戦争には「反対」の意思表明と不当刑罰でも受ける自信は本当にある。現に学生運動時代、二回の「不当拘禁」の経験がある。)
2.国のために死ねるか?→基本的に前記回答と同様。(死ぬ事自体は、そんなに恐くない。それは難病サルコイドーシスに罹っていることもあるかもしれない。)
3.国のために人を殺せるか?→前記質問と類似質問なのに悩むが、これまでの回答と同様としておこう。でも戦闘経験がある父(今は他界)が言っていたが、「本当の最初の一発」は恐かったらしい。
4.日本を「好き」と感じるか?→深層心理は解らないが、日常的には感じない。
5.日本が「嫌い」と感じるか?→それは先ずない。
もう切がないので止めるが、このように「愛国心」を自己に問い詰めても、あまり論理的に説明できるものでもなく、また人各々に、またその時々によって思い方も幅も深みも千差万別で「その時々に異なって沸き立つ自然感情(恋愛感情に近いもの)」としか言いようがない。それだけに「愛国心」という自然感情は、まさに、その人がそこに生きている存在(または人格)の証の一つであって、それを「思い込み方がどうのこうの、こう思うべきだ」等々と他人が、ましてや国家がとやかく言う話ではないだろうと思う。つまり、もう少し解り易くいうと「親を大切にしよう」と一般的には言えても「どのように大切にするか」までは「各々の親子関係に任しておけ」ということになるのと、よく似た話である。
<最近の「愛国心」を巡る私の問題意識>
上記の私の「愛国心」観から見て、腹立たしいほどの問題意識を抱くものがある。
一つは和泉高校であった「君が代口パクチェック」。私は本音のところで「愛国心」はある方ではないかと思う。でも私の「愛国心」の表現の仕方として「君が代」は唄わない。何故なら「愛国心」を表現するには相応しくない天皇制度礼賛の歌(人間-平成天皇は好きだから誤解なく)だし、歌詞もメロディーも好きではない。「学習指導要領」を盾に合唱することを強要するのかもしれないが、他の人が唄うのを邪魔はしないから、私の「人格的自然感情=唄わない事の自由」も侵害しないで欲しい。
二つ目は「安倍談話」で言われている過去の日本の過ちを隠蔽・または稀釈させようとする風潮。「安倍談話」自体は、あまり期待が持てないものの、まだ「有識者会議で検討」となっているので具体的批判はできないが、文句を言いたいのは、その取巻きの右翼御用学者やジャーナリスト等。週刊誌等を読んでいると「それでも歴史学者の端くれか?」と言いたくなるほど、写真や認定された客観的歴史事実の解明・分析するだけで良いものを、「自虐史観」とか言って、「こうあって欲しい」という思い先行で、明らかにあった「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」「現地中国人への蛮行」等を、無かったように、あるいは強制性は無かったように屁理屈をこね回している。ハッキリ言う。「愛国心」は「人格的自然感情」とは言ったが、歴史は客観的事実だ。過去の日本の過ちを無かったように言い回すのは「愛国心」ではない。むしろ後世に取ってみれば、とっても迷惑な反国民的行為だ。直ちに止めなさい。
<私の「愛国心」>
以前の別稿「コラムーひとりごと9『従軍慰安婦』と『旧日本軍の加害行為』」で私の父の戦争体験を書いたが、私は父の現地の中国人に行った略奪行為を、泣きながらも話してくれて返って父が好きになり、より尊敬もした。これは私の日本に対する「愛国心」と通じるものがある。日本が「村山談話」や「河野談話」のように詫びるところは詫び、そこをスタート地点に韓国・中国をはじめとするアジア平和外交の中心国になれば、溢れんばかりの「愛国心」を持つだろう。 逆に過去の過ちを見苦しい言い訳・正当化しようと往生際の悪い動向をみると、「愛国心」も萎えてしまう。そして、そのような自主的・自立的平和外交国家として担保する日本国憲法を誇りに思う。そうだ!私の「愛国心」の源泉は、日本国憲法にあるのかもしれない。既述で「『愛国心』も人各々の自然感情」と言ったが、この私の「愛国心感情」は、意外と他の人々にも通用する普遍的な「愛国心感情」かもしれない。せめてリベラル派の方々には、一考して留めて頂きたい。
{最近の「愛国心」に関る思い}
<くだらない「2チャンネル」的書き込み>
最近の「2チャンネル」的な書き込みを見ると、「反日」だとか「売国奴」「非国民」といった言葉で相手を罵倒しているのを、よく目にする。ひどいのは当然、相手が判らないのに何の根拠もなく「北朝鮮のスパイか!」と「北朝鮮」を引合いに出せば、自分の論理性のない「バカ発言」も許されるとでも思っているかのようである。確かに、これらの書き込みは目立つが、実際に書き込んでいる人々は少数派ではないかと思う。
ただ、こうした相手に対する決め付け、レッテル張りは、1970年前後の学生運動華やかしい頃の左翼系の悪習で「ナンセンス」「日和見主義」「反革命」「反動分子」等々、学生集会等で大学当局や他党派、意見の異なったグループ等に対して、よく野次っていたものだ。(但し、かつての学生運動の方が、もう少しインテリジェンスがありましたよ)
その意味で質の程度の差はあるものの、今の右翼系とかつての左翼系と悪習が逆転していることに「時代は変わったな~」と感じる。
<自分の中にある「日常的愛国心」>
さて「2チャンネル的書き込み」の話は、いい加減にして、もう少し「愛国心」について、私なりに掘り下げて考えてみよう。実は私は、小学校卒業までは「国防少年(信じ難いかと思うが…)」だった。だから卒業文集には「自衛隊戸締り論」を論拠に「国防の重要性」と「自分の国防への夢」を書き綴った。しかし小学校卒業と同時に京都府舞鶴市に転居し、そこからは、むしろ部落解放運動をはじめとした社会運動に傾倒していった。そして50歳頃に至るまで、何らかの社会運動に関る訳だが、その永い期間、少なくとも「愛国心」を主観的には意識したことがない。強いて言えば、オリンピック等で、いつのまにか日本を応援している自分と、右翼宣伝カーの音響に「うるさいな~」とイライラする自分が並存するくらいだ。
<「愛国心」想定質問-「愛国心」観>
そこで自分の「愛国度」を確かめるべく、何問かの想定質問を自分にしてみた。
1.国のために闘えるか?→その闘いが他国からの侵略であれば闘えるが、逆に他国への侵略なら闘わない。(日本の誤った戦争には「反対」の意思表明と不当刑罰でも受ける自信は本当にある。現に学生運動時代、二回の「不当拘禁」の経験がある。)
2.国のために死ねるか?→基本的に前記回答と同様。(死ぬ事自体は、そんなに恐くない。それは難病サルコイドーシスに罹っていることもあるかもしれない。)
3.国のために人を殺せるか?→前記質問と類似質問なのに悩むが、これまでの回答と同様としておこう。でも戦闘経験がある父(今は他界)が言っていたが、「本当の最初の一発」は恐かったらしい。
4.日本を「好き」と感じるか?→深層心理は解らないが、日常的には感じない。
5.日本が「嫌い」と感じるか?→それは先ずない。
もう切がないので止めるが、このように「愛国心」を自己に問い詰めても、あまり論理的に説明できるものでもなく、また人各々に、またその時々によって思い方も幅も深みも千差万別で「その時々に異なって沸き立つ自然感情(恋愛感情に近いもの)」としか言いようがない。それだけに「愛国心」という自然感情は、まさに、その人がそこに生きている存在(または人格)の証の一つであって、それを「思い込み方がどうのこうの、こう思うべきだ」等々と他人が、ましてや国家がとやかく言う話ではないだろうと思う。つまり、もう少し解り易くいうと「親を大切にしよう」と一般的には言えても「どのように大切にするか」までは「各々の親子関係に任しておけ」ということになるのと、よく似た話である。
<最近の「愛国心」を巡る私の問題意識>
上記の私の「愛国心」観から見て、腹立たしいほどの問題意識を抱くものがある。
一つは和泉高校であった「君が代口パクチェック」。私は本音のところで「愛国心」はある方ではないかと思う。でも私の「愛国心」の表現の仕方として「君が代」は唄わない。何故なら「愛国心」を表現するには相応しくない天皇制度礼賛の歌(人間-平成天皇は好きだから誤解なく)だし、歌詞もメロディーも好きではない。「学習指導要領」を盾に合唱することを強要するのかもしれないが、他の人が唄うのを邪魔はしないから、私の「人格的自然感情=唄わない事の自由」も侵害しないで欲しい。
二つ目は「安倍談話」で言われている過去の日本の過ちを隠蔽・または稀釈させようとする風潮。「安倍談話」自体は、あまり期待が持てないものの、まだ「有識者会議で検討」となっているので具体的批判はできないが、文句を言いたいのは、その取巻きの右翼御用学者やジャーナリスト等。週刊誌等を読んでいると「それでも歴史学者の端くれか?」と言いたくなるほど、写真や認定された客観的歴史事実の解明・分析するだけで良いものを、「自虐史観」とか言って、「こうあって欲しい」という思い先行で、明らかにあった「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」「現地中国人への蛮行」等を、無かったように、あるいは強制性は無かったように屁理屈をこね回している。ハッキリ言う。「愛国心」は「人格的自然感情」とは言ったが、歴史は客観的事実だ。過去の日本の過ちを無かったように言い回すのは「愛国心」ではない。むしろ後世に取ってみれば、とっても迷惑な反国民的行為だ。直ちに止めなさい。
<私の「愛国心」>
以前の別稿「コラムーひとりごと9『従軍慰安婦』と『旧日本軍の加害行為』」で私の父の戦争体験を書いたが、私は父の現地の中国人に行った略奪行為を、泣きながらも話してくれて返って父が好きになり、より尊敬もした。これは私の日本に対する「愛国心」と通じるものがある。日本が「村山談話」や「河野談話」のように詫びるところは詫び、そこをスタート地点に韓国・中国をはじめとするアジア平和外交の中心国になれば、溢れんばかりの「愛国心」を持つだろう。 逆に過去の過ちを見苦しい言い訳・正当化しようと往生際の悪い動向をみると、「愛国心」も萎えてしまう。そして、そのような自主的・自立的平和外交国家として担保する日本国憲法を誇りに思う。そうだ!私の「愛国心」の源泉は、日本国憲法にあるのかもしれない。既述で「『愛国心』も人各々の自然感情」と言ったが、この私の「愛国心感情」は、意外と他の人々にも通用する普遍的な「愛国心感情」かもしれない。せめてリベラル派の方々には、一考して留めて頂きたい。
(民守 正義)
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