コラムーひとりごと20 またか!「自己責任」-イスラム国人質事件

コラムーひとりごと20
またか!「自己責任」-イスラム国人質事件

 今月20日、-イスラム国人質事件(湯川遥菜さんと後藤健二さんが拘束)が起り、25日には湯川遥菜さんが殺害されたようだ。事態は、まだ日本政府が危険な状態で交渉続行中なので、本稿では問題意識だけに留めておきたい。

<またもや出た「自己責任」>
  
 今回の事件で、イラク日本人人質事件(2002年)のときと同様、「危険な所に自分の判断で行ったのだから、自己責任」と、あたかも「ほっとけ!」と言わんばかりの声が、ツイッター等で流れている。  そもそもイラク日本人人質事件は、「親を失った子供達の生活支援」ボランティアを目的に、高遠菜穂子さんら日本人3人がイラク国内で活動。その中でイラク武装勢力により誘拐・人質として拘束された事件。犯行グループは、イラクのサマーワに駐留している自衛隊の撤退を要求し、小泉純一郎首相はこれを拒否。合わせて「人質救出」にも取組み、結果的に無事解放されたものである。
 その色々あった途中経過の中で、小泉純一郎首相が拘束された日本人3名を指して「自己責任」と批判したことが、言葉の「流行」発端と言われている。

<日本語としておかしい「自己責任」>
 しかしイラク日本人人質事件で拘束された3人の日本人の活動目的と行動は、国際貢献にも通じる「善行」である。その「善行」の途中に不幸にして見舞われた事件であって、一国の総理大臣経験者に失礼だが、国学者であれば誰に聞いてもらってもいいが、このようなときに「自己責任」は、そもそも日本語の使い方からしておかしい。確かに当時、一時は家族の強い抗議もあって、心情的に理解できない訳ではないが、不適切は免れない。 例えば私(貴方)が、走ってくる電車の線路内に幼子が入るのを見て、「危険」と判っていても救出しようとする。そして幼子は救出されたものの、私(貴方)は死亡または重症。電車も暫く運行が遅れたとして、これらの結果的に私(貴方)の負の部分を捉えて、当事者でもない者が「自己責任」と言うのか。その時は少なくとも、その勇気と行動を積極肯定的な言葉で讃える表現をするもので、少なくとも「自己責任」は不適切。
 「自己責任」が適切なのは、例えば辛抱治郎等が周囲の注意と危険を振り切って「ヨットで太平洋横断」しようとしたとき、またお金もないのにギャンブルに興じるとき等、全体の利益につながらず、自分の趣味・個人的欲望だけでリスク覚悟で物事を行おうとするときに使う言葉だ。この「自己責任」を適切に使わないと、肝心のボランティア精神・社会貢献意欲が萎縮してしまう。ツイッター好きのボクチャン達も気をつけてね。

<イスラム国人質事件の対応は>
 こうした問題意識を原稿にしているとき(25日)に、「湯川遥菜さん殺害」が伝えられた。 いくら「誘拐→人質→金銭等の取引要求or殺害」が、彼等の常套・重要手段であっても、その非道・姑息な行為に怒りを禁じえない。後、湯川さんのご遺体の家族返還と残されている後藤健二さんの無事解放を祈るばかりである。 ところで、この人質となった日本人2人のイスラム国入国動機と、上記「自己責任」との関係では、どうなるのだろうか。 今も人質となっている後藤健二さんは、2006年に「紛争地域の子供を取材した『ダイヤモンドより平和がほしい』で、第53回産経児童出版文化賞フジテレビ賞」を受賞する等の実績があり、今回のイスラム国入国も、戦闘訓練等の情景よりも、その中での子供の表情・雰囲気等の取材に目的があったと言われている。 それに対し殺害された湯川遥菜さんは、民間軍事会社「ピーエムシー」の設立者であるが、その行動が一概に「自己責任」とも言い切れない不明な点もあり、今の段階では確定的に言えない。 ただ湯川遥菜さんが、シリア国内で人質・拘束になったのは2回目で、前回も後藤健二さんが、その救出に積極的関与している。
 今も政府が、後藤健二さんの救出に挙げているときだけに、今はこれ以上、「イスラム国人質事件⇔自己責任論」を、とやかく言うのは止めよう。

 それよりも、その逼迫した状況だけに、警鐘として言うが、「くだらなく、ヘタクソなツイート;自己責任論」を流すよりも、もう少し真剣に、この事件のよりましな解決を望む気持ちで見守ろうではないか。
(民守 正義)