コラムーひとりごと18 参考!「私の子育て経験」
コラムーひとりごと18 参考!「私の子育て経験」
別稿でも述べたように「最近は、親子で大学生の就職活動する時代」に呆れている私だが、どうも世の中は、大学側も親御様も「それの何が悪いの!?」という雰囲気も相当にあるようなので、それなら、自分の子育て経験を示しながら、反発覚悟で「うるさい親父(お爺ちゃん?)」をまくしたてよう。
*でも気楽に読んでね-ちょっと弱気!(^^)!
{そもそも何で「大学生の就職活動(大学主催;親子面接会・親対象の就職説明会等)」に、親が出てくるねん?!}
そもそも大学生就職時期は、もう二十歳も超えた大人。
そして社会人としての最初のスタートライン。そんな重要な事次第だけに、ご心配は解るが、それだけに「自分の人生は、自分で仕切られんと、どないすんねん!」と突き放して言いたい。そして子の方から「まあ心配せんといて~。自分で何とかするから~」と言ってくれば一安心。もちろん子の方から相談があれば、真摯に受け止めるべきだと思うがー。要は言いたいことは、社会の第一歩は「自立心(偏差値じゃない)」。その「自立」第一歩に親が付き合ってどうする?大学側も親御様も、もう過保護は、やめよう!
{少年期までの子育てポリシー}
とは言っても私が、子供に「自立心・自己責任」を促し(放任主義)たのは二十歳前から。それまでは結構、私なりの子育てポリシーをもって、口うるさかったと思う。
なお私の子は、長女・長男(二子)であるが、何故か長女を叱ることが多かった、。
では順次、重要だと思いつくことから、羅列してみよう。
先ず子育てポリシー(方針)の確立。
①差別に負けず、正義感のある子(それだけに少々、要領が悪くてもかまわない)
②純粋・素直・素朴。(それだけに少々、幼く騙され易くともかまわない)
③自分の意見は、ハッキリ言えるが、我慢もできる子
だいたい、こんなものだったが、勉強は入っていない。何故なら勉強(偏差値)は、子育てポリシー(人間性の形成)には関係なく、習慣的なものだからだ。子育てポリシー(人間性の形成)重視であったことを解ってほしい。
次に具体エピソードを紹介しよう。
○我家では、公園等の外でのお菓子のやり取り、食べ合いは禁止だった。
それは行儀が悪い事と、子供同士の中で「小遣いやお菓子を多く持っている子と、あまり持っていない子」とに何となく格差が生じ、「あげる子」と「もらう子」と固定化することが良くないと思い、それを解らせたかったからである。
ある日、公園で妻の母が、娘が友達から「お菓子あげるわ~」と誘われたのを「お父さんに怒られるから、もらわれへん」と断ったのを目撃したとのこと。それを聞いた私は、娘を褒め捲くった。でも、その後、妻の母も、さすがに孫が可哀想と思ったのか、妻の母の家(妻の実家)に孫と孫の友達を呼んで、お菓子を振舞い、ほぼ毎日、茶話会状態。その内、妻の母から「お菓子代が大変」と聞いて、我家からお菓子代を出す事になった。若干、思惑のはずれた話ではある。
○娘が遠足で、天王寺公園に行ったときのこと。露店に友達らが群がり、中には万引きする子も目撃したとのこと。娘は、万引きはしなかったものの、黙って見ていたと言う。そこで私は激怒した。「万引きする者も、黙って見逃すのも『ほう助』で同罪だ。反省文を書いて、先生に提出して自首しろ!」と注意できなかった心の弱さも含めて叱り付けた。娘は、言われたとおりにしたようで、先生もニコニコと褒め気味であったようである。でも、その後は比較的、穏やかに「悪いことは悪い」と注意できるようになって、良かったと思う。
○これも娘の話。娘は習字を習っていたのだが、どうも先生が厳しいのと、あまり友達と遊べないことを理由に「習字をやめたい」と結構、頑固に言う。でも、やりかけたことを途中で止めさすことは「我慢の子」にならない。そこで妥協策として「一回だけチャンスをあげる。習字の先生を替えて続けなさい」と言って、娘も結局、納得した。
今は親バカであるが、まあ達筆である。
○息子の話。息子は、より「純粋・素直・素朴」である。サンタクロースは中学一年生頃まで「騙せた」でなくて夢を持たせた。
○これも息子の話。息子は小学生の頃、校区外の学童保育に行かせていた。そこには悪ガキがいて、息子にチョッカイをかけて、暴力も振るうらしい。でも息子は、それが直ぐにはわからず、「遊んでくれている」と勘違いするらしい。
ある時、その「悪ガキ-チョッカイ」の度が過ぎて、息子も「これはヤバイ」と、屋根伝いに逃げ出した。もちろん悪ガキも追いかけて、息子がある小屋の屋根に飛び乗ったとき、その屋根はモルタル製か、弱くて穴が空き、小屋の中3m位を落下して、息子は二箇所を骨折する重傷を負った。
でも息子が悪い訳でもなく、「どう始末をつけようか」と思っていたが、その夜に悪ガキの母親が、悪ガキを連れて「平謝り」に謝りに来た。もう、それで自分の幼少時代も思い出し、「息子も経験」と何の損害賠償も求めず、事なき事とした。息子も「許す勇気」を学んであろう。
<子供の叱り方>
私は、子供に手を出したのは、幼年頃に二子各々に一回づつ、「オシリ」を叩いたぐらいである。殆どの叱り方は、①先ず正座・姿勢を正させて、当方(父)の目をしっかり見させる。②何故、叱っているのか、「悪い理由は何か」をできるだけ簡潔かつ真剣顔で伝える。③必ず子供の反論・意見も聞き、あれば真剣に答える。④子供が泣顔でも「ワカッタ」と言えば、もうおしまいである。後は、気持ちを切替えて一緒に遊んでやるがいい。この叱り方のポイントは、①当然ながら叱る理由の正当性・合理性が当方(親)にあること。親の方が悪い無理筋叱りは、返って信頼性と権威を失うだけ。親の方から謝った方が、まだまし。②叱るときは真剣に。こちらの武器は、「親の権威」だ。「ニタニタ、ダラダラ」は禁物だ。加えて暴力も余程のことがない限り、使ってはならない。暴力は「恐怖」であって、「親の権威」ではない。
話の趣旨から外れるが、最近の子供の虐待事件で「躾として(やり過ぎて)行ってしまった」と、よく言い訳しているのを聞くが、詭弁・思考のない言い訳もいいところ。本当は、感情的になって、その発露として暴力を振るっただけだろう。「正直に言え!」と言いたい。
<勉強はどうするの?>
実は、これは私も悩ましい問題。感情的に意欲が沸かなければ、なかなか良い結果は得られない。ただ、勉強に関しては二つの考えを持っている。一つは「生きる力」の一部に「偏差値」が含まれても全てではない。トータルとしての「生きる力」が必要で、トータルとしての「生きる力」があれば、社会では何とかなる。逆に「偏差値」だけで、トータルとしての「生きる力」なければ何の役にも立たない。(現に公務員時代に、そんな「優秀」な新規採用職員は、いくらでも見ている)だから少年期までは「子育てポリシー(人間性の形成)が重要だ」と言っている。
もう一つの考えは、府教委-指導主事から聞いた話だが、「勉強は、習慣」の問題。宿題も含めて毎日、決まった時間に一定時間を学習することが大事で、そのための手段としては、学習塾よりも家庭教師が良いらしい。(学習塾は、殆ど評価していなかった)
家庭教師は、極端に言って「習慣付け」のために見張っているだけでもいいらしい。
因みに私の子供に家庭教師を付けたが、英語を中心に成績は上がった。なお家庭教師の見つけ方は、私の場合、直接、大阪教育大学に依頼した。
<まとめ>
結局、私の「子育て・教育論」は、少年時代までは「将来の自立化」に向けた人間形成時間。そして二十歳頃からは、手のヒラを返したように自立・自己責任で人生決定をさせる。異論もあると思うが、参考になれば幸いである。
なお娘と息子は、今は共に所帯を持ち、孫もいる。私が難病サルコイドーシスに罹り、人生悲観的になったときも「お父さんには生きて欲しい」と言われ、首を切る大きな手術も受けることができた。今は、身体不自由の車椅子生活の中で、鍼灸師でもある息子が、週1回でもリハビリに来てくれ、最近は、子供の方が強い口調でリハビリ指示を出し、若干、「親子力関係」が逆転している。
皆様には皆様の子育て哲学を持っていると思うが、やがては親も死んでいく身。要は、自分の人生は、自分で切り開いてくれるのが、いいですよね。
別稿でも述べたように「最近は、親子で大学生の就職活動する時代」に呆れている私だが、どうも世の中は、大学側も親御様も「それの何が悪いの!?」という雰囲気も相当にあるようなので、それなら、自分の子育て経験を示しながら、反発覚悟で「うるさい親父(お爺ちゃん?)」をまくしたてよう。
*でも気楽に読んでね-ちょっと弱気!(^^)!
{そもそも何で「大学生の就職活動(大学主催;親子面接会・親対象の就職説明会等)」に、親が出てくるねん?!}
そもそも大学生就職時期は、もう二十歳も超えた大人。
(高卒等で働いている子もいる)
そして社会人としての最初のスタートライン。そんな重要な事次第だけに、ご心配は解るが、それだけに「自分の人生は、自分で仕切られんと、どないすんねん!」と突き放して言いたい。そして子の方から「まあ心配せんといて~。自分で何とかするから~」と言ってくれば一安心。もちろん子の方から相談があれば、真摯に受け止めるべきだと思うがー。要は言いたいことは、社会の第一歩は「自立心(偏差値じゃない)」。その「自立」第一歩に親が付き合ってどうする?大学側も親御様も、もう過保護は、やめよう!
{少年期までの子育てポリシー}
とは言っても私が、子供に「自立心・自己責任」を促し(放任主義)たのは二十歳前から。それまでは結構、私なりの子育てポリシーをもって、口うるさかったと思う。
なお私の子は、長女・長男(二子)であるが、何故か長女を叱ることが多かった、。
では順次、重要だと思いつくことから、羅列してみよう。
先ず子育てポリシー(方針)の確立。
①差別に負けず、正義感のある子(それだけに少々、要領が悪くてもかまわない)
②純粋・素直・素朴。(それだけに少々、幼く騙され易くともかまわない)
③自分の意見は、ハッキリ言えるが、我慢もできる子
だいたい、こんなものだったが、勉強は入っていない。何故なら勉強(偏差値)は、子育てポリシー(人間性の形成)には関係なく、習慣的なものだからだ。子育てポリシー(人間性の形成)重視であったことを解ってほしい。
次に具体エピソードを紹介しよう。
○我家では、公園等の外でのお菓子のやり取り、食べ合いは禁止だった。
それは行儀が悪い事と、子供同士の中で「小遣いやお菓子を多く持っている子と、あまり持っていない子」とに何となく格差が生じ、「あげる子」と「もらう子」と固定化することが良くないと思い、それを解らせたかったからである。
ある日、公園で妻の母が、娘が友達から「お菓子あげるわ~」と誘われたのを「お父さんに怒られるから、もらわれへん」と断ったのを目撃したとのこと。それを聞いた私は、娘を褒め捲くった。でも、その後、妻の母も、さすがに孫が可哀想と思ったのか、妻の母の家(妻の実家)に孫と孫の友達を呼んで、お菓子を振舞い、ほぼ毎日、茶話会状態。その内、妻の母から「お菓子代が大変」と聞いて、我家からお菓子代を出す事になった。若干、思惑のはずれた話ではある。
○娘が遠足で、天王寺公園に行ったときのこと。露店に友達らが群がり、中には万引きする子も目撃したとのこと。娘は、万引きはしなかったものの、黙って見ていたと言う。そこで私は激怒した。「万引きする者も、黙って見逃すのも『ほう助』で同罪だ。反省文を書いて、先生に提出して自首しろ!」と注意できなかった心の弱さも含めて叱り付けた。娘は、言われたとおりにしたようで、先生もニコニコと褒め気味であったようである。でも、その後は比較的、穏やかに「悪いことは悪い」と注意できるようになって、良かったと思う。
○これも娘の話。娘は習字を習っていたのだが、どうも先生が厳しいのと、あまり友達と遊べないことを理由に「習字をやめたい」と結構、頑固に言う。でも、やりかけたことを途中で止めさすことは「我慢の子」にならない。そこで妥協策として「一回だけチャンスをあげる。習字の先生を替えて続けなさい」と言って、娘も結局、納得した。
今は親バカであるが、まあ達筆である。
○息子の話。息子は、より「純粋・素直・素朴」である。サンタクロースは中学一年生頃まで「騙せた」でなくて夢を持たせた。
○これも息子の話。息子は小学生の頃、校区外の学童保育に行かせていた。そこには悪ガキがいて、息子にチョッカイをかけて、暴力も振るうらしい。でも息子は、それが直ぐにはわからず、「遊んでくれている」と勘違いするらしい。
ある時、その「悪ガキ-チョッカイ」の度が過ぎて、息子も「これはヤバイ」と、屋根伝いに逃げ出した。もちろん悪ガキも追いかけて、息子がある小屋の屋根に飛び乗ったとき、その屋根はモルタル製か、弱くて穴が空き、小屋の中3m位を落下して、息子は二箇所を骨折する重傷を負った。
でも息子が悪い訳でもなく、「どう始末をつけようか」と思っていたが、その夜に悪ガキの母親が、悪ガキを連れて「平謝り」に謝りに来た。もう、それで自分の幼少時代も思い出し、「息子も経験」と何の損害賠償も求めず、事なき事とした。息子も「許す勇気」を学んであろう。
<子供の叱り方>
私は、子供に手を出したのは、幼年頃に二子各々に一回づつ、「オシリ」を叩いたぐらいである。殆どの叱り方は、①先ず正座・姿勢を正させて、当方(父)の目をしっかり見させる。②何故、叱っているのか、「悪い理由は何か」をできるだけ簡潔かつ真剣顔で伝える。③必ず子供の反論・意見も聞き、あれば真剣に答える。④子供が泣顔でも「ワカッタ」と言えば、もうおしまいである。後は、気持ちを切替えて一緒に遊んでやるがいい。この叱り方のポイントは、①当然ながら叱る理由の正当性・合理性が当方(親)にあること。親の方が悪い無理筋叱りは、返って信頼性と権威を失うだけ。親の方から謝った方が、まだまし。②叱るときは真剣に。こちらの武器は、「親の権威」だ。「ニタニタ、ダラダラ」は禁物だ。加えて暴力も余程のことがない限り、使ってはならない。暴力は「恐怖」であって、「親の権威」ではない。
話の趣旨から外れるが、最近の子供の虐待事件で「躾として(やり過ぎて)行ってしまった」と、よく言い訳しているのを聞くが、詭弁・思考のない言い訳もいいところ。本当は、感情的になって、その発露として暴力を振るっただけだろう。「正直に言え!」と言いたい。
<勉強はどうするの?>
実は、これは私も悩ましい問題。感情的に意欲が沸かなければ、なかなか良い結果は得られない。ただ、勉強に関しては二つの考えを持っている。一つは「生きる力」の一部に「偏差値」が含まれても全てではない。トータルとしての「生きる力」が必要で、トータルとしての「生きる力」があれば、社会では何とかなる。逆に「偏差値」だけで、トータルとしての「生きる力」なければ何の役にも立たない。(現に公務員時代に、そんな「優秀」な新規採用職員は、いくらでも見ている)だから少年期までは「子育てポリシー(人間性の形成)が重要だ」と言っている。
もう一つの考えは、府教委-指導主事から聞いた話だが、「勉強は、習慣」の問題。宿題も含めて毎日、決まった時間に一定時間を学習することが大事で、そのための手段としては、学習塾よりも家庭教師が良いらしい。(学習塾は、殆ど評価していなかった)
家庭教師は、極端に言って「習慣付け」のために見張っているだけでもいいらしい。
因みに私の子供に家庭教師を付けたが、英語を中心に成績は上がった。なお家庭教師の見つけ方は、私の場合、直接、大阪教育大学に依頼した。
<まとめ>
結局、私の「子育て・教育論」は、少年時代までは「将来の自立化」に向けた人間形成時間。そして二十歳頃からは、手のヒラを返したように自立・自己責任で人生決定をさせる。異論もあると思うが、参考になれば幸いである。
なお娘と息子は、今は共に所帯を持ち、孫もいる。私が難病サルコイドーシスに罹り、人生悲観的になったときも「お父さんには生きて欲しい」と言われ、首を切る大きな手術も受けることができた。今は、身体不自由の車椅子生活の中で、鍼灸師でもある息子が、週1回でもリハビリに来てくれ、最近は、子供の方が強い口調でリハビリ指示を出し、若干、「親子力関係」が逆転している。
皆様には皆様の子育て哲学を持っていると思うが、やがては親も死んでいく身。要は、自分の人生は、自分で切り開いてくれるのが、いいですよね。
(民守 正義)
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