コラムーひとりごと15 「イスラム武装襲撃」と西欧文化
「イスラム武装襲撃」と西欧文化
1月7日「仏週刊紙襲撃事件」が起り、12人が死亡すると言う残忍で許せない事件が起きた。私は、「年頭所感」でも述べたように、「イスラム武装勢力の動き」と「イスラム国の動き」は、相当に危惧している。でも相当に危惧しているだけに、私は「オバマ」と一緒に「テロとの戦い」と合唱したくない。そもそも私は「テロ」という言葉に疑念があるし使いたくない。この「イスラム」との対立を考えるとき、単に「過激・残忍・壊滅」等の言葉に現せる国際的批判や国際的反撃よりも、何か冷静に考えなくてはならない事があるのではないか。それがいったい、何なのか。自分でも明確にわからない。
でも、おぼろげに思うことを綴ってみたい。なお何度も前に言うが、決して「イスラム武装勢力」の行為を擁護している訳でもないので、その点は、よろしく。
{「仏週刊紙襲撃事件」の発端は}
仏週刊紙襲撃事件の発端は、パリの週刊紙「シャルリーエブド」がイスラム教の開祖・預言者であるムハマンドを風刺画で、相当に揶揄する風刺を何度か、掲載したことの復讐だと言われている。このムハマンドは「イスラム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く最後にして最高の預言者(ナビー)であり、かつ使徒(ラスール)」と高くあがめられている。
従って「風刺画」とはいえ、イスラム教徒にしてみれば、相当に反発と怒りをかうことだけは、十分に予想できる。
仏オランド大統領・米国オバマ大統領は「表現の自由」を理由に反論しているが、イスラム教徒にしてみれば「限度を超えている」と思われても仕方がないのではないか。例えば「イエス キリストやローマ法王を風刺した画」をキリスト教徒は耐えられるだろうか。「エリベザス女王を風刺した画」を英国民は耐えられるだろうか。そして日本の天皇もー。全て「表現の自由だから仕方ない」と同様に割り切られるだろうか。その時は「欧米自由主義的価値観への挑戦!」と抗議しないだろうか。つまりムハマンドの風刺画の中に「西欧文化のおごり」「他文化への蔑視」等の意識はなかったのか。もっとポジティブに言って、「お互いの文化・宗教の違いを認め合い、敬愛する」意識はないのではないか。(あれば、こんな風刺画は出ない)
この「『宗教観・価値観の違い』の共有化」が互いに意識構築できなければ、本質的なところで対立の終焉はないように思える。
なお補足であるが、「イスラム武装勢力」のことを、よく「テロ」というが、「テロ(テロリズム)の意味は、一般的には、何らかの政治的目的のために、暴力や暴力による脅威に訴える傾向や、その行為のこと」をいう。その意味では、米国だって「ありもしない大量破壊兵器」を理由にイラクを攻撃(国家的テロ)したし、米国国内でも黒人に対する警察の対応は、「テロ」と言っても過言ではない。しかし欧米諸国やマスコミが使う「テロ」とは、「自分達は平和的で正義」であることを前提にしているようで、これに同調するかのような「テロ」用語は、私は使わない。因みに「テロ」にも「右翼テロ」「左翼テロ」があり、日本では北星学園大学事件のように「右翼テロ(脅迫)」の方が顕著だ。警察の方々、「右翼テロ」への取締り、規制もよろしく。
*本稿は「イスラム武装勢力」と、大枠な表現にしているが、実際には「アルカイダ」「イスラム国」等々、様々な武装組織があり、各々において依拠する宗派や指導者等、活動目的、利害関係(対立)がある。しかし、その一つ一つの関係性を説明することは困難であり、私の主張にも影響しないので、この表現でお許し願いたい。
{他にも感じる西欧文化(価値観)の優越意識}
<金正恩氏「暗殺計画」映画「ザ・インタビュー」について>
この映画の上映についても朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)は、上映に強く抗議し、一旦は上映中止となったもの、結局は上映し、サイバー攻撃を受けている。(北朝鮮は関与を否定)
この件についても同様に思うのだが、確かに北朝鮮体制には相当に問題があるし、国際的批判は免れないとは思うものの、だからといって一国の指導者を、あそこまでセンス悪く揶揄することが、本当に将来の良好な米朝関係につながるのか、余計な摩擦だけではないのかと危惧する。オバマ大統領は、これも「パロディーだ。表現の自由だ」と言うが、描かれているストーリー・シーンは予告程度に見ただけだが、米国価値観からの風刺・揶揄程度で、芸術的にも低いらしい。少なくとも言いたいことは、米国価値観で金正恩氏をパロディー批判することにムキになるよりも、良しきも悪しきも北朝鮮の体制・文化等を水平思考で理解して、平和的対北朝鮮戦略で対応して欲しいことだ。
<ノーベル平和賞について>
ノーベル平和賞の授与主体は、他のノーベル賞授与主体であるスエーデンではなく、ノルウエーである。その事は関係ないと思うが、その選定には欧米の政治的価値観が反映しているのではないかと疑惑を感じることが少なからずある。
例えば2010年 の 劉暁波(中華人民共和国)であるが、確かに本人は、国際的には評価の高い民主化・人権活動家でもある。しかし彼の受賞に対しては、中国政府の反発も相当にあり、「その予想も覚悟の上」ということかもしれないが、それであれば、なお更のこと、ノーベル平和賞の選定価値観には、西欧の価値観が反映されていると思わざるを得ない。
そして極めつけは、1974年 の 佐藤栄作(日本)と2009年 の バラク・オバマ(アメリカ合衆国)。佐藤栄作は、「非核三原則」が評価されたものだが、実際には「核兵器の持込」の密約があったし、本人は当時の米国のベトナム戦争を全面的に支持していた。
佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞したのは、当時の加藤国連大使のロビー外交の成果だと言われているが、巷では、それ以外にも黒い噂が流れている。
またバラク・オバマの受賞の理由は、国際社会に向けた「核なき世界」の演説が評価されたものだが、ハッキリ言って演説だけで、何の成果・功績もない。
こうしたノーベル平和賞の西欧価値観による選定基準(政治的意図?)が、賞の権威を落し込めていることを、よくノルウエー・ノーベル委員会は、認識しておくべきだ。
<「侵略行為」の反省>
日本の太平洋戦争におけるアジア侵略への反省は、よく指摘も話題にもなるが、特に「大英帝国」をはじめとした西欧の過去の植民地政策は、それほどに問題化しないのであろう。これを言って日本の侵略行為を正当化する意思は全くないが、それでも西欧の植民地政策(今も英国の植民地的な地域はある)が、あまり問題にされないのは不条理・不公平な感がする。結局は、太平洋戦争戦勝国の論理がまかり通るのか、東京裁判の結果が今も影響しているのか-。国連の常任理事国の「選定」でも戦勝国優先の「慣習」があるようで、こうしたことも「欧米価値観優先」の典型ではと思う。
{まとめ-価値観の違いを乗り越えて}
他にも西欧の「都合のよいスポーツルールの変更」等もあるが、例示は、これぐらいにして、真に主張したいことを、まとめてみたい。
世が21世紀に入ったとき、「20世紀は戦争の時代。21世紀は人権の時代」と期待したが、どうも終焉したのは、冷戦構造位で、相変わらず戦争(紛争)の質的変化と意識構造は、引きずったままのように思える。
「戦争(紛争)の質的変化」とは何か。それは単純な社会科学-階級対立では説明できない中東・イスラム紛争。「戦争(紛争)の意識構造」とは何か。それは自己価値観・自己文化の優越意識、逆に言えば他の価値観・他文化への蔑視。今回の「イスラム武装襲撃事件」にも、根底に西欧価値観の優越意識(イスラム価値観への蔑視)がなかったか。もし、本当はあったとすれば、「やれ、表現の自由だ!パロディーだ」と言っている場合ではない。事は、武力襲撃に至ることもある次元の問題だ。
特にキリスト文化とイスラム文化の対立の歴史は長いが、もういい加減、互いの違いを認め合い、許容しあう関係を構築していかなければ、いつまでたっても「相手に対する不信と憎悪」の繰返しになるのではないか。
「相互の『違い』の共有化」。これこそが困難でも21世紀に取組まなければならない課題だと考える。
1月7日「仏週刊紙襲撃事件」が起り、12人が死亡すると言う残忍で許せない事件が起きた。私は、「年頭所感」でも述べたように、「イスラム武装勢力の動き」と「イスラム国の動き」は、相当に危惧している。でも相当に危惧しているだけに、私は「オバマ」と一緒に「テロとの戦い」と合唱したくない。そもそも私は「テロ」という言葉に疑念があるし使いたくない。この「イスラム」との対立を考えるとき、単に「過激・残忍・壊滅」等の言葉に現せる国際的批判や国際的反撃よりも、何か冷静に考えなくてはならない事があるのではないか。それがいったい、何なのか。自分でも明確にわからない。
でも、おぼろげに思うことを綴ってみたい。なお何度も前に言うが、決して「イスラム武装勢力」の行為を擁護している訳でもないので、その点は、よろしく。
{「仏週刊紙襲撃事件」の発端は}
仏週刊紙襲撃事件の発端は、パリの週刊紙「シャルリーエブド」がイスラム教の開祖・預言者であるムハマンドを風刺画で、相当に揶揄する風刺を何度か、掲載したことの復讐だと言われている。このムハマンドは「イスラム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く最後にして最高の預言者(ナビー)であり、かつ使徒(ラスール)」と高くあがめられている。
従って「風刺画」とはいえ、イスラム教徒にしてみれば、相当に反発と怒りをかうことだけは、十分に予想できる。
仏オランド大統領・米国オバマ大統領は「表現の自由」を理由に反論しているが、イスラム教徒にしてみれば「限度を超えている」と思われても仕方がないのではないか。例えば「イエス キリストやローマ法王を風刺した画」をキリスト教徒は耐えられるだろうか。「エリベザス女王を風刺した画」を英国民は耐えられるだろうか。そして日本の天皇もー。全て「表現の自由だから仕方ない」と同様に割り切られるだろうか。その時は「欧米自由主義的価値観への挑戦!」と抗議しないだろうか。つまりムハマンドの風刺画の中に「西欧文化のおごり」「他文化への蔑視」等の意識はなかったのか。もっとポジティブに言って、「お互いの文化・宗教の違いを認め合い、敬愛する」意識はないのではないか。(あれば、こんな風刺画は出ない)
この「『宗教観・価値観の違い』の共有化」が互いに意識構築できなければ、本質的なところで対立の終焉はないように思える。
なお補足であるが、「イスラム武装勢力」のことを、よく「テロ」というが、「テロ(テロリズム)の意味は、一般的には、何らかの政治的目的のために、暴力や暴力による脅威に訴える傾向や、その行為のこと」をいう。その意味では、米国だって「ありもしない大量破壊兵器」を理由にイラクを攻撃(国家的テロ)したし、米国国内でも黒人に対する警察の対応は、「テロ」と言っても過言ではない。しかし欧米諸国やマスコミが使う「テロ」とは、「自分達は平和的で正義」であることを前提にしているようで、これに同調するかのような「テロ」用語は、私は使わない。因みに「テロ」にも「右翼テロ」「左翼テロ」があり、日本では北星学園大学事件のように「右翼テロ(脅迫)」の方が顕著だ。警察の方々、「右翼テロ」への取締り、規制もよろしく。
*本稿は「イスラム武装勢力」と、大枠な表現にしているが、実際には「アルカイダ」「イスラム国」等々、様々な武装組織があり、各々において依拠する宗派や指導者等、活動目的、利害関係(対立)がある。しかし、その一つ一つの関係性を説明することは困難であり、私の主張にも影響しないので、この表現でお許し願いたい。
{他にも感じる西欧文化(価値観)の優越意識}
<金正恩氏「暗殺計画」映画「ザ・インタビュー」について>
この映画の上映についても朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)は、上映に強く抗議し、一旦は上映中止となったもの、結局は上映し、サイバー攻撃を受けている。(北朝鮮は関与を否定)
この件についても同様に思うのだが、確かに北朝鮮体制には相当に問題があるし、国際的批判は免れないとは思うものの、だからといって一国の指導者を、あそこまでセンス悪く揶揄することが、本当に将来の良好な米朝関係につながるのか、余計な摩擦だけではないのかと危惧する。オバマ大統領は、これも「パロディーだ。表現の自由だ」と言うが、描かれているストーリー・シーンは予告程度に見ただけだが、米国価値観からの風刺・揶揄程度で、芸術的にも低いらしい。少なくとも言いたいことは、米国価値観で金正恩氏をパロディー批判することにムキになるよりも、良しきも悪しきも北朝鮮の体制・文化等を水平思考で理解して、平和的対北朝鮮戦略で対応して欲しいことだ。
<ノーベル平和賞について>
ノーベル平和賞の授与主体は、他のノーベル賞授与主体であるスエーデンではなく、ノルウエーである。その事は関係ないと思うが、その選定には欧米の政治的価値観が反映しているのではないかと疑惑を感じることが少なからずある。
例えば2010年 の 劉暁波(中華人民共和国)であるが、確かに本人は、国際的には評価の高い民主化・人権活動家でもある。しかし彼の受賞に対しては、中国政府の反発も相当にあり、「その予想も覚悟の上」ということかもしれないが、それであれば、なお更のこと、ノーベル平和賞の選定価値観には、西欧の価値観が反映されていると思わざるを得ない。
そして極めつけは、1974年 の 佐藤栄作(日本)と2009年 の バラク・オバマ(アメリカ合衆国)。佐藤栄作は、「非核三原則」が評価されたものだが、実際には「核兵器の持込」の密約があったし、本人は当時の米国のベトナム戦争を全面的に支持していた。
佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞したのは、当時の加藤国連大使のロビー外交の成果だと言われているが、巷では、それ以外にも黒い噂が流れている。
またバラク・オバマの受賞の理由は、国際社会に向けた「核なき世界」の演説が評価されたものだが、ハッキリ言って演説だけで、何の成果・功績もない。
こうしたノーベル平和賞の西欧価値観による選定基準(政治的意図?)が、賞の権威を落し込めていることを、よくノルウエー・ノーベル委員会は、認識しておくべきだ。
<「侵略行為」の反省>
日本の太平洋戦争におけるアジア侵略への反省は、よく指摘も話題にもなるが、特に「大英帝国」をはじめとした西欧の過去の植民地政策は、それほどに問題化しないのであろう。これを言って日本の侵略行為を正当化する意思は全くないが、それでも西欧の植民地政策(今も英国の植民地的な地域はある)が、あまり問題にされないのは不条理・不公平な感がする。結局は、太平洋戦争戦勝国の論理がまかり通るのか、東京裁判の結果が今も影響しているのか-。国連の常任理事国の「選定」でも戦勝国優先の「慣習」があるようで、こうしたことも「欧米価値観優先」の典型ではと思う。
{まとめ-価値観の違いを乗り越えて}
他にも西欧の「都合のよいスポーツルールの変更」等もあるが、例示は、これぐらいにして、真に主張したいことを、まとめてみたい。
世が21世紀に入ったとき、「20世紀は戦争の時代。21世紀は人権の時代」と期待したが、どうも終焉したのは、冷戦構造位で、相変わらず戦争(紛争)の質的変化と意識構造は、引きずったままのように思える。
「戦争(紛争)の質的変化」とは何か。それは単純な社会科学-階級対立では説明できない中東・イスラム紛争。「戦争(紛争)の意識構造」とは何か。それは自己価値観・自己文化の優越意識、逆に言えば他の価値観・他文化への蔑視。今回の「イスラム武装襲撃事件」にも、根底に西欧価値観の優越意識(イスラム価値観への蔑視)がなかったか。もし、本当はあったとすれば、「やれ、表現の自由だ!パロディーだ」と言っている場合ではない。事は、武力襲撃に至ることもある次元の問題だ。
特にキリスト文化とイスラム文化の対立の歴史は長いが、もういい加減、互いの違いを認め合い、許容しあう関係を構築していかなければ、いつまでたっても「相手に対する不信と憎悪」の繰返しになるのではないか。
「相互の『違い』の共有化」。これこそが困難でも21世紀に取組まなければならない課題だと考える。
(民守 正義)
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