リベラル勢力総結集で政権交代!(14)
《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《【沖縄の良心】御爺、御婆が見た沖縄戦:沖縄知事選「原点に戻って」》
辺野古新基地建設を最大の争点にした知事選の渦中にある沖縄では、自公推薦-佐喜真候補陣営の露骨な「国家的有権者買収工作」と企業権力をも総動員して一見、泥沼化している。
その中で沖縄県民の中には、少なからず「目先の誘惑」「恫喝と締め付け」で、期日前投票で自公推薦-佐喜真候補を選択してしまった方々も、おられるようである。
或いは、今回「沖縄知事選」で厭戦気分になり、棄権を考えている有権者もいるようだ。
そこで管理者も2回、高江・辺野古に車椅子で行動参加した者として、あの何方にお会いしても「人懐こく、親切にして頂いた沖縄県民」の優しさが、今も涙が出るほど忘れられない。管理者は、いや私は、その「沖縄県民の優しさ」の原点は、先般の「平成30年-沖縄全戦没者追悼式:平和の詩 『生きる』浦添市立港川中学校3年-相良 倫子さん」の「貴方も感じるだろう。この島の美しさを-。貴方も知っているだろう。この島の悲しみを-」等とメッセージしたように、全国で唯一、行われた「人の命が数多く奪われた沖縄地上戦」の経験にあり、沖縄県民の沖縄戦体験・非体験者達を問わず、平和を祈る「魂」は、沖縄県民に脈絡と引き継がれていると私は信じている。そこで「沖縄の平和祈念魂」を想起し、改めて「沖縄知事選の判断の資」として頂く事を願って、お二人の「沖縄戦当時、学徒隊や兵士だった御爺や御婆は、どのような体験をしたのか」を紹介したい。
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<吉川初枝氏(那覇市)昭和高女・梯梧学徒隊>
米軍が那覇市内を焼き払った昭和19年10月の空襲から沖縄戦は始まった。
当時、私は那覇市泊にあった昭和高等女学校の四年生だった。女学生と言え、勉強したのは初めの一年程で、それ以降は米軍上陸に備えて陣地構築等の作業を行っていた。
那覇市泊の実家では、母親と中学一年生の弟と三人で暮らしていた。実家も空襲で焼け出され、家族三人一緒にその他の那覇の市民と共に国頭の本部町にある八重岳へ避難し、そこで軍の協力隊として迎え入れられた。それから母は四四旅団の本部で炊事担当を任され、弟は工兵隊、私は看護講習を受けることになった。看護講習を受けた後、私達、昭和高女の女学生は学徒隊(梯梧学徒隊)として従軍することになった。女学生でも軍の末端に組み入れられた。17人が二班に分かれ、首里のナゲーラ壕へ配属になった。
初めの頃は、まだ良かったが、四月になり米軍が上陸作戦を開始し始めた事から、壕には次々に負傷兵が運び込まれるようになり、ついに壕に収容しきれないほどの規模に膨れ上がった。負傷兵は壕がある山頂までトラックで運び、そこからは車が通れない道を、私達が担架に乗せて二人ずつ運んだ。負傷し脱力した人間の体は非常に重く、急斜面を女学生二人で担いで下るのは今、思うと大変な事だったと思うが、その当時は必死だった。
米軍の艦砲射撃は日に日に酷くなり、ついにナゲーラ壕付近にも届くほどになった。
壕に収容できない負傷兵は、壕近くの道に寝かせておくことしかできなかった。
その間にも容赦なく続く米軍の艦砲射撃を受け負傷したり、亡くなる兵士も多く出た。
4月29日、壕の前で仲間と話をしているとき、艦砲の直撃を受けた。私の向かいにいた友人は艦砲の破片が当たって胸に大きな穴が空き、そこから血が噴き出し、包帯を巻いて止血しようとしたが、ほぼ即死だった。別の日には、壕の中の二段ベッドの二階で負傷兵が手榴弾で自決した。物量に任せた米軍の侵攻が迫ってくる中で、自分が兵隊として使い物にならないほどの傷を負っている事への虚しさや、傷の痛みに耐えられなくなったのだと思う。
壕の中には血や肉片が飛び散っていた。死者は地面に艦砲が炸裂した後にできる大きな穴へ埋葬した。埋葬といっても当時は一人一人、丁寧に埋める事等できず、遺体をムシロに包んで手を合わせ、放り込むように穴の中へ埋めた。あのとき亡くなった人達は皆、一緒に誰の骨かも分からない状態で埋められたが、当時は皆、明日は我が身の心境で“悲しい”という気持ちさえ起きなかった。五月の中頃になって軍の指揮系統も麻痺し「近くに家族がいる者は帰りなさい」という事で、私はナゲーラ壕を離れ、首里高女の女学生と二人で一緒に糸数アブチラガマ(現・南城市)にいる母の元へ向かった。アブチラガマへ到着すると母親と弟と会うことができた。弟は工兵隊として首里の激戦地へ送られていたが、あまりに戦況が激しく、まだ中学一年ということもあり、本部の食糧倉庫の番を任され糸数へ戻ってきていた。ガマ(天然洞窟)の中で生活していたとき、壕の外で炸裂した艦砲の破片が左足首に刺さった。真っ赤に燃えた鉄の破片がそのまま肉に食い込み、その猛烈な熱さと痛みは忘れられない。6月1日、ついにアブチラガマも危なくなり、家族三人で別の壕を目指した。
そこからは軍について各地の壕を転々とする状況だった。道中に見た沖縄の街は悲惨なものだった。そこら中が艦砲の穴だらけで、雨期のため地面はぬかるみ、逃げ惑う人々が踏み荒らして田んぼのようになって、道がどこにあるのかさえ分からない。そして、あちこちに負傷した人が倒れ、亡くなった人が風船のように青ぶくれ、足で踏んでしまうとブスッと破裂するような状態だった。皆、自分の命一つを守るのに必死で逃げ惑い、負傷者に手を貸すような余裕がない。ケガをして歩けなくなった女の子が這って泣いていたが、前を行く人は皆「ついて来い」としか言う事ができず、助けたくても助けられない。その女の子も、どうなったのか分からないままだ。移動する行く先々では「トンボ」と呼ばれる米軍の偵察機がグルグルと上空を飛んで避難民の居場所を沖にいる母艦に知らせる。その直後に、そこを狙って艦砲が雨のように襲ってくる。6月13日、艦砲を避けるために数人が隠れていた農具庫に艦砲が命中し、私は意識を失った。一時経って弟の呻き声で目が覚めた。弟は左半身全体にケガを負い、腕も折れていた。母は無傷だったが母の前と後ろにいた人達は艦砲の破片が直撃して即死しており、私が駆けつけたときは母と弟の背中から大量の返り血がしたたり落ちていた。私は背中の肉が半分、抉れるケガを負ったが、幸い一命はとりとめた。
弟は二日後に亡くなった。弟の遺体は母が一人で焼いて埋葬した。そのとき私は「どうせ自分もいつかは死ぬのだろう」と思っていたため、悲しみを全く感じなかったが、あのとき一人息子を自分の手で焼かなければならなかった母の気持ちを考えると本当に惨い事だと思う。背筋をやられたためか、私は座ったり寝たりするのも一苦労で、立ち上がる動作も自力では不可能になった。立って歩くのがやっとの状態で、友達からは「あんたは自分のケガが自分では見えないから生きていられるんだよ」と言われた。その状態で壕から壕を転々とする日が続いた。艦砲が降ってきても、走って逃げる事も伏せて隠れる事もできない。
ただ立ちすくんでいる事しかできなかった。走って逃げる友を追いかけていくと、やっと追いついたところで、友達は皆、艦砲に当たって死んでいた事もあった。
最後は具志頭村の壕に隠れているときに米軍の捕虜になり、知念町にある志喜屋の部落へ収容された。少しの違いで、艦砲の破片や銃弾に当たるか当たらないかで生死が分かれる。
戦後、私の背中の傷を見た病院の先生から「結核の手術でもしたのか」と尋ねられたので「艦砲ぬ喰ぇー残さー(艦砲の食い残しだよ)」と答えてきた。米軍基地は、これ以上増やすべきではないし、なくすべきだ。「基地の恩恵」というが、それ以上に沖縄の海や山がもたらす恵みは大きく、沖縄の人達は昔からその恵みで生きてきた。沖縄の側から「使ってください」といって米軍に提供した土地は一坪もない。アメリカは戦後、自分達が沖縄の土地を奪うために侵攻し、強制的に住民を追い出して基地をつくったのだ。
沖縄の人達は金網の中に収容され、そこからバラバラの生活を送ってきているため、体験者の私達でさえ自分の体験以外の沖縄戦の実態は知らないことの方が多い。
若い人達には、先ずは自分達が暮らしている、この沖縄の歴史をよく勉強してから沖縄の未来について考えてほしい。戦争に動員された学徒隊では、ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・県立第一高女の女子学徒隊)が有名だが、沖縄戦では全21校から学徒が動員され、約2000人が亡くなっている。10代半ばの女子も男子も皆、戦争へ駆り出されて亡くなっており、その多くが知られていないため「全学徒の碑」の建立を呼びかけ、昨年三月に完成させることができた。沖縄だけでなく、外国の戦地など戦争へ駆り出され犠牲になった多くの若者達が、もし生きていれば、今のような日本にはなっていなかったと思う。何故あれほど死ななければならなかったのかと惜しい思いがしてならない。子や孫達の世代に同じ経験を繰り返さないためにも、沖縄に新たな基地を造らせてはいけない。
<與座章健氏(南風原町)県立一中・鉄血勤皇隊>
沖縄戦は、米軍の反撃でガダルカナルが陥落し、日本軍が撤退、敗戦の一途を辿る中で、兵員や軍艦、戦闘機や武器まで消耗し尽くした上で始まった。沖縄は米軍上陸前から制空権も制海権も失い、既に丸裸にされていた。だが沖縄では「ドイツ、イタリア連合軍や本土からの援軍が来る」と言われていた。戦艦大和も沖縄へ援軍に来ると聞いていたが、沖縄へ辿り着く前に撃沈された。大本営は全て知っていながら国民にも情報を隠し、いよいよ沖縄戦が始まった。「いつか神風が吹く」と教育され、当時十代だった私達も正しい戦争だと信じて疑わなかった。県立一中(現・首里高校)の四年生だった私達は、陣地構築や、出征兵士を持つ家族の応援のために農作業を手伝っていた。昭和18年~19年頃になると中飛行場(米軍占領後の嘉手納飛行場)の建設作業に動員されたが、ブルドーザーなど重機はなく、道具はスコップと「もっこ」だった。19年10月10日、米軍が那覇を空襲した。
これが沖縄戦の開戦だった。米軍のB29は沖にいる母艦と那覇の市街地上空を往復しながら那覇飛行場付近を目掛け、一日中爆撃を続け、これで那覇は全滅した。
それからというもの何度もB29が一機だけで飛来してきては日本軍の高射砲が届かない高度を旋回し、何もせずに帰って行く事が続いた。沖縄上陸作戦に向けた偵察をしていたのだと思う。昭和20年の3月23日、米軍の艦砲射撃が始まった。米軍は夜が明けて明るくなると砲撃を開始し、日が沈む頃に攻撃を止めて沖に帰っていた。25日には慶良間列島に上陸して神山島に大砲を据え、首里方面に向かって砲撃を開始した。首里は一中の学徒達が立派な壕を掘っており、中に入っていると安全だったため、そこを拠点にしていた。
学校では砲撃の合間を縫って卒業式を行った。当時中学は五年制だったが、四年生の私達も繰り上げ卒業となった。同期の入学者は250人いたが、予科練や陸軍の特別幹部候補生へ志願したり、九州や台湾へ疎開した者もおり、卒業式では、かなり人数も減っていた。
その翌日、卒業生を含む学徒(14~16歳)によって鉄血勤皇隊が編成された。
入隊後すぐに遺書を書かされ、支給されたのは軍服だけで銃も剣も持たされなかった。
九班に分かれ、私達の班は首里城の下に掘ってあった陸軍司令部の壕南口の土砂を搬出する作業を8時間勤務の三交代で行っていた。比較的安全な場所での作業だったが、壕の外へ土砂を出すときが最も危険だった。近くの農家の畑から芋やキャベツを取ってくる食料調達や、激戦地へ行って米軍の攻撃によって切れた電話線を繋ぐ作業もやった。
米軍は夕飯時になると全ての砲撃をピタッと止める。攻撃を受ける心配もなく、悠々と戦争をやっていたのだ。4月28日、夕方静かになった時間に中隊長が「お前達全員に食わす食料がなくなった。口減らしに何人か帰ってもらわなければならない。体力的に自信がない者は優先的に除隊するので手を挙げなさい」と言った。だが手を挙げる者は一人もいなかった。
結局一人ずつ中隊長が指名し、除隊する19人が選ばれ、私も、その中に入っていた。
その19人で各班の班長に除隊する旨を伝えに挨拶に行ったが「何?それなら、お前達の故郷は、いったい誰が守るのか。以ての外だ」と全員張り倒された。
中隊長から言われたのに何故なのか….と思ったが、黙って軍服を脱ぎ、誰のかも分からない学生服を拾って同じ方向へ帰る四人が一緒に自宅を目指して帰った。その内、一人は途中で別れ、そこから家へ帰り着くまでの僅か三キロの間に砲弾によって亡くなった。
南風原村の役場に勤務していた父親と合流し、玉城村に避難している母や姉のところへ夜通し歩いて行った。家族と玉城村で合流したが、そこでは一般人も日本軍の援助として、首里の前線まで弾を運んだりしていた。米軍は既に付近まで迫ってきたため、具志頭村の新城へ避難することになった。新城の天然の洞窟に入ったが、初めの一週間は静かで、艦砲も来ないし飛行機も飛ばない。戦争が終わったのかと思うほどだった。だが翌週になると「ここは最後の戦場になるから民間人は知念半島へ逃げなさい」という情報が入ってきた。
私達家族は、また玉城の壕へ引き返した。道すがら、大勢の人達が向かいから逃げてくる。「なぜ敵に向かっていくのか。すぐ近くまで敵が来ているぞ」と言われたが、父親は耳を貸さず進んだ。玉城の壕まで戻ったとき、米軍は玉城城址の一番、山の高いところへ機関銃を据えてドンドン南の摩文仁方面へ向けて弾を撃ち続け、煙が濛々と立ち込めていた。
それを見て新城へ逃げていった叔父一家も銃弾に倒れた。四方から米軍に追い詰められ、安全といえる場所等なかった。その後、密林の中に私達一家は潜んでいた。
そこでは米軍が二人組みで見回っていたので、暗くなってから水を汲んだり、サトウキビを取ったりする生活を1~2週間続けた。米軍の捕虜になった、一緒に逃げていた別の家族が呼びに来たので、米軍の収容所がある百名という部落で6月14日に投降した。
収容所に来たばかりで住む家もなく私達家族が地べたに座っていると、目の前をM4という巨大な米軍の戦車が何台も通り過ぎていった。それを見ると日本軍の戦車がブリキの玩具の様に思え、呆然と立ち尽くしたまま涙が止まらなかった。馬小屋で寝泊りし、翌日から米軍用地を整備する作業に駆り出された。16歳から45歳までの男性は皆、毎朝8時に集合し、二トントラックの荷台に積み込まれて玉城村にある今の国道331号線の溝浚いを2、3日やらされた。作業中、南部で収容された避難民が米軍に30人ほど引き連れられて歩いていた。
その中に同じ鉄血勤皇隊にいた仲間が母親と一緒にいた。飛びついて「元気だったのか、良かったな」と言いたかったが、声をかける事すらできなかった。
一緒に勤皇隊を除隊された19人の内、半分も生き残っていない。戦後は「自分は生き残って貧乏くじを引いたのだ」とずっと思って生きてきた。昭和22年頃から本格的な基地建設工事が始まり、本土からも錢高組を初め、大きな建設会社が沖縄へ入ってきた。
家も土地も奪われた沖縄県民は、収容所から無一文で出され、その工事に携わる事でしか生活の糧を得る事ができない人も多くいた。私自身もアメリカからやってきたAJカンパニーという建設会社に雇われ、日本人に対する運転免許交付の試験管をやった。
地政学的に見て、沖縄は非常に重要な位置にある。沖縄古来の歴史が裏付けているように、各国との平和交流の拠点として利用することを足がかりに発展する道を進まなければいけない。今のようなアメリカだけに利用される軍事拠点にしてしまってはいけない。
核戦争は人類を滅亡に導くものであり、それは誰もが分かっていることだ。
米軍との戦後の関係を見ても、日本との地位協定だけ他のヨーロッパ諸国と比べても全く主権がない。日本政府はアメリカの言いなりになってしまっている。辺野古新基地も含め、米軍基地は沖縄にも日本にも必要ない。(参考文献-長周新聞/文責:民守 正義)
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《【沖縄知事選】誰でもできる不正選挙・開票作業防止方策》
①投票記名にあたっては、絶対に「備え付けの鉛筆」は使用せず、予め御自分で(水性)ボールペンを持参し、それで記名しましょう。(鉛筆は「勝手な書き換え」の虞があります。特に期日前投票には要注意!)
②開票作業は公開となっています。【公職選挙法第69条】従って開票作業内は立ち入れませんが、それを示すロープ外からの作業監視(携帯等の録画もOK)は自由です。
特に「不明票の束処理」は、勝手に対立候補(自公候補)に、何気なく積み上げられる可能性があります。また録画等の作業監視する事で、心理的プレッシャーにより「不正作業」防止にもなります。主要開票場には、分担して開票作業監視する事が望まれます。
*なお「投票検数機ムサシ-不正操作」は、大阪府内某市では、他のメーカー機への総入れ替えが行われる等、疑惑が多いですが、ここでは「誰でもできる」に着眼し省略します。
*また本件記載にあたって、大阪府内2市から当然に「裏取り取材」を行ったところ、ある市の選管職員は「上司からの『書き換え』等、不正指示があっても逆らえず、一見、市民と職員が対立するように見えるが、本当は監視して頂いた方がありがたい」と内々にコメントを頂き「匿名」を強く希望されたため、市名も表記しない事を御理解ください。
(参考1:160709 【ダイジェスト版】大阪における「不正選挙」疑惑追及者Aさんインタビューダイジェスト版(聞き手:IWJ記者)/ https://youtu.be/T8i4rNuPjiU】)
(参考2:動画:「幹部からの指令で偽票を書きました」創価学会員の内部告発!2:50
【https://ameblo.jp/shig1956/entry-12177760750.html】)
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②「企業内人権研修」等の講師派遣も行います。【但し有料(2万円程度-委細相談)】
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(民守 正義)
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