リベラル勢力総結集・安倍政権打倒!(73)

《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《【護憲】憲法を求める人々“佐藤 梓(さとう あずさ)”/佐高 信》

 記者になりたいと思っていた学生時代に「むの たけじ」の本と出会って衝撃を受けたという佐藤は、NHKの記者を経て八王子市議会議員となった2015年に「安保法制」という名の戦争法と直面する。自民党会派から賛成の意見書が出され、彼女は反対の立場から論拠を並べて質問した。その後「貴方方の先輩には、こういう人がいたのですよ」と伝えたいと思い、斎藤隆夫の帝国議会での反軍演説を引いた。「ただ悪戯に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくの如き雲を摑むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば…」(1940年2月2日)この後はヤジと怒号にかき消されたが、斎藤は怯まなかった。しかし、これで除名される。
 さすがに75年後の八王子市議会では、その瞬間、自民党席からのヤジが止んだという。
 「むの」は佐藤との対談で、斎藤の反軍演説を記者席から見ていたが、「昨日のことのように思い出す」と語っている。当時「むの」のような若い記者が、喜んで接触した国会議員は2人だけだった。斎藤隆夫と、部落解放運動の親分の松本治一郎である。
 「政治に携わる人間が、人間と人間を断絶させず、繋げる役割を果たすには、どんなことを心がけるべきでしょうか」と問いかける佐藤に「むの」は「他人を理解する名人であれ」と答える。その重い言葉に触発されて、佐藤は高校生の頃の忘れられない思い出を告白する。
 ある日、仲の良かった友人に「帰宅してから読んでくれ」と手紙を渡された。
 しかし待ちきれなくて、田んぼの隅に自転車を停めて読み始めた。すると「梓ちゃんの事は好きだったけど、以下の点が嫌いだ」と幾つも列挙してある。佐藤は泣きながら家に帰って、手紙をぐしゃぐしゃに丸めて母親に泣きついた。「酷いわねぇ。もう仲よくしなくていいじゃない」と同情してくれるかと思ったら、母親は、ぐしゃぐしゃの手紙を開いて読み、「貴方は返事を書きなさい」と言った。「本当に嫌いだったら、そのまま無視しておくこともできたはずなのに、わざわざ手紙にして渡してくれたのよ」と母は続ける。

 絶対に嫌だと思ったが、泣きながら佐藤は返事を書いた。「貴方が私の事を嫌いだと思ったのは、もしかしたら、あの日、私がこう言ったからかもしれない。違っていたらごめんなさい。ただ私だって、こんな手紙を貰ったら哀しいし辛い。でも正直に思いをぶつけてくれた貴方の友情には感謝したい」こんな文面の返事を書いて友情は続いた。
 母のおかげで大事な友達を失わずに済んだと回想しながら、彼女は「嫌い」という感情は、もしかしたら「はじまり」かもしれない、と述懐している。戦争に関わって心に残る映画は神山征二郎監督の『月光の夏』と『ひめゆりの塔』と語る佐藤は、今「安保法制違憲訴訟・女の会」の原告の1人として、意見陳述の原稿を書いている。
【プロフィール】さとう あずさ・1984年、岐阜県生まれ。八王子市議会議員(社民党)。
 上智大学文学部社会学科卒業後、NHKに入局。記者として事件事故の取材をしていたが、退職。15年4月の統一地方選で八王子市議会議員選挙に立候補し、トップで初当選を果たす。(週刊金曜日)


《【反戦・敗戦】特集》
《赤紙配った、みんな死んでしもうた:軍に背き守った秘密》

 73年前の敗戦時、陸海軍や内務、外務、大蔵各省など日本のあらゆる組織が、機密性のある公文書焼却に血眼になった。軍は警察を通じて全国の役場にも焼却を命じた。
 だが命令に背いた人もいた。「うちに資料がある」。滋賀県長浜市の浅井歴史民俗資料館に、100歳を超えた西邑仁平さんから、そんな話が持ち込まれたのは2006年の夏。
 倉庫2階には、茶色の薄紙で包まれ、縄で縛られた束が積まれていた。
《応召員○○ハ/長浜駅発ノ列車ニテ出発セリ》 《六月十九日/午後一時二十八分虎姫駅着列車ニテ故○○伍長遺骨帰還》束は、日清戦争から太平洋戦争にかけて272人が戦死した大郷村(現長浜市)の徴兵検査や動員に関する公文書だった。西邑さんは1945年までの15年間、村の「兵事係」を務めていた。警察から焼却を命じられたが深夜、一人でリヤカーに積み込んで自宅に持ち帰っていた。60年も隠し通してきた秘密を明かした4年後、105歳で亡くなった。一緒に暮らしてきた長男の紘さんも知らなかった。
「『罪』を咎められ、家族に迷惑がかかるかもしれない-と親父は考えていたようです」
 毎年8月には戦没者らを祀った近所の碑に必ず手を合わせ「皆、死んでしもうて」と呟いていた。朝起きては時々「戦争の夢を見て寝られんかった」と口にした。
 兵事係の仕事についても度々話していた。徴兵検査の書類には決まって「性格温順」「風評良好ナリ」と書き「村出身の兵は皆、優秀です」と伝えていたと聞いた。
 ある母親に3人目の戦死を伝えたときには、泣いて謝ったという。「赤紙を配る自分は疫病神と思われていた」とも語り、玉音放送を聞いたときには「もう配る事はないんや」と安堵したという。資料の整理をする中で紘さんは、仁平さんが作成した「現役兵身上調査表」も目にした。家の財産、趣味や酒癖まで書かれ、一人一人が目に浮かぶようだった。
「親父は村人への責任を痛いほど感じていた。だから文書を焼くことはできなかったのでしょう」仁平さんの死後、紘さんは、父から聞いた話を文章にまとめ、講演するようになった。戦争中の記憶がない自分に「語り部」はできないが、記録を使えば「語り継ぎ部」にはなれると考えている。「残された資料が『二度と戦争しちゃいかん』という親父の気持ちを、伝えてくれると思っています」(朝日新聞デジタル)


《この国はどこへ行こうとしているのか?平成最後の夏に/俳優-鈴木瑞穂》

<憲法は戦死者の遺言>

 長年の演劇界への貢献が認められ昨年、第45回日本新劇製作者協会賞に選ばれた。
 東京都内で開かれた授賞式で、小説「ドン・キホーテ」で知られるスペイン人作家セルバンテスの言葉を引用しながらスピーチした。憲法9条が掲げる非戦の理想を引き下ろし、改憲を目指す勢力への激しい批判である。「夢だけを見て現実を見ない奴は度し難い。
 現実だけを見て夢を見ない奴は、もっと度し難い。だが救いようのないほど度し難いのは現実を夢に近づけようと努力しないやつだ」俳優としてのキャリアを66年積み重ねてきた。
「俳優は、常に時勢に敏感でなければいけません。犯罪者の役をやれば何故、罪を犯したかを問い続ける。ただ台本に書かれたものを言葉にするのではなく、役を通して社会や時代を見なければ」この季節の晴れた夏空を見ると、あの日を思い出す。
 73年前の8月6日朝、広島湾に浮かぶ江田島から7.5キロ離れた広島市内の光景だ。
 海軍兵学校で学ぶガチガチの軍国少年だった。「あの日も快晴でした。朝の海軍体操を終え、モールス信号を送る通信の授業が始まって間もない頃、突然、真っ白な光に包まれ、まるで、もう一つの太陽が照ったようでした。地鳴りのような音に続き、震度3程の揺れ。最初は、対岸の呉市にある連合艦隊の火薬庫が直撃弾を受けたのでは、と思いました」
 学校近くの古鷹山(標高394メートル)の中腹からは、海を隔てた広島市内が見えた。
 ダークオレンジ色をした巨大な泡のようなものが市内を包んでいた。「砂糖菓子のカルメ焼きのような形」に例える。それが、どんどん上昇して、やがて白い「きのこ雲」へと変わっていった。空からは乳児の産着の燃えかすや新聞紙が、ひらひらと舞ってきた。

 教官からは、降ってきた物に触ったり、雨に打たれたりしてはいけないという注意があった。「教官達は、何が落とされたのか、すぐに分ったのでしょう。でもラジオの発表は『新型爆弾』でした。当時の私の日記を見ると『人間が人間を、これほど貶める事ができるのか』と、米国への怒りを書いています」日本統治下の朝鮮半島で育った。
 中朝の国境沿いに住み、父親は朝鮮人の水産専門学校で教える教員。
 通った旧制中学は国境を越えた旧満州(現中国東北部)にあった。1943年に海軍兵学校に入るまで日本の地を踏んだことはなかった。「敗戦でとてもニヒルになりました。大人の言うことなんて、信用するものかと思っていました」。自分は安全な場所にいて青少年を戦地へと駆り立て、敗戦後は掌を返したように「民主主義」を唱え始めた。
 そんな「信用のならない大人」の一人として、日本の傀儡政権・満州国の総務庁次長として辣腕を振るった岸信介元首相(A級戦犯)を挙げる。「満州では、自分達に都合よく法律を作り、東条英機内閣では商工相として戦争を遂行した人物です。それが戦後になって『民主主義者だ』という。『ウソつけ!』ですよ」復員後に身を寄せた岩手県陸前高田市の伯父の勧めもあり、京都大経済学部に進学した。そこで新憲法に出合った。
 質の悪いザラザラの紙に印刷されていた条文を読むと強い衝撃を受けた。「日本は戦力を放棄する。もう二度と戦争をしない」と書かれている。何故こんなに優しい言葉で、一人一人の人間に愛情を注げる憲法が生まれたのか。感動したというより、未知のものを見た驚きがありました。兵学校の2、3期上は戦地に赴き、無残に死んでいった。この憲法は、戦争で死んだ人達の遺言に思えたのです」京都大在学中の冬のある日、京都で見た「劇団民芸」の公演。上演されていたのはロシアを代表する劇作家、チェーホフの4大劇の一つ「かもめ」だった。芸術に翻弄される人々の、愚かだが愛おしい営みを描いた作品だ。

「登場人物が皆、生きる目的を持っていて、人間というのは、こんなにも色彩豊かに生きるものなのかと思いました。『一人でも多くの米兵を殺し、立派に死ぬのだ』という、それまでの自分は何て貧しい考え方だったのか。人間はもっと豊かに一人一人が生きている。そう思うと涙がボロボロ出てきました」公演後、劇団の創設者の一人で俳優の宇野重吉さんを楽屋に訪ねた。大学を中退し、演劇の道を歩んだ。「演劇は人間に対する一つの賛歌なのです。人間のあり方に敏感であってほしい。ただ『感動した』『つまらなかった』という感想だけでなく、自分が何故、そう思ったのか、この演劇は自分にとって何なのかを問いかけてほしい。そうした『問い』を支えるのは知性や理性です。それがなくては、私達も芝居ができなくなってしまう」人間の尊厳を踏み躙るヘイトスピーチには、かつての自分を見るようで心が痛むという。「差別意識が生まれる根源は、どこにあるのでしょうか。どこに理性があるのでしょうか」朝鮮半島で暮らした少年時代。「当時の僕の中にも、日本民族というのは『世界第一級の民族だ』という意識があった」と振り返る。
 朝鮮の人達は、神社の前で整列し「皇国臣民ノ誓詞」を毎朝言わされていた。「我等は皇国臣民なり、忠誠以て君国に報ぜん」と。朝鮮語を使うと殴られる。それが日常だった。

 芝居を通じて「本当に人間らしく生きる事とは何か」というテーマを掲げる「劇団銅鑼」を創立したのは72年だった。しかし現代はポピュリズム(大衆迎合主義)や、知識や教養を軽視する「反知性主義」が幅を利かせている。「国会を見てください。質問に対し、正面から答弁しない。演劇では、相手に対して、心に響く台詞を返さなければ、ストーリーが成り立ちません」。やがて演劇が時代に呑み込まれて理解されなくなる日がくるのではないか。
 それが怖いと言う。大学時代の師は、財政学の権威の島恭彦氏だった。
「当時は、島さんと喫茶店で、コーヒー1杯で何時間も議論しました。島さんが言っていました。『マルクスの資本論は壮大なドラマなのだ』と。搾取はどこから生まれ、貧富の差はどう生じるのか。そして人間とは何かをドラマチックに解説してくれるというのです。資本論の講義はドイツ語で受けました。マックス・ウェーバーやケインズも勉強しましたね」
 家には授業で使ったドイツ語の原書が残っている。「引っ張り出して、もう一度読んでみたいなと思っています」
■人物略歴-すずき・みずほ:1927年生まれ。京都大経済学部中退。
52年に劇団民芸に入団。72年創立の劇団銅鑼の代表を10年間務める。
2006年、紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞。映画、テレビドラマの他、声優としても活躍。(基本文献-毎日新聞)
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(民守 正義)