リベラル勢力総結集・奴隷労働法制等阻止!(67)

《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《「戦争の放棄」こそ「命(ぬち)どぅ宝」/ 伊藤千尋(国際ジャーナリスト)》

 日本国憲法9条。「戦争の放棄」を謳ったこの条文の言葉には、平和を希求する人々の心を動かす力がある。この言葉を刻みつけた碑が国内各地に建てられていることを知った筆者が訪ね歩いた。
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<「9条の碑」を歩く>

 人は感動した時、自分の心に留めるだけでなく、表現し世に広めたいと考える。
 消されようとするなら、永遠に残るよう石に刻もうと燃える。日本国憲法9条の記念碑は、そのような存在だ。初めて私が見た9条の記念碑は、アフリカ沖のスペイン領カナリア諸島だった。2006年だ。その後、国内にもあるのを知って訪ね歩くようになった。
 これまで確認しただけで、9条の全文を刻んだ石碑が全国に18ある。改憲の動きに危機を感じた人々によってここ数年、増えている。内、七つが沖縄にある。最初に見たのは09年で、沖縄本島の読谷村だった。沖縄戦で米軍最初の沖縄本島上陸地となり、約3700人が亡くなった。基地の取材で役場に行くと、玄関前に高さ3メートルの四角いコンクリートの柱が立っている。柱の中ほど、銀色の金属板に黒い字で「日本國憲法第九條(戦争の放棄)」と旧字体で憲法9条が刻んであった。柱の上には植物の芽が天に伸びる姿を示した「萌芽」と題した彫刻が載っている。役場に入って「あれは憲法9条の記念碑ですか?」と聞くと、職員は「そうです」と答えた。沖縄戦の終結から50周年を記念して村長と村会議員の全員一致で1995年に建てた。設立の趣意書に、こう書いてある。「人間の欲望から発する戦争に対し、我々の中には生来の生きることへの願望がある。全ての生命が当たり前に、その一生を終えることができる社会、平和なうちに生命を次へと繋ぐ事のできる社会こそ私達の願い。その社会の実現を信じよう。我々自身の力を信じよう。世界中が9条の精神で満ちることを信じよう」堂々とした文章だ。小さな村から全世界に平和を発信しようという気概を感じる。政府が9条をなくそうという一方で、こちらは9条を広めようとする。「世界中が9条の精神で満ちる」という文面を侮ってはならない。現にアフリカ沖の島にも9条の碑がある。沖縄戦で町民の半数が亡くなった西原町の役場前にも「祖国復帰三十周年平和憲法記念碑」があった。2002年に当時の翁長正貞町長の名で建てた。庁舎移転に伴い、今は役場の敷地内にある。日本で行政によって最初に建てられた憲法9条の記念碑は、沖縄県那覇市の与儀公園にある。畳一枚ほどの黒い御影石のどっしりとした碑だ。傍に茂るガジュマルの大木の枝が碑を守るように覆う。

 「恒久平和」の題字の後に9条の条文が続く。白い石の台座には「本市は憲法の目指す恒久平和主義が名実共に定着し二度と戦争の惨禍が起こることのないよう祈念し『平和都市なは』建設のシンボルとしてこの碑を建立する」と書かれ、当時の親泊康晴・那覇市長の名が記してある。戦後40年の1985年5月3日の憲法記念日に建てた。
 建設を計画したのは、その前年まで務めた平良良松市長の時代だ。平良市長は1972年の沖縄の「祖国復帰」の際、沖縄県憲法普及協議会を結成して会長となった。
 米国の支配を逃れる安堵感の一方で、平和憲法がなし崩しになる危機感を感じたため『憲法手帳』を作り、県民に広めた。『手帳』には「憲法の命をよみがえらせなければならない。憲法の初原の命を、本土へさしむけるのである…憲法を守り、憲法を実践するための、新たな『復帰運動』を、この憲法手帳をかざして開始する」と書いた。
 平良氏自身、ポケットに『憲法手帳』を入れて常に持ち歩いた。与儀公園は「祖国復帰」の日に「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒、五・一五県民総決起大会」が開かれた場所だ。
 この場所に全国で初めての「憲法9条の記念碑」を建てようと発案したのは、平良市長の下で秘書課長を務めた金城義夫さんだ。金城さんに会うと1枚の写真を取り出した。
 頭をタオルで巻いた男性が天秤棒を担ぎ、両方の籠に負傷した幼い子を一人ずつ乗せて運ぶ。写真を指差して金城さんは言った。「天秤棒をかついでいるのは私の父です。籠の中に座っているのは弟と妹です」。父親の後ろに兄、母と幼い金城さんが続いていた。
 籠の中の弟と妹は焼夷弾で焼かれ、顔がケロイド状になっていた。一家6人が米軍の捕虜となって収容所に向かう場面だ。終戦の年の6月だった。那覇市の9条の碑が建設された翌86年、金城さんは沖縄南部の南風原町の町長に就任した。町を平和の発信地にしようと訴えて当選したのだ。戦時中、町民の44%が亡くなった町だけに反戦平和の意識は高い。南風原町には「ひめゆり学徒隊」が負傷兵を治療した陸軍病院の壕がある。
 病院が空襲で焼けた後、丘にトンネルを掘った防空壕が野戦病院になった。
 金城さんは壕を含めた一帯を文化財に指定しようと考えた。しかし国や県は「戦跡を文化財に指定する法的根拠がない」とにべもなかった。それなら町独自の文化財に指定しようと、沖縄戦終結から45周年の90年、条例で黄金森の陸軍病院壕を町の文化財に指定した。第2次大戦の戦跡を文化財に指定したのは、全国でこれが初めてだ。広島の原爆ドームよりも早かった。国会で憲法改悪が議論になった2004年には「はえばる九条の会」を結成した。全国の「九条の会」よりも2カ月早い。町長を退任した金城さんが会長に推された。

 憲法9条の記念碑を建てたのは、陸軍病院壕が一般に公開された07年の憲法記念日だ。
 壕の前の「鎮魂広場」にキノコのような形の、高さ2メートルほどの記念碑が建つ。
 憲法9条を彫った黒い石の上に、横長の茶色い石が帽子のように置かれ「憲法九条の碑」と書いてある。碑の後ろには9条が中国語、ハングル、英語で書かれ、「日本国憲法第九条は人類の進むべき道標」と建立の趣旨が彫ってある。50人の募金委員が町内を家庭訪問した結果、1口500円で250万円の目標に280万円が集まった。「沖縄で痛みつけられた反省から生まれたのが今の憲法です。日本の犠牲の上に立って、二度と戦争を起こしてはならないという日本国民の発想の上でできたものです。アメリカに押し付けられたという人がいますが、この憲法は私たちの意志です」と金城さん。沖縄本島から飛行機で南の宮古島を訪れた。
 街を見下ろす丘の上のカママ嶺公園に高さ約2メートルの白いサンゴにはめこまれた黒い石の板に白く「非戦の誓い」と書かれ、憲法9条の条文が彫られている。
 最初は市の費用で建てようとしたが「地方自治体に9条の碑はそぐわない」と反対され、市民の寄付を募った。06年に「みやこ憲法九条の会」を結成し、約400人から約90万円のカンパを集め、翌07年に建てた。「みやこ憲法九条の会」共同代表の仲宗根將二さんは1934年生まれだ。この年に生まれた子が入学するとき(41年)、小学校は国民学校と名が変わった。
 国家に奉仕する「小国民」を育成するようになったのだ。「戦争はある日突然に起きるのではない。雰囲気が次第に作られていく。今またそのような状況です。あの戦争前夜と同じ感じを受けます」と仲宗根さん。耳寄りな話を聴いた。2005年に隣の伊良部島の町議会(当時)が緊急動議、強行採決で「下地島空港への自衛隊誘致」等を決めた。
 抗議した誘致反対派の議員に自民党の議員は「文句があるなら今すぐ過半数の町民を集めてみろ」とせせら笑った。反対派議員達は車で町を2時間回り、すぐに集まるよう町民に訴えた。2時間後、公民館は3500人の町民で埋まった。その追及の前に壇上の自民党議員達は謝罪し翌日、改めて開いた議会で自衛隊誘致等を白紙撤回したのだ。これを「伊良部の動乱」と呼ぶ。九条の会の上里清美さんは当時を思い出して言う。「自衛隊誘致の動きを察知して私達は町の人々に警戒を訴えたけれど、誰も耳を傾けてくれなかった…ように思えた。でも公民館を埋めた人々を見た時に『訴えは耳に届いていた』と知った。大切なのは諦めない事です」。もっと南の石垣島の新栄公園には、倒れようとする鳩を支える形で「戦争の放棄」と大書した9条の記念碑が建つ。設置は「憲法九条の碑」設置石垣市民の会で、デザインしたのは「九条の会やえやま」共同代表の美術家、潮平正道さんだ。

 改憲の動きが急だった04年11月3日に建てた。潮平さんに会うと「戦時中に軍が住民を山に追い立て、3600人以上がマラリアで死んだ。軍は特効薬を持っているのに出さなかった。戦争で軍は住民を守りません」と話す。落成式では少年少女合唱団が歌う中、平和の鐘を合図に、小学生が折った折り鶴をつけた風船約200個を飛ばした。
 17年12月には沖縄で七つ目の「9条の碑」が、沖縄本島北部の大宜味村役場の敷地に建てられた。きっかけは、17年5月3日に発表された安倍晋三首相の改憲提案だ。
 中心になったのは戦時中に米潜水艦に撃沈された疎開船「対馬丸」の生き残りで海を6日間、漂った平良啓子さんだ。宮城功光村長も加わり、碑を建立する実行委員会を立ち上げた。平良さんは「黙っていたら、再びおかしな世の中になる。この碑を柱に反戦を訴えたい」と語る。碑に彫られた9条の条文の上を9羽の白いハトが円形に舞う。
 円は地球と継続性の象徴だ。その中心で碑に映る青空を背景に「命どぅ宝」の文字が金色に輝く。(週刊金曜日)


《【セクハラ抗議】「私は黙らない」新宿駅前で抗議集会》

 大型連休初日の28日、人が行き交う東京・新宿駅前に、カラフルなプラカードを持った若者達が集結した。プラカードには「With You」「どんな仕事でもセクハラは加害」「私は黙らない」等の文字。財務省の福田淳一前事務次官によるセクハラ問題で被害者の女性記者に対するバッシングが広がった事に抗議し、参加者が次々とスピーチした。
「この人は私を対等と思っていないのだと思い知らされる経験を、多くの女性が経験してきた。仕方がない、と諦めてきた人が沢山いると思う。だから私はもう黙りません。貴方は何も悪くない。決して独りじゃない」冒頭でこう訴えたのは、集会の呼びかけ人の一人、津田塾大4年の溝井萌子さんだ。「セクハラを許容してしまう社会に抗議しよう」と、有志で、ツイッター等で呼びかけた。スピーチした日本女子大大学院の是恒香琳さんは「高校生の頃『いいお嫁さんになれないよ』と言われた。大学院に入ってからは『勉強ばかりしていると結婚できないよ』と。私の意志や選択を無視した言葉です。私が何者であるか以前に、おまえは女だと言われている気がする。尊厳が傷つけられる」と怒りを込めた。
 前事務次官のセクハラ問題に触れ「女性がウソをついているように言い、被害を矮小化するような発言を繰り返した麻生大臣は謝っていない。この社会で女がどう見られているか見せつけられました」。集会には男性も参加した。ゲイの男性は「男と女の戦いだと分断するのではなく、共に立ち上がらなくてはいけない」。筑波大大学院生も「男性優位の社会で、自分の言動や態度が目の前の誰かを傷つけてきたのではないか。これは女性や性的マイノリティーの問題ではなく、私達男性の問題でもある。私達も当事者だ」と訴えた。
 集会は「いつか生まれる私達の娘や息子達が生きる社会のため、ここから絶対に変えていきましょう」との言葉で締め括られた。大型連休が始まったばかりの新宿は好天にも恵まれて人が溢れ、道行く人や海外からの観光客も足を止めてスピーチに聴き入っていた。
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《【講演と討論】激動する朝鮮半島!日本がやるべき事、私達がやれる事》

(日本の外交これでええの!?孫崎享さんに聞いてみよう!Part3)
とき:5月6日(日)午後1時半~(明日!)
ところ:エルおおさか南館5階ホール
第1部: 講演「激動の中で、今果たすべき日本の外交」
孫崎亨(まごさき・うける)氏(元外務省国際情報局長・評論家)
   「南北・朝米首脳会談の開催と朝鮮半島の大転換」
金光男(キム・カンナム)氏(在日韓国研究所)
     ビデオメッセージ 安珍傑(アン・ジンゴル)氏(韓国参与連帯)
第2部: 徹底討論「情勢を後戻りさせないために」
主催:戦争あかん!ロックアクション、日朝日韓連帯大阪連絡会議-ヨンデネット大阪
協力:大阪平和人権センター、しないさせない戦争協力関西ネットワーク、
東アジア青年交流プロジェクト


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(民守 正義)