リベラル勢力総結集・奴隷労働法制等阻止!(66)
《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《財務次官のセクハラ問題で、被害者を孤立させないために:セクハラが前提の取材現場という異常/元『朝日新聞』記者・林美子》
今、被害者に対するバッシングも起きていますが、セクシュアルハラスメントをする方が100%悪いのだということは、はっきりさせたい。今回の件で女性記者は、もっと働きにくくなるのじゃないかという恐怖感があります。取材だけでなく、どんな関係においても女性である事につけ込むような言葉の暴力、ハラスメントは絶対にダメ、という社会認識を強固にしていけるかどうか。ここが分水嶺だと思っています。ここからが重要な闘いになります。
<「寝てでもネタを取れ」>
私は、1985年に朝日新聞社に入って、31年間働きました。その殆どが記者やデスクの仕事。「女を使ってネタを取れ」という圧力がある一方で、特ダネを取ったって「あいつは寝て取ったのだろう」と言われる板挟みの中に、女性記者が置かれている状況は見聞きしていました。私自身も1990年代当時、経済部の男の先輩記者から「取材先と寝てでもネタ取ってこい」と言われた。7~8年前に、たまたま飲み会で、その先輩に会ったときも、当時のことを尋ねると「俺、今でもそう言うよ」と言っていました。
今回の福田の問題だけでなく、元々マスコミの側と取材される省庁、組織の側は、合わせ鏡のようなもので結局、どちらもセクハラ体質なわけです。マスコミの側にも、その体質が、しみ通っているので、取材先のセクハラを「そんなもんだよ」と言って受け入れているし、取材される側は、そこにつけ込んでいる。記者はネタがほしいから、夜に呼び出しても来るものだと。多少の暴言は仕事の内だろうと思っている。こうしたことが前提になっている取材現場というのは異常なのだということを、この機会に認識させて、女性がセクハラを気にせずに取材ができる環境を全ての場所で整える必要があります。
例えば『岩手日報』昨年12月、岩手県岩泉町の伊達勝身町長(当時)が自社の女性記者に抱きつき複数回キスしたことを告発する報道をしました(注・その後町長は辞任)。
必要と判断される場合は、こうした対応をメディアはしていくべきです。
こうした例と比較すると、今回、テレビ朝日の篠塚浩報道局長が自社の女性社員が被害者であるとして「(彼女の)人権を徹底的に守る」と会見しつつも、録音した音声データを『週刊新潮』に渡していた事については「不適切で遺憾だ」とコメントした事は、被害者を守るどころか二次加害になってしまっている。録音の提供は、公益通報のようなもので、取材情報の漏洩ではない。このような認識の社内で被害者が責められ、孤立していないか、懸念しています。ジャーナリストの山口敬之にレイプされたことを告発した伊藤詩織さんが以前、被害をカミングアウトした直後からバッシングに晒され「裸でいるような気持ちでいた」と、ある集まりで話していました。沢山の女性達が伊藤さんに心を寄せるメッセージを出していたと思うのですが、それが当初はあまり届いていなかったのかもしれません。
今回の件も、被害者が孤立しないように、周りにサポートする人達がいるか、どうかということは非常に重要で、ちゃんと被害者を守るということを、私達は全力をあげてやっていかなければいけません。
<特ダネは一対一で取る>
どんな仕事でも各々の特殊性があるものですが、今回の被害者に対するバッシングは、記者としての特殊性が理解されていないことも関係していると思います。
夜9時に呼び出されて、一対一で会うなんて信じられないという批判もその一つです。
しかし原則的に、特ダネは一対一で取るもの。一対一じゃないと特ダネにはならないし、相手は口を開かない。私も若いときに夜周りを沢山したけれど、例えば取材相手が帰ってくるときを狙って家に行って、一緒に相手の好きな音楽を聞いたりしながら話を聞くわけです。そうして信頼関係を作っていく。記者と取材先が肝胆相照らす中から特ダネが生まれてくる。必ず何か、そういうウィンウィンの関係があるわけで、一方のウィンが「手しばっていい?」「おっぱい触っていい?」であってよいはずがない。
そういう扱いをされることを我慢してネタを取ることを「是」とする人を否定はしませんが、自分が「是」とすることを嫌がる他人に強要する権利は誰にもない。
それを「是」とする女性達も、男社会の中で自分の感度を鈍らせることで生存してきた側面はあると思います。「♯MeToo」運動に賛同して電通時代のセクハラ・パワハラを告発したタレントの「はあちゅうさん」も「皆、身近な問題にこそ鈍感なのだと思う」と、ツイッターに書いていました。今回の事を「個人的なこと」とする声もあります。
ですが「個人的なことは政治的なことである」というのが、フェミニズムの主題です。
これは「政局利用」ではなく、権力の問題。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、権力と性は張り付いているという意味の事を述べています。つまり単に国家という権力だけでなくて、ありとあらゆる社会的な関係に権力が張り付いていて、性という最もプライベートなものにまで、染み亙っていると。「些細な事」に落とし込まれる個人的な事も、実は権力なのです。女性記者が夜の呼び出しに応じるというところに元々、権力関係がある。
しかし、この事を男性は認めない。女がそれを指摘すると「男が生きづらくなる」なんて話さえも出てきてしまう。こうした土壌を変えていくためには、男性と女性の記者の割合を半々にする必要があると思います。今はメディア全体で女性記者が2割ほどしかいません。
ただ最近の採用では『毎日新聞』が女性記者を5割ほど、『朝日新聞』も4割超採ったという話を聞いています。ですが今回のような事があると、記者を目指す女性が減りかねない。
そうしないためにも、今回の件を埋もれさせず、しっかり声を上げていかないといけないと思っています。
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<被害者バッシングを許さない緊急集会/セクハラは報道の自由への脅し>
元財務省事務次官-福田淳一による「セクハラ問題」を受けて「セクハラ被害者バッシングを許さない!4・23緊急院内集会」が4月23日、東京で開かれた。
会場には200人を超す人が集い、多くの女性が「♯MeToo」運動への連帯やセクハラ抗議の意思を示す黒い服を身にまとっていた。集会では、100人が名を連ねた実行委員会から、ジャーナリストや弁護士、大学教授等がリレートーク形式で登壇した。
各々の立場で女性への支援と連携を表明し、バッシングに対する抗議の声を上げた。
労働政策研究・研修機構副主任研究員の内藤忍氏は「セクハラ告発において被害者を孤立させる原因の一つが法体制」と指摘。民間企業におけるセクハラには男女雇用機会均等法の11条が適用されているが、それを「違法行為」と判断するための「セクハラの定義」がされていないため、裁判で民法上の不法行為を問うしかない。被害者救済システムも司法、行政ともに公開手続であるため心理的ハードルが高く、被害者の多くが心身に不調をきたすと訴えた。弁護士の中野麻美氏は、今回の福田次官と被害者の女性記者のやりとりについて、取材を受ける代わりに『性的欲求に従うように求められたもの』と指摘。
「これは単なるセクハラではない。ジャーナリストの自由と人権の保障は、報道という民主主義の動脈を支えるもの。情報を握っている側が権力を背景に、性的要求をして記者の(報道の)自由に脅しをかけるやり方はあってはならない」と語った。
元『朝日新聞』記者でジャーナリストの林美子氏は「女性だという理由で何故、こんな思いをしなければならないのか。私達が今、止めなければ、ずっとこの先、女性記者は耐えろと言われることになる。男だろうが女だろうが一対一で取材して何が悪いのか」と強調した。共産党の吉良よし子議員は「私達は女性である前に人間です。人間として様々な仕事や活動をしています。そういう仕事の場で『おまえは女性だろ』と性の対象者に扱われることがどれだけ屈辱か」と怒りを表明。社民党の福島みずほ議員等の野党議員らも登壇し「今こそ連帯を!」と訴えた。集会では最後に、登壇者や参加者が『♯Withyou(あなたとともに)』のプラカードを掲げて連帯の意思を強く示した。もう黙ってはいないという女たちの怒りと連帯に、会場から大きな拍手が巻き起こった。(週刊金曜日)
《改竄・セクハラ…「この国民にしてこの政府」重い警句》
昭和映画の名匠だった小津安二郎の言葉が、このところ胸に浮かぶ。
「人間は、少しぐらい品行は悪くてもいいが、品性は良くなければいけないよ」
これは小津の生き方の芯であり、人を見る基本でもあったらしい。小津の求めた品性とは、いわば精神のたたずまいであろう。「品行は直せても品性は直せない」と、しばしば口にしたそうだ。言葉遊びのようにも聞こえるが、言われてみれば品行と品性のニュアンスは違う。二つの語を並べて小津が示した人間像を、城山三郎さんの小説のタイトルを借りて表すなら「粗にして野だが卑ではない」となるだろうか。新幹線開業時の国鉄総裁だった石田礼助の生涯を描いた一冊である。私欲に迷わず、権力に媚びず、在任中に勲一等を贈ると言われて「山猿だから勲章は合わない」と固辞した人物だ。城山さんは言い訳をしない人間を好んだと聞く。かつてお会いしたとき、流行語にもなった秀逸なタイトルに話が及んだ。「見るからに卑のにじむ人がいますが、そういう人に限って美学とか矜持とかいう言葉を好んで口にしたがるようです」と苦笑していたのを思い出す。
◇
城山さんも小津も天上から嘆いているに違いない。この国の権力の中枢は今、荒んだ「卑」の景色の中にある。国民は自分達の程度に見合う政府しか持てないと、往々言われる。「この国民にしてこの政府」というきつい警句が議会制民主主義の本場英国には残る。
その言葉に照らして、今の永田町と霞が関に目を向ければ、私達は、このレベルなのかとゲンナリさせられる。中枢を担う政治家や官僚から、これほど横柄で不誠実な「言い逃れ」を聞かされ続けた歳月があっただろうかと思う。例えば首相である。
加計問題について「ウソツキと言うなら証拠を示せ」と国会で力みながら、愛媛県の文書については「コメントする立場にない」とはぐらかす。森友問題の国有地売却価格への認識も、不都合な事実が表面化するや曖昧に翻した。類する場面は一再ではない。
公文書の改竄も発覚した。「記憶の限りでは会っていない」と言う側近官僚は疑念に塗れている。あるはずのものをないと言い、ないと言っていたものが出てくる。
そうした中で首相は言葉だけで「信なくば立たず」を繰り返す。言を弾丸に例えるなら、信用は火薬だと明治生まれの作家、徳冨蘆花が自伝小説に書いている。火薬がなければ弾丸は透らない。すなわち言葉は相手に届かない。かみしめるべき例えだろう。しっかりと、丁寧に、謙虚、真摯、うみを出し切る―首相が並べたてる常套句はもはや、国民に届いていく力を失いつつある。そこへ露見したセクハラ疑惑が政官中枢の惨状に輪をかける。
◇
非暴力抵抗を説いたインド独立の父ガンジーの暗殺から今年で70年になる。
「立派な運動はいずれも、無関心、嘲笑、非難、抑圧、尊敬という五つの段階を経るものである」というガンジーの言葉は、理不尽と闘い抜いた人の不屈の意志を示して、やまない。それと共に闘う人々を勇気づける。最後の「尊敬」とは勝利の異名である。
#MeTooを合言葉にセクハラ根絶を訴える運動が、早く尊敬を勝ち取るときが来るのを願うばかりだ。それにしても政権周辺の体たらくはどうだろう。
当事者は見苦しく弁解し、財務大臣は薄ら笑いを浮かべ、ある議員は抗議する女性議員らを「セクハラとは縁遠い方々」とあざけった。首相側近の元文科大臣は告発を犯罪呼ばわりした。見えてくるのは、道理や人道というものへの暗さと、仲間内の論理で思考が尽きてしまう狭量ぶりだ。庇い合う。隠し合う。異論を言う者を見下す。
思い上がった「権力の仲間内」という意識と構造が今の政治風景から透けている。
ガンジーを精神的に支えた詩聖タゴールが言っている。「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱強く待っている」。深い洞察を思うとき、粗野にして卑なる景色は一層、露わだ。(朝日新聞デジタル)
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*大阪府労働相談経験10年以上。*産業カウンセラー資格、有り。
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②「企業内人権研修」等の講師派遣も行います。【但し有料(2万円程度-委細相談)】
③採用コンサルタント。【但し有料-委細相談)】
*出版実績:『公正採用と採用選考・応募と人権のハーモニー』絶賛発売中!
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(民守 正義)
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