リベラル国民の拡大・結集で憲法改悪阻止!(76)
《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《【安倍-レイプ容認】山口敬之準強姦事件を海外メディアが大々的に報道! NYTの直撃には山口がまたぞろ卑劣コメント》
「#MeToo」運動が世界的な盛り上がりを見せているが、その流れの中で、年末から年明けにかけ、海外メディアが日本で起きた性暴行事件を大きく報道し始めた。
その性暴行事件とは、他でもない“官邸御用ジャーナリスト”・山口敬之による伊藤詩織さんへの準強姦・逮捕もみ消し疑惑だ。イギリスのBBCでは「#MeToo」運動に関連して詩織さんのインタビューを伝え、フランスではフィガロ紙や週刊誌「レクスプレス」、テレビ局のBFM等が、イタリアでもコリエレ・デラ・セーラ紙が報道。
またアメリカの政治系ニュースサイト「ポリティコ」の欧州版は「Saying #MeToo in Japan」と題して詩織さんの手記を掲載し、スウェーデンの大手紙ダーゲンス・ニュヘテルのウェブサイトも詩織さんの動画付きで大きく報じた。中でも米紙ニューヨーク・タイムズは、12月30日付の1面と8面で大々的に報道。詩織さんの告発を伝えるだけでなく、山口を直撃して、卑劣すぎるコメントを引き出していた。「She Broke Japan’s Silence on Rape」(彼女はレイプにおける日本の沈黙を破った/電子版29日)と題されたこのNYTの記事では、複数の研究者やジャーナリスト、警視庁等へも取材。
山口を〈当時、TBSワシントン支局長で、安倍晋三総理のバイオグラフィーの著者であるジャーナリスト〉と紹介した上で逮捕状が発行されたにも関わらず、菅義偉官房長官の元秘書官の中村格(当時の警視庁刑事部長)(タイムラインで本人写真掲載)の決裁で、逮捕が直前で取りやめになった事等、事件のあらましを詳細にレポートしていた。
だが呆れたのはなんといっても、NYTの直撃への山口の回答だ。山口はレイプ犯罪を否定し「性的暴行はなかった」「あの夜に犯罪行為はなかった」と述べたという。
二人を乗せたタクシーの運転手は、動けなくなった詩織さんを山口が体ごと抱えて、引きずり出すようにホテルに下ろしていた事等を証言しており、ホテルの監視カメラにも詩織さんを支えながらロビーを横切る山口の様子が収められていた。また詩織さんの下着からも山口のDNAが検出されている。山口の判断でホテルに連れ込んだのは客観的事実であり、山口が避妊具をつけずに性行為を行なったことは、詩織さんへのメール等で本人も認めていることだ。ところが、NYTの取材によれば、山口は詩織さんをホテルの部屋に連れて込んだことは「不適切だった」と話したというが、一方で「彼女を駅やホテルのロビーに置いておくのも不適切だっただろう」と述べた上で、部屋内でのことについては〈弁護士の助言に従って、次に何が起きたかについては述べないと断った〉という。
<山口は「彼女が自分をコントロールできていたら何も起きなかった」>
しかも山口は詩織さんが単に飲みすぎただけだとして、こんな卑劣な発言までしていた。
「彼女は子供ではありません。もし彼女が自分自身をコントロールできていたら、何も起きたりはしなかったでしょう」被害を訴える女性に対して“自分がしっかりしていればレイプされなかった”と責め立てる。こうした唖然とするような発言を山口が海外メディアに対して平気で語っているところに、日本社会の偏見と司法制度の中にあって女性がいかに性被害を告発しにくいかを示している。実際、NYTも記事の中で、このように記している。〈日本以外の地域であれば、彼女の申し立ては大騒動を起こしたかもしれない。だが、ここ日本では、僅かな関心を引いただけだった。アメリカが、米国議会やハリウッド、シリコンバレー、報道メディアを揺るがせている性的不正事件の噴出を考慮している一方で、伊藤さんの件は、女性がレイプ被害を警察に届けることが少なく、また通報したとしてもその告発が逮捕や起訴まで行き着くことがめったにない日本では、如何に性的暴行が避けられがちな話題のままであるかを示すはっきりとした事例だ。〉NYTは、集団準強姦の容疑で書類送検されていた慶應大学の男子学生6人を横浜地検が不起訴処分にしたことや、千葉大学での強姦事件で被告の一部、また東京大学での集団強制猥褻事件の被告らに執行猶予がついた事等を紹介しているが、実際、日本の司法制度は欧米先進国と比べ、性犯罪加害者に甘く、被害者に対し厳しい「女性性虐待容認」が常識化している。
<日本社会に蔓延る「レイプ神話」、司法でも男性目線が横行>
この国の司法の場においては、性犯罪に対してジェンダーバイアスによる偏見が蔓延り、男性目線の「レイプ神話」によって被害者女性こそが裁かれてしまう場になっていると言うべきだろう。例えばレイプ事件に際して必ず持ち出されるのが、被害者の「落ち度」についてだ。「夜に一人で歩いていたのが悪い」「一緒に酒を飲んだことが悪い」「部屋に招き入れたのが悪い」「車に同乗したのが悪い」「露出した服を着ていたせい」等、いずれも性犯罪が正当化される理由には決してならないが、こうした妄言が、のさばっている。
事実、詩織さんが会見で山口からのレイプ被害を実名告白したときも、ネットでは詩織さんの服装に対して「胸元が開きすぎ」という攻撃が相次いだ(実際には、詩織さんは、そのような格好はしていなかった!)。山口が今回のNYTの取材に対し「彼女が自分自身をコントロールできていたら、何も起きたりはしなかった」と言い放っているのも、まさにそうした「レイプ神話」の典型だ。その背景には、司法にも蔓延っている“男性優位”の目線がある。事実1994年のある性犯罪の判決においては、〈被害者が初対面の被告人と飲食店で夜中の三時すぎまで飲んだこと、その際セックスの話をしたこと、野球拳で負けてストッキングを脱いだこと、そして被告人の車に一人で同乗した事等〉を「大きな落ち度」とし、被害者の供述の信用性を疑って被告人に無罪判決を出した。この事例を取り上げている『逃げられない性犯罪被害者─無謀な最高裁判決』(杉田聡・編著)は、旧態依然とした“男性にとって都合のいい”見方が司法の世界でまかり通っている理由の一つを、このように記している。
〈警察官の90%以上、検察官、裁判官の80%以上が男性であり、警察も検察も裁判所も圧倒的な男社会です。僅かに存在する女性も、圧倒的な男社会の中で男性の感覚に染まってしまっていたり、違和感を感じながらも大勢に逆らえなかったりします。その結果、加害者と同じ男性の感覚で被害者の落ち度を責め、プライバシーを暴きたて、被害者を傷つけます(二次被害)。強姦裁判が、被告人ではなく、被害者を裁く裁判と言われる所以です。〉
<海外メディアとは対照的、山口の事件をスルーする日本の新聞・テレビ>
だが欧米メディアが、こうした女性の性被害を巡る日本社会の状況を大きく問題視する中で、国内のテレビメディアは、とりわけ山口の事件については殆ど沈黙している。
詩織さんの会見の模様こそ一部テレビが報じたが、逮捕が直前で取りやめになった事や山口が安倍(レイプ容認)首相や官邸と近い人物である事を掘り下げないのはもちろん、例えばNHKは年末に「#MeToo」運動をニュースで取り上げても詩織さんについては一切触れなかった。詩織さんの著書『Black Box』によれば、山口が書類送検されるというタイミングで日本テレビのインタビューを受けていたというが、送検後も放送されることはなく「不起訴になったら報道する」と言われたが、その後も日テレが、この事件を報じることはなかった(日テレは記者会見当日の中継で初めて報じた)。
詩織さんは前述の「ポリティコ」に寄せた手記(1月2日)の中で、このように語っている。〈逮捕が取り消されたとき、私にとって唯一残された手段はメディアに語ることだと思いました。私は信頼するジャーナリストに話しました。結局、昨年前半の「週刊新潮」の報道以外に、この話を報じたところはありませんでしたが。政治的にセンシティブだったにせよ、日本のメディアは普段から性犯罪に沈黙しています─(日本のメディアにとって)性犯罪というは本当に“存在しない”のです。“レイプ”という言葉を使うのすらタブーで、もし被害者が未成年だったら“(条例等の)違反”あるいは“イタズラされた”という言葉にしばしば置き換えられます。これは人々を無知にさせます。〉
日本では、性被害を告発した女性に対するセカンドレイプやバッシングが横行し、男性優位社会に根ざす「レイプ神話」が、女性の発言を封じ込めようとする。
そして国内メディアはそうしたことを知りつつも、レイプ問題をタブー視し、積極的に問題を報じようとしない。日本の「性においても男尊女卑」の価値観が、いつまでも続くわけでなく、他の差別問題と同様、「被差別者(被害者)の反逆」が、如何に恐ろしいか、のさばっている安倍政権・メディア・男性中心社会を支える者達は、首を洗って覚悟しておいた方がいい。(参考文献-リテラ/総合文責:民守 正義)
《【極右-安倍】主語のない首相演説-絶対的権力者の証左?それとも…》
黒豆も田作りもある。栗きんとんはつややかで数の子には金粉がかかっている。
わあ、きれいなおせち。ただ凄くおいしいかというと正直微妙。ちょっとずつしか入ってないのに、ちょっとずつ残る重箱の怪。お母さん、来年はもう買わなくていいんじゃない?―と、毎年繰り返されるお茶の間の会話を想起した。過日、安倍(詭弁)首相の施政方針演説を聞きながら。「いい言葉」が散りばめられ、政策は満載、「皆さん、共に○○しようではありませんか」も頻出する。でも作り置きを自然解凍したかの如く、どこか水くさくて熱を感じない演説であった。
◇
それは確かに、首相が「安全運転」を心がけたからだと評し得るのだろう。
他方、国会審議への意欲が減退しているようにも思える。なんだろう、これ。
演説を何度か読む内、ある事に気付いた。「私」という主語を明示しての語りかけがない。強いて言えば1カ所「私が適切な時期に訪中し」とあるのみだ。「I Have a Dream(私には夢がある)」。キング牧師の名演説を例に出すまでもなく「私」をはっきりさせると演説の訴求力は格段に上がる。言葉を発する主体としての「私」が先ず立ちあがってこそ、賛であれ否であれ、聴く者の感情を喚起する事ができる。いや、そもそも、そういう技術論より先に、本気で他者に何事かを訴えたいと思えば、自ずと「私」が出てくるはずなのだ。なのに何故。ずっとこうだっけ?第2次安倍政権下の施政方針演説を読み直してみる。ほらね。当初はちゃんと「私」が躍動していた。「私は、彼らの先頭に立って、国民の生命・財産、我が国の領土・領海・領空を断固として守り抜く決意であります」(2013年)
「私は、自由や民主主義、人権、法の支配の原則こそが、世界に繁栄をもたらす基盤である、と信じます」(14年)「私は、この議場にいる全ての国会議員の皆さんに、再度、呼び掛けたい」(15年)ところが16年から「私」という主語は、ハタと消える。
「私」が声高に訴えずとも、望めば叶う、絶対的権力者となり、おおせたる事の証左か。
あるいは、15年に戦争法制を成立させ、「私」が真にやりたい事はやったという感があるのだろうか。唯一、憲法改正―「私」が前に出ると頓挫する可能性があるプロジェクト―を除いて。
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演説を精読した効用はもう一つ。聴くだけでは気付かなかったが、「くにづくり」に「国創り」の漢字が、わざわざ当てられている事をシカと認識した。「五十年、百年先の未来を見据えた国創りを行う。国の形、理想の姿を語るのは憲法です」創る。大辞林(第三版)には載っておらず、明鏡国語辞典によれば「初めてつくり出す」の意。
国を、初めて、つくり出す…「国づくり」「国造り」がまとう土と汗の匂いは「国創り」からはしない。ただ「私」なき演説にあっても、安倍晋三という極右政治家の臭いを、強く漂わせている。(基本文献-朝日新聞デジタル/管理者:部分編集)
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《【報告と問題提起】国家と徴兵制~韓国の兵役拒否者に聞く》
◎【日時】2月9日(金)午後6時開場:午後6時30分開始
【場所】エルおおさか5階-視聴覚室
【資料代】800円
◎主な報告者:●チェ・ジョンミンさん(NGO「戦争ない世界」活動家)
●藤井たけしさん(成均館大学講師・梨花女子大学講師)
●アキ・アンさん(アンチミリタリズム活動家)
●韓国の兵役拒否者から
◎主催-29「国家と徴兵制」集会実行委員会
*連絡先:℡06-6364-0123/FAX06-6364-5247中北法律事務所気付
《ブログ「リベラル広場」では次の事業も行っています。》
①職場(仕事)における労働・人権相談(ハラスメント・メンタルヘルス等、含む)
*大阪府労働相談経験10年以上。*産業カウンセラー資格、有り。
*但しメンタルヘルスの場合、もし心療内科等に受診されている場合、または、その受診の方が望ましい場合は、当該医師の指導を優先し、カウンセリングを断る事もありますので予めご了承ください。
②採用コンサルタント。
*出版実績:『公正採用と採用選考・応募と人権のハーモニー』絶賛発売中!
◎なお寄せていただく相談意見等は、とりあえず全てEメールで送信してください。
<送信先Eメールアドレス>yutan0571@yahoo.co.jp
●費用:交通費等、実費+α(若干-協議)
(民守 正義)
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