リベラル国民の拡大・結集で憲法改悪阻止!(75)

《Ken Sway Kenと管理者の【緊急事態条項等、憲法改悪阻止】》
《安部官邸と自民が沖縄に襲いかかる!/山城博治》

 小学校高学年のときに見た、「沖縄復帰行進」、「全琉行進」とも言ったと思いますが、数ヵ月かけて島中を行進するのです。住民は日の丸を振って日本への祖国復帰を願う。
 1960年代の初めでした。私が社会に関心をもった最初の出来事です。
 でも今、思えばかなり奇異な光景です。その前、1945年の米軍占領から数年、米軍駐留は、沖縄を「解放」してくれると多くの人が期待もしたようですが、どうやらそうではないらしい。この基地建設は大陸の共産主義化に対しての前線基地ではないのかという疑いの中から日本への復帰運動が出てきます。でも当初の復帰運動は、米軍の沖縄支配があまりにも凄まじかったので、その収奪、支配から逃れるための運動。日本に返還されれば、そのような状態から救われるのだと思った、というかそう思うしかなかったのです。
 だから日の丸を振るような民族的な復帰行進になったのじゃないか。
 高校2年生のとき、69年の佐藤・ニクソン会談での返還合意があった。その合意は私達が思い描いていたものとは違うということが分って、沖縄革新共闘は「即時無条件全面返還」というスローガンを掲げた。そして復帰論に幻想を持っていては駄目なんだという議論が沖縄文化人から起こってくる。「反復帰論」で復帰論の内実を問い返す動き。
 その時の論客の一人に仲宗根勇さんなんかがいた。私もその論議に同調していくんです。
 会談に反対し、高校で1週間のハンストを行なった。70年の6月には返還協定反対で二つの教室をバリケード封鎖し結果、除籍です。退学ではなく除籍、僕は高校生として存在していなかったことになった。同じ高校の女子生徒が米兵に襲われたときは基地までデモを打った。そんな10代の中で、絶望していく沖縄の未来や将来、祖国復帰運動とは何だったのか、やり切れない怒りと悲しみを体験しました。

<東京の大学時代>

 東京に行こうと思ったのです。勉強をしたかったのです。なんとか頑張って大学検定試験に合格し、そして法政大学に入った。法政には別に学生運動したくて入ったわけじゃないのです(笑)。検定を受けてでも大学に行きたかったのは、沖縄の復帰運動の総括を自分なりにしたかったからなのです。沖縄の未来をどう描くのか、誰がやるのかという想いがずっと心から離れない。大学はロックアウトばかりだったけど、法政には中野好夫さんが72年に無償で移管した資料を基につくられた「沖縄文化研究所」があって、沖縄の人ならドンドン利用してね、みたいな空気があった。悶々としていた私には、その意味ではいい環境でした。

<沖縄県庁時代は不発弾の現場に>

 県庁に入ったのは82年、職員採用最後の29歳かな。大江(健三郎)さんじゃないけど『遅れてきた青年』です。最初はネコかぶっていたのですけど、「あのバリストやったヒロジが県庁入った」って、素性は隠せないですね(笑)。県庁では労働問題の現場に関わりました。
 3年後に消防防災課の不発弾担当に回されたのです。首里城の後ろの方、高速道路工事で山を削ると遺骨や不発弾がたくさん出てくるのです。遺骨は糸満にある納骨堂に、不発弾は処理する、その担当です。50キロ爆弾を、マグロを抱くみたいにかかえたこともありました。
 すると上司が「なんだ、お前、元気いっぱいだし、見所あるな」と、この時だけですよ、後にも先にも当局から評価されたのは(笑)。でも沖縄の戦後処理に携わっているという実感はあったのです。情報があれば宮古にも八重山にも伊江島にも行きました。
 首里の町にも不発弾がいっぱいあるということで行くのだけれど、まだ古い石垣の時代で、積んだ岩に隙間があり、そこにハブがいるのです。あれにはびっくりした。
 87年に海邦国体です。消防防災に僅か1年勤務した後、その国体の事務局に送られました。
 天皇国体、政治国体とも言われて、学校に「日の丸」を持っていって「君が代」を歌えと指導する人です。しかし、いよいよ耐えられなくなって、県庁に対し反対ビラを撒いた。
 その後、県庁本庁を追い出されて県税事務所に回されたのですが、ほどなく組合専従になります。知花昌一さんが、読谷村ソフトボール会場の日の丸を焼いたのが、この海邦国体です。この頃、当時、県会議員だった照屋寛徳さんに会ったのです。「本物の人」だと感じました。筋の通り方が違う。その時が長いお付き合いになる最初でした。

<高江の現場に入る>

 90年、イラクのクウェート侵攻で始まった湾岸戦争のときは、毎日のように国際通りに向かって「アメリカの侵攻、侵略反対」とマイクで訴えていました。そしたら当時の(沖縄平和運動)センターの議長が「なんか(自治労沖縄)県職労に、おもしろい奴がいるな」ということで県職労から2年後にセンターに呼ばれて移っていくのです。照屋さんに会い、山内徳信、東門美津子、大田(昌秀)さん等に出会っていくのです。こういう本物の人達と出会えたことはとても光栄でした。2004年にセンターの事務局長になって辺野古通いが始まります。
 第1次辺野古行動とも呼ばれています。1997年に普天間から辺野古に移設が決まる。
 その後、紆余曲折を経て04年に工事開始です。この年には沖縄国際大学に米軍ヘリコプターが墜落する事件があり、普天間基地、嘉手納基地への反基地包囲デモを繰り返し行なうことになる。04~05年の工事強行の後、辺野古は一旦、休息します。
 当時の小泉(純一郎)首相が、沖縄の民意は無視できないと、いまの安倍さんとは違って、その頃はそんな強硬なことはしなかったのです。そして07年から高江に行くことになります。私の山ごもりはこの年からです。

<1日50本の煙草を絶つ>

 その時ですよ、あれだけ吸っていた煙草を止めたのは。山では売店もないし自販機もない。健康のためというより、煙草がなくなったときの恐怖が大きかったのです(笑)。
 7月に山に入って2ヵ月、9月の誕生日に意を決して止めた。止めたのだけど、手は震えるし禁断症状が凄かったんです。その辺の葉っぱ巻いて吸う真似なんかしていたのだけど(笑)どうにもだめで、1日1本だけ吸う事に決めて、どんな状況で吸ったか日記につけていました。どんな気持ちで1本吸ってしまったのかなんて(笑)。
 その後2カ月、1日1本が続いた11月のある日「ダメだ、こんなことしていたら、何時になっても止められない」もっとしっかりしろと。7月から4カ月です。
 で、11月からはアメなんか舐めていたのだけど、どうも落ち着かない。
 それで吸いたくなると「かっぱえびせん」を食べる事にしたのです。かっぱえびせんに助けられた(笑)。後で思うとね、その後、健康診断の度に腎臓がどうのこうのと言われるのは、かっばえびせんで塩分取り過ぎたのじゃないかと(笑)思うのだよね。
 現場の闘争というのは労働運動とは違って、センターの役員だといっても結局、人間として付きあわないと始まりません。人と人の繋がりですから。ヒロジの所に行けば何かあると(笑)。それで酒とカップラーメンは常備品。隣の海に降りていって魚獲って10人前位の「魚汁」なんか作っていましたね。でも食器洗うにも水がないから井戸、掘ってね、トイレ作って。ずっと高江の森に張りついて、車の中で寝泊りしていましたから。
 風呂がきつかったね、1週間に一度は自宅に戻ったので、そのときにね。でも皆「ヤマシロさーん」なんて来るから、何か食べものないといけない、終れば食器洗って。
 オレ一体何しているのだろうなんて思いましたよ。冬は寒かったね。洗濯が大変だった。
 山を歩き回るでしょ、汚れるでしょ、井戸水で洗って県道沿いのガードレールに洗濯干してね。冬は夕方5時には暗くなる。夜が長いのです。だから泡盛を呑んでしまうのよ(笑)。
 そんな生活を何年、続けたのだろう。07年から14年だから7年か…。とにかく仲間が来れば何か作っていた。パスタ、ソーメン、ラーメン、麺類が多かったなあ。

 麺にカレー、コーンスープ、なんでもかけた(笑)。今、何故、病気(リンパ腫)になったかと思うのですが、肉体的に無理をしてきたというのは間違いないけど、想えば高江にいた11年だったか、突然、体が動かなくなったのです。その頃は平和運動センターの街宣車のシートを倒して、戸板1枚、敷いて平らにして寝ていたのだけど、ある日、目が醒めたら体が痛くて動かないのです。こう仰向けで寝ていると、両腕が戸板から、はみ出て、ダラーンと下がった状態が長く続く。仲間が「それじゃ、まるで戸板に乗せられた死人のようじゃないか」って(笑)。不吉だし、止めた方がいいって。この辺りに癌の前兆があったのかなと思います。街宣車は何年も経っているから所々、腐食してきていて、そこからネズミが入って中の食料を囓るのです。ネズミだけなら可愛いものですが、怖いのは、そのネズミを追ってくるハブなのです。これは堪らない。実際、夜トイレで車から出るときなんか電灯持ってそこら中、照らしてみてから降ります。自然の宝庫としての「やんばるの森」にしてみたら、僕らの方が侵入者なのだけど。それで軽のバンを買ってきて、後ろに畳1枚敷いて寝るようにしたのです。前の車は戸板の下に隙間があったし、車内が広いので、なかなか暖まらないのですが、その点、軽バンはスペースが狭くてすぐ暖まる、何かといいのです。

<現場へのこだわり>

 センターの幹事会でも一度、議論があったのです。センター事務局長がなんで山に入るのだと。貴方は集会の企画をし、運動の組み立てをして県内に発信するのが仕事だと。
 でも私は性分として現場にいきたい。「平和運動センター」という名前には“運動”と付いていて、組織というより運動するための要だと言ったのです。
 私は、そう思ったから事務局長を受けたのだと、山を下りて来いというならセンターを辞めると。そんな事で、皆に解って貰いました。08年に沖縄防衛局が住民15人を民事で訴える、いわゆるスラップ訴訟が起きます。10年の秋、ついに工事が強行されました。
 高江第1次闘争。そのときは、まだ警察は一応中立を保っていたのです。
 今みたいに反対派をあからさまに排除するような事はなかった。防衛局も反対派も同じような距離をもって扱った。そんな事もあって第1次の反対行動は勝利する。強行を止めたのです。これから後なのです。安倍政権が、この時の轍を踏まないようにと強硬姿勢になってくるのは。辺野古でも高江でも、海上保安庁や警察機動隊の対応が暴力的になってきました。

<16年17年の波乱>

 14年までは、名護署の刑事達も、たまにテントに立ち寄ってきました。コーヒー飲んでいけよって。警察とも長い付きあいになっています。毎年ずっと「5・15平和行進」もしてきたのだから。人と人のつながり、皆よく知っている顔なのです。権力はそれが嫌だったのでしょうね。反対派と一緒に、沖縄県警も中央から監視されているような感じだったのじゃないでしょうか。三上(智恵)さんの映画『標的の島 風かたか』にも映っているけど、警備の担当が私に「元気になれよ」とか(入院するとき)「早く帰って来いよ」なんて言っているのだから。警察内部で、それが、かなり問題になったみたいですね。
 15年に東京の警視庁150人が来たときから沖縄県警も変わってくるのです。激しくなった。
 映画でも詳しく描かれる「165日間の激動」、そして拘留されるのです。警察も必死だったのだと思います。ゲート前だけではなく、皆で実際に山に、うねりのような道を切り拓いて、100人規模でヘリパッド基地にはいるのだと言っていたものだから血相変えていた。

<不当拘留へ>

 もうこれは「ヤマシロ拘束」しかないと。森の中でゲリラ戦やられたら、どうなるかわからない。私達の想像以上に警察は危機感を持っていたのじゃないかな。留置3日、最大拘留20日の23日間が終わると、また共犯者みつけてきて23日拘留が延ばされる。
 四つの容疑ですから。その連続でした。権力から一旦、狙われると、なかなか逃れられません。16年の10月から17年3月まで、152日間です。一番厳しかったのは「貴方、責任者なのだから、認めなさいよと。堂々とやればいいじゃないか。やった事に対しては、ちゃんと謝罪して、仲間達には迷惑かけない、それがホントのリーダーの姿じゃないか」とこう来る訳よ。何言っているのだと、お前に説教されたくないわ、やってないものは、やってないと思いますね、すると「貴方が黙秘して我を張ると、他の捕まっている仲間達が解放されませんよ、ヤマシロさん」と迫ってくる。あいつらは仲間割れを画策してくるのだよ。
 でも弁護士が励ましてくれたのは大きかった。あれがなかったら、すごくきつかったと思います。弁護士だけは接見できるからね。陽気な弁護士さんで「大丈夫、大丈夫、山城さん、殺されはしないから~」って、そんな軽さが、気を楽にしてくれます。遠回しだけど、弁護士通じて仲間とも連絡取れるからね。その仲間が「オレは絶対、落ちない、間違った事やってない。山城と一緒にやれて光栄だ」と言っていると弁護士から聞いたときには、ほんとに泣きました。皆の力があって、仮釈放になった日に、歯医者が待っていてくれたのです。虫歯が6本もあった。拘置所では、歯はまともな治療なんかしてくれないので、ありがたかった。

<今は「全国行脚」>

 (瀬長)亀次郎さんが言っていたのを思い出します。「弾圧は友を呼ぶ」って。保釈金700万円は労組が出してくれているのです。保釈中なので、いろいろ制約もあり、今は現場に行けない状態です。組合も保釈金を没収されては堪らないので行かないでくれと(笑)。
 だから今日も、そうだけど全国回って沖縄のことを伝えている。だから『週刊金曜日』にも感謝しています。沖縄のことを誌面にしてくれるだけでありがたいです。
 メディアは最後の砦です。三上さんや、藤本(幸久)、影山(あさ子)監督の映画もそうです。やはり映像は文字にはない迫力がある。監督さん達の熱烈なドキュメント映画がなかったら高江に、ここまで人が集まらなかったと思っています。だけども、どこの集会行っても気になるのは、若者が少ないことです。どうやって若い人達に語りかけていくか、これからの重要な課題だと思います。徴兵されるのは、貴方達なのだと、連帯しようと。
 想い出しましたが、辺野古で、こう語りかけたら受けたのです。「ここに集まった皆さん!貴方達の責務は大きい。まだジージやバーバ等と呼ばれるには早い。先頭になって頑張らなければならない。ここに来たら皆ニーニー(兄兄)、ネーネー(姉姉)ですよ~、よろしいですか!!」そう言ったら「そうだそうだ」って拍手が凄かった。
 家ではジージ、バーバだけど辺野古ではニーニーズ、ネーネーズ。辺野古のネーネーズは有名なのです。若いって気持は大事です。今日、例え負けても明日やり返す。

<読書遍歴>

 悩みながら大学に入って、苦しみながら、闇を切り裂くように未来を見たいと思って、あがいてきました。その中で、たくさんの著書にも触れてきました。自分を磨きたかった。
 「反復帰論」と格闘しているときに、『邪宗門』や『わが解体』を読んで、いたく高橋和巳に傾倒して18の時だったかな、本物の高橋和巳に、どうしても会いたくて京都まで行って、京都大学の門のところで待っていたのだけど、もう死んでいた(笑)。
 それから高橋は中国文学だから、魯迅にいって『阿Q正伝』、そして『死霊』の埴谷雄高に移って、読んでいるとロシア文学が出てくるから『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』に挑戦して…そんな風にして自分の人生観や歴史観を作っていったのかなあ。
 五味川純平の『人間の条件』には感動して、そこで戦争に対しての視点みたいなものができた気がします。そして悩みながら葛藤しながら、何が人生にとって大事なのかを考え続けて今に至っています。そんな話を、この間、大学で学生に向けて話したのです。
 そして私の中には「理想としての平和」、そして「人間の解放」をいつも心に持っているつもりです-といって講演を締め括った。終ったら「山城さん!もっと話、聞かせてくださいっ」って学生が集まるかと思ったら、こないのだよ(笑)。やってくるのは「やっぱり高橋和巳でしたか~」って、同世代の年配の人達だ(笑)。それでも2人来たかな。この人達とは、いろいろ話しました。大塚久雄という経済学者がいて「大塚史学」といわれているのだけど、社会科学というのは、いわゆる俯瞰する目だと、氷河の上に乗っていたんでは氷河全体が、どう流れているのかわからない。その氷河を上から見る、氷河の流れを知る視点が社会科学だと、それは今でもなんか忘れない、なんてことを話しました。
【管理者:管理者も山城さんの講演後、談笑し、サイン入りの「標的の島-風かたか」購入した。そこには「しなやかに、したたかに、希望を持って、勝利の日まで」と添え書きして頂いた。明日は名護市市長選挙。結果は如何にあれ「勝利の日まで」闘い続ける事は変わらない!】(基本文献-週刊金曜日/管理者:部分編集)
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《【報告と問題提起】国家と徴兵制~韓国の兵役拒否者に聞く》

◎【日時】2月9日(金)午後6時開場:午後6時30分開始
【場所】エルおおさか5階-視聴覚室
【資料代】800円
◎主な報告者:●チェ・ジョンミンさん(NGO「戦争ない世界」活動家)
       ●藤井たけしさん(成均館大学講師・梨花女子大学講師)
       ●アキ・アンさん(アンチミリタリズム活動家)
       ●韓国の兵役拒否者から
◎主催-29「国家と徴兵制」集会実行委員会
*連絡先:℡06-6364-0123/FAX06-6364-5247中北法律事務所気付


《「旅券没収と渡航制限付き旅券」撤回訴訟:本ブログ読者:フリーカメラマン杉本祐一さん支援のお願い》

<「旅券没収と渡航制限付き旅券発給の経過と争点/旅券強制没収の経過/裁判の経過と情勢報告等」については、昨年9/10の本ブログ【「叛-安倍」リベラル勢力の総結集!(1-27)】「ご案内コーナー」を、ご一読ください。なお現在は、最高裁に上告・審理中です>
〔杉本祐一裁判支援カンパを、よろしくお願いいたします。〕
① フリーカメラマン杉本祐一の裁判を支える会 代表 杉本祐一
 フリーカメラマン スギモト ユウイチ 店番231 普通 口座番号1691517
 /第四銀行白山支店
②他銀行からゆうちょ銀行への振り込みの場合
 ゆうちょ銀行 口座名義フリーカメラマン杉本祐一と友の会 店名一二八 店番128
 普通 口座番号3551231
③直接ゆうちょ銀行に出向いて振り込む場合
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(民守 正義)