劣化する安倍ファシズム政権と「リベラル野党共闘」の行程(84)
劣化する安倍ファシズム政権と「リベラル野党共闘」の行程(84)
《【不戦・反戦の誓い】シリーズ》
<澤地久枝さん「記憶の底に押し殺していた戦争体験」>
SEALDsの若者達と一緒に、戦争法反対に立ち上がった作家・澤地久枝さんが、ソ連将校によるレイプ、満州での飢餓など「記憶の底に押し殺していた戦争体験」の全てをはじめて語った。
1930年生まれ、『妻たちの二・二六事件』『昭和史のおんな』等の著書のあるノンフィクション作家の澤地久枝さん(84歳)が、満州での戦中体験を綴った『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』。
困窮を極めた戦中の生活について、そしてソ連(ロシア)兵に犯されそうになった事を始めとする壮絶な体験が綴られている。
「戦争」と「昭和」をテーマに執筆を続け、平和運動にも関わってきた澤地氏だが、これまで自身の戦争体験について明かした事はなかった。「恥ずかしくて、戦争中の体験は隠して生きてきた」という澤地氏が、なぜ今になって過去を語り始めたのか。
70年前、「軍国少女」だった過去を初めて明かした澤地さん。
*********************
幼い頃から戦争が終わるまで、私は満州にいました。その頃、常に考えていたのは「もっと戦争のために、自分ができる事はないのか」ということ。〈欲しがりません、勝つまでは〉を叩きこまれた軍国少女は「どんなにひもじくても、食事のときは子供茶碗一膳しか食べない」という決まりを自発的に守っていました。その上に配給制が始まり、子供達はどんどん栄養不足になる。弟は脳脊髄膜炎になり、私も妹も猩紅熱にかかり、生死の境を彷徨いました。全身の皮膚がずるむけになってね。痛くって、痛くって…。栄養失調で死ぬ人を何人も見ましたね。
特に満州から日本に引き揚げるまでの難民生活の中では、幾つ子供の死体を見たか、わかりません。お墓をつくる余裕もないから、枯れ木みたいになった死体を裏山の穴に捨てるのです。そんな環境で生きる中で、私の生理は止まりました。戦争は、一人の少女が少女である事さえ許さなかったのです。私は14歳の時に敗戦を迎えましたが、それまでは一点の疑いもなく日本の勝利を信じていた「軍国少女」でした。
そのことが恥ずかしくて、今までずっと戦争中の体験は隠して生きてきました。今、その事を強く悔やんでいます。私は日本がもう一度戦争を引き起こす、あるいは戦争に巻き込まれるのではないかという危機感を感じています。なぜ平和を愛したこの国が、再び危うい方向に向かおうとしているのか。それを考えた時に、私達の世代が抽象的な言葉、例えば「戦争は辛かった」「苦しかった」というような言葉でしか、戦争を語ってこなかったからではないかと思ったのです。抽象的な言葉では、もう若い世代には伝わらない。だから私達は、なるべく具体的に細やかに、戦争体験を語っていかなければならないのです。
例え、それが辛い記憶を掘り起こす苦しい作業であっても―。
▼GHQに捕まるという恐怖
私達は、戦争体験を語らなかったのではありません。
「語れなかった」のです。今の人達には想像もつかないでしょうけど、戦後間もなくの日本には『戦争中のことは語ってはいけない』という空気が漂っていたのです。当時は本当に『戦争中の話を軽々しくすると、GHQに捕まって沖縄で捕虜として働かされる』というウワサが流れていましたから。恐怖に心を支配されて、誰も多くを語ろうとしなかったのです。一つ、鮮明に覚えていることがあります。戦争が終わった後、私は東京の女学校に入学したのですが、授業中に小石の入った綺麗な箱が回ってきました。先生に隠すようにひっそりと後ろの子が回してきたので、小声で『なに、これ?』と尋ねると『これ、広島の石なのよ』と答えるのです。原爆投下後の広島で誰かが拾ったガレキだ、と。
〔母のことを私は「非国民」と思っていた〕
それを聞いて、私の内には言葉にならない不思議な感情が湧いてきた。おそらく他の皆も同じ気持ちだったと思います。ところが休み時間になっても、誰も、そのガレキのことには触れない。戦争のこと、特に広島のことを話すと、GHQに連行されると本当に思っていたから。それぐらい占領軍は怖かった。その恐怖が染みついているから、この国では戦争の記憶が、うまく語り継がれてこなかったのではないかと思うのです。しかし語り継がなかった結果、今日のような状況を創ってしまった。私の身内に14歳になる子がいます。
彼は戦争について何も知らない。戦争とはどういうものかを彼に伝えるためには、私が14歳の頃の話をするしかないと思いました。
あの苦しかった日々と、私が軍国少女だったという恥ずかしい過去。
それを今、できるだけ具体的に書いておかなければならない、と。
これは、今14歳を生きている「彼ら」に向けて書いたのです。
▼神風なんか吹かなかった
満州にいた頃、母は日本が勝つという事に懐疑的でしたが、そんな母の事を私は「非国民」と思っていました。学校で弁論大会が行われた時、私が決めたテーマは「敵の野望を撃て」でした。
「敵」とは誰なのか。アメリカ人もイギリス人も見た事なんかないのに。それでも新聞を読み込んで「敵」のやった残忍な行為を拾い出そうとしました。戦況は日々苦しくなり、学校ではサイパン島での日本軍の玉砕が知らされましたが、しかし神風が吹くものだと信じていた。
ところが、そんなものは吹かなかった。8月15日、父親から「戦争は終わったよ」と告げられ、私の「国」は消えた。それはもう、あっさりと。そしてその直後、ソ連兵が満州に侵攻してくるのです。
〔ソ連兵にレイプされそうになった!〕
私はこの『14歳<フォーティーン>』の中で、ソ連兵にレイプされそうになった話を書いています。今まで誰にも話さず、今日まで胸の奥底に隠しておいた事です。
▼「この一家を皆殺しにする!」
終戦直後のある日のこと、二人のソ連の将校が家に押し入ってくると、私にサーベルを突きつけたのです。必死で抵抗し、一時は将校達を追い払いましたが、暫くするとまた戻ってきた。私は物置に隠れたのですが、彼らは力づくで、その扉を開けようとする。「もう助からない」と思いました。その男達を必死に制止したのは、私の母でした。
母の命がけの抵抗によって、今度こそ男達は去った。しかし、その去り際に「今夜、この一家を皆殺しにする!」と吐き捨てたというのです。皆殺しの宣告。私はその夜、便所に行って吐きました。あまりの恐怖に、体がおかしくなったのです。この事については、母親とも一言も話した事はありません。母も触れないようにしていましたし、私も極力思い出さないようにしていました。それから四半世紀近く経った72年の冬、私は旅行でモスクワを訪れたのですが、空港でソ連兵の姿を見つけたとき、私の体が凍り付き、動けなくなったのです。寒さからではありません。あの日の恐怖心が、蘇ってきたからです。幾ら押し殺そうとしても、戦争の記憶は消えません。今、私の心にあるのは、あのような時代をもう一度作り出してはならない、という願いです。だからこそ残りの人生をかけて、自分の体験を綴らなければ、語っていかなければ、と思っています。遅すぎるかもしれない。しかし、まだ間に合うはずだと信じています。
<日本兵が日本兵を銃殺:「住民虐殺、強姦・強奪許せず」>
1945年の沖縄戦で激戦地となった摩文仁で、日本兵が沖縄住民を殺害したり強姦したり食料強奪をしたりする事態を我慢できず、別の日本兵が、その日本兵を殺害する出来事があった。
当時、沖縄で戦闘に参加した元日本兵・飯田直次郎さん(95)=神奈川県在住=は自ら日本兵を銃殺したことを証言した。
飯田さんは知人の協力を得て、中国で戦争に参加した体験や沖縄戦の詳しい足跡を原稿用紙129ページにまとめた。
45年6月、球部隊に所属していた飯田さんは摩文仁の壕に潜んでいた。一緒に逃げて仲良くなった日本海軍兵や周辺住民から「自分が隠れている壕で住民に酷い事をしている軍曹がいる」と聞いた。
その内容は、住民や子供を殺害したり女性を強姦したり食料を強奪したりする他、その一帯で水が飲めた唯一の井戸を独り占めにしているというものだった。ある日、飯田さんも「佐々木」という名の軍曹による「悪行を目撃」した。「見るに堪えない。もう限界だ。同じ日本の兵隊として許せねえ」と殺意が湧いた。海軍兵に「このまま見て見ぬふりできねえ。島民が殺されているんだぜ。奴さえいなければ皆なんとか凌げる。水も飲める」と殺意を明かした。飯田さんは米軍との戦闘前、那覇市の住民宅で寝泊まりし、沖縄の人々から温かくして貰った事への「恩義」もあって「住民を殺す日本兵が許せなかった」と言う。
ある晩、井戸で住民に嫌がらせをしている佐々木を見つけた。
人影がなくなったのを見計らい、軍服を引き裂いた布で拳銃を隠し持って近づき、水を飲んでいる佐々木の後頭部に銃を近づけ引き金を引いたという。飯田さんは「全ては島民のためと思ってやったが、私自らの手で日本人を殺めてしまった。70年余たっても忘れられない」と話し、今でも辛い思いが残っている事を吐露した。
本島南部の激戦時、食料が尽きて飢えた日本兵が夜、米軍の陣地に忍び込んで食料を盗み、その帰りを待ち伏せた日本兵がそれを奪い、殺し合う事態も「よくあった」という。「戦場では人間が人間ではなくなってしまう」と振り返る。飯田さんは「軍隊は住民を守るどころか、軍隊がいることで戦場になってしまう。
(辺野古に)飛行場を造ることはいいことではない。沖縄の人々にとって戦後は終わっていない。戦争は絶対に駄目だ。勝っても負けてもよくない。自分の命を落としてでも俺は絶対に反対する」と語った。
◇ ◇
【沖縄戦研究・石原昌家沖縄国際大名誉教授の話】住民への日本兵による残虐行為の証言は多いが、日本兵自身による詳細な証言はあまりなく貴重だ。
<ツイッター少女「シリアの子、助けて」記者に惨状語る>
シリア内戦でアサド政権側が制圧した北部の最大都市アレッポから、激しい空爆等の様子をツイッターで発信してきたシリア人の少女、バナ・アベドさん(7)の一家が26日、避難先のトルコの首都アンカラで、日本メデイアの取材に「シリアには食べ物もなくて、住む場所もなくなった子供達が沢山います。どうか助けてください」と訴えた。バナさんの一家は、父のガッサンさん(37)、母のファティマ・シハンさん(27)、5歳と3歳の弟2人の5人。
アレッポ東部の反体制派の支配地域で暮らしてきた。
内戦前、ガッサンさんは弁護士で、ファティマさんはアレッポ大学で法律を学んでいたという。ファティマさんは流暢な英語を話し、バナさんも簡単な日常会話は可能だ。アレッポは2012年から政権軍と反体制派の戦闘が激しくなり「最激戦地」と呼ばれてきた。
東部は、今夏から政権軍に包囲された。最初のツイートは今年9月24日。バナさんの名前でつくったアカウントから「私は平和がほしい」と呟いた。激しい空爆の様子や過酷な暮らしについての生々しい投稿は、世界の注目を集めた。バナさんは、人道危機に苦しむアレッポ東部住民の象徴として受け止められ、多くの人が安否を気遣ってきた。
「トルコに来て、チョコレート、イチゴ、オレンジを食べる事ができて、とても嬉しい。アレッポではチョコも果物も、夏から見た事がありませんでした」とバナさんは話した。ファティマさんらによると、外部から食料等が入ってこなくなった今夏以降、一家の食事は多くて1日2回。肉や卵、新鮮な野菜は手に入らず、食事は、茹でたパスタかコメにトマトペーストを添えただけだったという。戦況の悪化を受け、包囲される前に計50キロを買い込んでいたものに頼っていたという。
上水道も電気も止まり、燃料もなくなった。携帯電話の充電は、購入した簡易ソーラーパネルを使った。飲料水は井戸水を沸騰させてから飲んだ。倒壊した家屋の木材や家具を燃やして調理に使ったという。
一番恐ろしかったのは、この夏から連日連夜、続いた空爆だという。
家族の友人や、バナさんの級友も、次々と命を奪われた。
バナさんと弟2人は戦闘機の飛来音に怯え、夜も魘される様になった。政権側は2015年頃から破壊力の強い地中貫通型爆弾を多数投下しているという。内戦の激化で学校は地下に移されていたが、生き埋めを恐れて、家族は昨年12月から、バナさんを通わせるのを止めていた。
ツイートのきっかけは母子の会話だったという。「お母さん、なぜ私達は毎日こんな怖い思いをするの?なぜ誰も助けてくれないの?」「私達が、どんな暮らしをしているか、きっと世界の人は知らないんだよ」ファティマさんは、アレッポ東部の状況を、バナさんと共に世界へ発信しようと思い立ったという。政権側は今月中旬、アレッポ東部を完全に制圧した。バナさん一家は19日午後から17時間かけて現地を脱出し、反体制派が支配する北西部イドリブ県に逃れた。
20日にはトルコ政府の手配でトルコに越境し、アンカラへ移動。
21日、大統領宮殿へ招かれ、エルドアン大統領と面会した。
トルコは270万人以上のシリア難民を受け入れているが、急激な難民流入に困惑する欧州の要請もあり、現在は重傷者や重病人を除いて原則として受け入れていない。ファティマさんは「私達一家は信じられないぐらい幸運でした」と振り返った。そして「アレッポ東部から逃れた住民の多くは、アレッポ郊外やイドリブ県の避難民キャンプで暮らしています。家を失い、十分な食べ物はなく、雪の降る寒さに耐えています。どうか手を差し伸べてください」と話した。(アンカラ=春日芳晃レポート)
**********
《ブログ「リベラル広場」では次の事業も行っています。》
①職場(仕事)における労働・人権相談
(ハラスメント・メンタルヘルス等、含む)
*大阪府労働相談経験10年以上。*産業カウンセラー資格、有り。
*但しメンタルヘルスの場合、もし心療内科等に受診されている場合、または、その受診の方が望ましい場合は、当該医師の指導を優先し、カウンセリングを断る事もありますので予めご了承ください。
②採用コンサルタント。
*著作[「公正採用」と「能力発見!」採用選考のコツ]
【本ブログ:http://blog.zaq.ne.jp/yutan0619/article/27/】
*著作「採用面接」労働条件確認
【本ブログ: http://blog.zaq.ne.jp/sp/yutan0619/article/29/】
◎なお寄せていただく相談等は、とりあえず全てEメールで送信してください。
<送信先Eメールアドレス>yutan0571@yahoo.co.jp
●費用:交通費等、実費+α(若干-協議)
《【不戦・反戦の誓い】シリーズ》
<澤地久枝さん「記憶の底に押し殺していた戦争体験」>
SEALDsの若者達と一緒に、戦争法反対に立ち上がった作家・澤地久枝さんが、ソ連将校によるレイプ、満州での飢餓など「記憶の底に押し殺していた戦争体験」の全てをはじめて語った。
1930年生まれ、『妻たちの二・二六事件』『昭和史のおんな』等の著書のあるノンフィクション作家の澤地久枝さん(84歳)が、満州での戦中体験を綴った『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』。
困窮を極めた戦中の生活について、そしてソ連(ロシア)兵に犯されそうになった事を始めとする壮絶な体験が綴られている。
「戦争」と「昭和」をテーマに執筆を続け、平和運動にも関わってきた澤地氏だが、これまで自身の戦争体験について明かした事はなかった。「恥ずかしくて、戦争中の体験は隠して生きてきた」という澤地氏が、なぜ今になって過去を語り始めたのか。
70年前、「軍国少女」だった過去を初めて明かした澤地さん。
*********************
幼い頃から戦争が終わるまで、私は満州にいました。その頃、常に考えていたのは「もっと戦争のために、自分ができる事はないのか」ということ。〈欲しがりません、勝つまでは〉を叩きこまれた軍国少女は「どんなにひもじくても、食事のときは子供茶碗一膳しか食べない」という決まりを自発的に守っていました。その上に配給制が始まり、子供達はどんどん栄養不足になる。弟は脳脊髄膜炎になり、私も妹も猩紅熱にかかり、生死の境を彷徨いました。全身の皮膚がずるむけになってね。痛くって、痛くって…。栄養失調で死ぬ人を何人も見ましたね。
特に満州から日本に引き揚げるまでの難民生活の中では、幾つ子供の死体を見たか、わかりません。お墓をつくる余裕もないから、枯れ木みたいになった死体を裏山の穴に捨てるのです。そんな環境で生きる中で、私の生理は止まりました。戦争は、一人の少女が少女である事さえ許さなかったのです。私は14歳の時に敗戦を迎えましたが、それまでは一点の疑いもなく日本の勝利を信じていた「軍国少女」でした。
そのことが恥ずかしくて、今までずっと戦争中の体験は隠して生きてきました。今、その事を強く悔やんでいます。私は日本がもう一度戦争を引き起こす、あるいは戦争に巻き込まれるのではないかという危機感を感じています。なぜ平和を愛したこの国が、再び危うい方向に向かおうとしているのか。それを考えた時に、私達の世代が抽象的な言葉、例えば「戦争は辛かった」「苦しかった」というような言葉でしか、戦争を語ってこなかったからではないかと思ったのです。抽象的な言葉では、もう若い世代には伝わらない。だから私達は、なるべく具体的に細やかに、戦争体験を語っていかなければならないのです。
例え、それが辛い記憶を掘り起こす苦しい作業であっても―。
▼GHQに捕まるという恐怖
私達は、戦争体験を語らなかったのではありません。
「語れなかった」のです。今の人達には想像もつかないでしょうけど、戦後間もなくの日本には『戦争中のことは語ってはいけない』という空気が漂っていたのです。当時は本当に『戦争中の話を軽々しくすると、GHQに捕まって沖縄で捕虜として働かされる』というウワサが流れていましたから。恐怖に心を支配されて、誰も多くを語ろうとしなかったのです。一つ、鮮明に覚えていることがあります。戦争が終わった後、私は東京の女学校に入学したのですが、授業中に小石の入った綺麗な箱が回ってきました。先生に隠すようにひっそりと後ろの子が回してきたので、小声で『なに、これ?』と尋ねると『これ、広島の石なのよ』と答えるのです。原爆投下後の広島で誰かが拾ったガレキだ、と。
〔母のことを私は「非国民」と思っていた〕
それを聞いて、私の内には言葉にならない不思議な感情が湧いてきた。おそらく他の皆も同じ気持ちだったと思います。ところが休み時間になっても、誰も、そのガレキのことには触れない。戦争のこと、特に広島のことを話すと、GHQに連行されると本当に思っていたから。それぐらい占領軍は怖かった。その恐怖が染みついているから、この国では戦争の記憶が、うまく語り継がれてこなかったのではないかと思うのです。しかし語り継がなかった結果、今日のような状況を創ってしまった。私の身内に14歳になる子がいます。
彼は戦争について何も知らない。戦争とはどういうものかを彼に伝えるためには、私が14歳の頃の話をするしかないと思いました。
あの苦しかった日々と、私が軍国少女だったという恥ずかしい過去。
それを今、できるだけ具体的に書いておかなければならない、と。
これは、今14歳を生きている「彼ら」に向けて書いたのです。
▼神風なんか吹かなかった
満州にいた頃、母は日本が勝つという事に懐疑的でしたが、そんな母の事を私は「非国民」と思っていました。学校で弁論大会が行われた時、私が決めたテーマは「敵の野望を撃て」でした。
「敵」とは誰なのか。アメリカ人もイギリス人も見た事なんかないのに。それでも新聞を読み込んで「敵」のやった残忍な行為を拾い出そうとしました。戦況は日々苦しくなり、学校ではサイパン島での日本軍の玉砕が知らされましたが、しかし神風が吹くものだと信じていた。
ところが、そんなものは吹かなかった。8月15日、父親から「戦争は終わったよ」と告げられ、私の「国」は消えた。それはもう、あっさりと。そしてその直後、ソ連兵が満州に侵攻してくるのです。
〔ソ連兵にレイプされそうになった!〕
私はこの『14歳<フォーティーン>』の中で、ソ連兵にレイプされそうになった話を書いています。今まで誰にも話さず、今日まで胸の奥底に隠しておいた事です。
▼「この一家を皆殺しにする!」
終戦直後のある日のこと、二人のソ連の将校が家に押し入ってくると、私にサーベルを突きつけたのです。必死で抵抗し、一時は将校達を追い払いましたが、暫くするとまた戻ってきた。私は物置に隠れたのですが、彼らは力づくで、その扉を開けようとする。「もう助からない」と思いました。その男達を必死に制止したのは、私の母でした。
母の命がけの抵抗によって、今度こそ男達は去った。しかし、その去り際に「今夜、この一家を皆殺しにする!」と吐き捨てたというのです。皆殺しの宣告。私はその夜、便所に行って吐きました。あまりの恐怖に、体がおかしくなったのです。この事については、母親とも一言も話した事はありません。母も触れないようにしていましたし、私も極力思い出さないようにしていました。それから四半世紀近く経った72年の冬、私は旅行でモスクワを訪れたのですが、空港でソ連兵の姿を見つけたとき、私の体が凍り付き、動けなくなったのです。寒さからではありません。あの日の恐怖心が、蘇ってきたからです。幾ら押し殺そうとしても、戦争の記憶は消えません。今、私の心にあるのは、あのような時代をもう一度作り出してはならない、という願いです。だからこそ残りの人生をかけて、自分の体験を綴らなければ、語っていかなければ、と思っています。遅すぎるかもしれない。しかし、まだ間に合うはずだと信じています。
<日本兵が日本兵を銃殺:「住民虐殺、強姦・強奪許せず」>
1945年の沖縄戦で激戦地となった摩文仁で、日本兵が沖縄住民を殺害したり強姦したり食料強奪をしたりする事態を我慢できず、別の日本兵が、その日本兵を殺害する出来事があった。
当時、沖縄で戦闘に参加した元日本兵・飯田直次郎さん(95)=神奈川県在住=は自ら日本兵を銃殺したことを証言した。
飯田さんは知人の協力を得て、中国で戦争に参加した体験や沖縄戦の詳しい足跡を原稿用紙129ページにまとめた。
45年6月、球部隊に所属していた飯田さんは摩文仁の壕に潜んでいた。一緒に逃げて仲良くなった日本海軍兵や周辺住民から「自分が隠れている壕で住民に酷い事をしている軍曹がいる」と聞いた。
その内容は、住民や子供を殺害したり女性を強姦したり食料を強奪したりする他、その一帯で水が飲めた唯一の井戸を独り占めにしているというものだった。ある日、飯田さんも「佐々木」という名の軍曹による「悪行を目撃」した。「見るに堪えない。もう限界だ。同じ日本の兵隊として許せねえ」と殺意が湧いた。海軍兵に「このまま見て見ぬふりできねえ。島民が殺されているんだぜ。奴さえいなければ皆なんとか凌げる。水も飲める」と殺意を明かした。飯田さんは米軍との戦闘前、那覇市の住民宅で寝泊まりし、沖縄の人々から温かくして貰った事への「恩義」もあって「住民を殺す日本兵が許せなかった」と言う。
ある晩、井戸で住民に嫌がらせをしている佐々木を見つけた。
人影がなくなったのを見計らい、軍服を引き裂いた布で拳銃を隠し持って近づき、水を飲んでいる佐々木の後頭部に銃を近づけ引き金を引いたという。飯田さんは「全ては島民のためと思ってやったが、私自らの手で日本人を殺めてしまった。70年余たっても忘れられない」と話し、今でも辛い思いが残っている事を吐露した。
本島南部の激戦時、食料が尽きて飢えた日本兵が夜、米軍の陣地に忍び込んで食料を盗み、その帰りを待ち伏せた日本兵がそれを奪い、殺し合う事態も「よくあった」という。「戦場では人間が人間ではなくなってしまう」と振り返る。飯田さんは「軍隊は住民を守るどころか、軍隊がいることで戦場になってしまう。
(辺野古に)飛行場を造ることはいいことではない。沖縄の人々にとって戦後は終わっていない。戦争は絶対に駄目だ。勝っても負けてもよくない。自分の命を落としてでも俺は絶対に反対する」と語った。
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【沖縄戦研究・石原昌家沖縄国際大名誉教授の話】住民への日本兵による残虐行為の証言は多いが、日本兵自身による詳細な証言はあまりなく貴重だ。
<ツイッター少女「シリアの子、助けて」記者に惨状語る>
シリア内戦でアサド政権側が制圧した北部の最大都市アレッポから、激しい空爆等の様子をツイッターで発信してきたシリア人の少女、バナ・アベドさん(7)の一家が26日、避難先のトルコの首都アンカラで、日本メデイアの取材に「シリアには食べ物もなくて、住む場所もなくなった子供達が沢山います。どうか助けてください」と訴えた。バナさんの一家は、父のガッサンさん(37)、母のファティマ・シハンさん(27)、5歳と3歳の弟2人の5人。
アレッポ東部の反体制派の支配地域で暮らしてきた。
内戦前、ガッサンさんは弁護士で、ファティマさんはアレッポ大学で法律を学んでいたという。ファティマさんは流暢な英語を話し、バナさんも簡単な日常会話は可能だ。アレッポは2012年から政権軍と反体制派の戦闘が激しくなり「最激戦地」と呼ばれてきた。
東部は、今夏から政権軍に包囲された。最初のツイートは今年9月24日。バナさんの名前でつくったアカウントから「私は平和がほしい」と呟いた。激しい空爆の様子や過酷な暮らしについての生々しい投稿は、世界の注目を集めた。バナさんは、人道危機に苦しむアレッポ東部住民の象徴として受け止められ、多くの人が安否を気遣ってきた。
「トルコに来て、チョコレート、イチゴ、オレンジを食べる事ができて、とても嬉しい。アレッポではチョコも果物も、夏から見た事がありませんでした」とバナさんは話した。ファティマさんらによると、外部から食料等が入ってこなくなった今夏以降、一家の食事は多くて1日2回。肉や卵、新鮮な野菜は手に入らず、食事は、茹でたパスタかコメにトマトペーストを添えただけだったという。戦況の悪化を受け、包囲される前に計50キロを買い込んでいたものに頼っていたという。
上水道も電気も止まり、燃料もなくなった。携帯電話の充電は、購入した簡易ソーラーパネルを使った。飲料水は井戸水を沸騰させてから飲んだ。倒壊した家屋の木材や家具を燃やして調理に使ったという。
一番恐ろしかったのは、この夏から連日連夜、続いた空爆だという。
家族の友人や、バナさんの級友も、次々と命を奪われた。
バナさんと弟2人は戦闘機の飛来音に怯え、夜も魘される様になった。政権側は2015年頃から破壊力の強い地中貫通型爆弾を多数投下しているという。内戦の激化で学校は地下に移されていたが、生き埋めを恐れて、家族は昨年12月から、バナさんを通わせるのを止めていた。
ツイートのきっかけは母子の会話だったという。「お母さん、なぜ私達は毎日こんな怖い思いをするの?なぜ誰も助けてくれないの?」「私達が、どんな暮らしをしているか、きっと世界の人は知らないんだよ」ファティマさんは、アレッポ東部の状況を、バナさんと共に世界へ発信しようと思い立ったという。政権側は今月中旬、アレッポ東部を完全に制圧した。バナさん一家は19日午後から17時間かけて現地を脱出し、反体制派が支配する北西部イドリブ県に逃れた。
20日にはトルコ政府の手配でトルコに越境し、アンカラへ移動。
21日、大統領宮殿へ招かれ、エルドアン大統領と面会した。
トルコは270万人以上のシリア難民を受け入れているが、急激な難民流入に困惑する欧州の要請もあり、現在は重傷者や重病人を除いて原則として受け入れていない。ファティマさんは「私達一家は信じられないぐらい幸運でした」と振り返った。そして「アレッポ東部から逃れた住民の多くは、アレッポ郊外やイドリブ県の避難民キャンプで暮らしています。家を失い、十分な食べ物はなく、雪の降る寒さに耐えています。どうか手を差し伸べてください」と話した。(アンカラ=春日芳晃レポート)
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《ブログ「リベラル広場」では次の事業も行っています。》
①職場(仕事)における労働・人権相談
(ハラスメント・メンタルヘルス等、含む)
*大阪府労働相談経験10年以上。*産業カウンセラー資格、有り。
*但しメンタルヘルスの場合、もし心療内科等に受診されている場合、または、その受診の方が望ましい場合は、当該医師の指導を優先し、カウンセリングを断る事もありますので予めご了承ください。
②採用コンサルタント。
*著作[「公正採用」と「能力発見!」採用選考のコツ]
【本ブログ:http://blog.zaq.ne.jp/yutan0619/article/27/】
*著作「採用面接」労働条件確認
【本ブログ: http://blog.zaq.ne.jp/sp/yutan0619/article/29/】
◎なお寄せていただく相談等は、とりあえず全てEメールで送信してください。
<送信先Eメールアドレス>yutan0571@yahoo.co.jp
●費用:交通費等、実費+α(若干-協議)
(民守 正義)
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