リベラル勢力の再構築で安倍ファシズム政権退陣へ(86)
リベラル勢力の再構築で安倍ファシズム政権退陣へ(86)
《【改憲】シリーズ!》
<「憲法ってなんですか?」に対する、木村草太の答え>
1.張り紙から過去が見える
ここ数年、かつてなく憲法に注目が集まっており私も、しばしばテレビやラジオの出演依頼を受ける。報道機関で印象的なのは、セキュリティの厳しさだ。「社員証は必ず携行しましょう」といった張り紙をよく目にする。張り紙と言えば、夜のラジオでしばしば声をかけて頂く某局のトイレには、他局では見ないユニークな張り紙がある。「居眠りは止めましょう」と書かれているのだ。居眠りの常習犯がいたに違いない。「憲法学者が何故、張り紙の話など始めるのだ?」といぶかしがる方もいるかもしれない。しかし張り紙は憲法理解のための良い素材だ。
2.憲法って何ですか?
仕事柄、よく「憲法って何ですか?」と聞かれる。答え方はいろいろあるが、私は「国家権力がしでかした失敗への反省から作られた張り紙のようなものだ」と説明する事にしている。歴史を振り返れば、国家権力は、気に入らない人間を弾圧したり、独裁をしたり、あるいは無謀な戦争をしたりして、国内や国外の人々を困らせてきた。
そうした失敗を繰り返さないようにするには人権を保障しましょう、権力を分立しましょう、軍事権を行使するには慎重な手続きを経ましょう、等といったルールを予め定めておくのが有効だ。このような構想を立憲主義という。過去にトイレでの居眠りが多かったので、それを防ぐために張り紙をしよう、というのと同じ発想だ。立憲主義に基づき制定された憲法が機能すれば、人権は保障され、権力は濫用されにくくなる。無謀な戦争も起きにくくなる。 憲法は、国民からのそうした期待を一身に背負い、その活躍が待たれているはずだ。
3.憲法は待たれているのか?
憲法は、国家権力をコントロールするための拠り所である。憲法知識がごく一部の専門家だけにしか知られていないのでは、憲法はうまく機能しないだろう。市民の間にも理解を深め、権力者がおかしな事をしそうになったら「それはだめです」と押し止める力を持たねばならない。
しかし専門誌の論文や最高裁の判例を離れ、一般メディアや論壇の議論を見ていると、憲法は本当に待たれているのだろうか、という気がしてくる。そこで流通している憲法論議は、専門の研究者が普段、考えている事とあまりにもかけ離れている事が多い。知識人と呼ばれる人達までもが、誤った前提の下に議論をしていたりする。例えば「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」する、と定めた憲法二四条は、何を意味しているのか。
戦前の旧民法では、婚姻に親や親族の同意が必要であり、当事者の合意だけでは結婚できなかった。また女性の地位が低く、選挙権もなければ、家庭内でも従属的な立場にあった。憲法二四条はこれを改め、当事者の合意「のみ」で婚姻できること、男性だけでなく女性の同意も必要である事を定めるために制定された。こうした時代背景を学んでいれば、憲法二四条は、当事者の意思を尊重するために定められたのであって、同性婚を禁じる趣旨など全くない事は明らかだ。にも関らず、一般メディアや知識人とされる人が「憲法二四条は同性婚を禁じている」と解説したりする。
人々の幸せを本気で願うならば、このような誤った言説を修正し、建設的な議論のベースを作っていかねばならない。しかしながら「そんな事は不可能なのではないか」と無力感に襲われる事がある。人々がきちんとした学問的知識を求めているなら、そして、そうした学問的知識に裏打ちされた社会の実現を求めているなら、とっくの昔に誤りは修正されているはずではないだろうか。社会は、憲法の求める理想とはかけ離れた世界、すなわち立憲主義の成立以前の世界を求めているのではないだろうか。
「やってられないなあ、本当に、私は待たれているのだろうか」という憲法のぼやきが聞こえてきそうだ。いとうせいこう氏の名作『ゴドーは待たれながら』は、ベケット『ゴドーを待ちながら』を裏側から描いている。『待たれながら』のゴドーは、本当に待たれているのだろうかと延々、逡巡する。これはまさに今の憲法がおかれた状況のようではないか。
しかし憲法自身は、「ぼやく」なんて態度からは程遠い。憲法一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と力強く宣言する。
立憲主義の実現に向けた努力が徒労のように感じることもあるかもしれない。しかし、立憲主義のために精一杯努力して、ようやく今の状態に留まっている。この細やかな努力を止めてしまったら、もっと酷い事になる。憲法がぼやいているように感じたのは、単なる私のぼやきに過ぎなかったのだ。
4.本当に困っている人たちのために
そう思って、もう一度、考えてみる。憲法を待っている人は本当にいるのだろうか。確かに日々の生活に満足している人達は「憲法なんてあってもなくても一緒だ」と思っているかもしれない。しかし本当に困っている人達は違う。誰かに助けを、希望を求めている。本当に困っている人達のために、憲法は何をできるか。それを検討したのが、『憲法という希望』という本だ。この本では夫婦別姓訴訟と辺野古基地問題を考えた。
民法七五〇条は、夫婦のどちらかが氏を変更しないと法律婚はさせない、と規定するため、多くの別姓希望カップルが、事実婚という不安定な状態に留まる事を余儀なくされている。辺野古基地の建設について、沖縄の人々は、本当に困り果て、心の底から怒っている。困っている人達のために、憲法にできる事はないのか。実は結構あるはずだ。憲法を国民がきちんと使いこなせるようになれば、憲法は社会をより良くする力になる。 本当に困っている人たちの希望になる。
『憲法という希望』では、憲法を神棚に祭り上げるのではなく、憲法を引きずり出そう、現実に役立てようと試みている。
5.憲法を伝えるには?
ただ本の著者というのは、自分の中で当たり前になっている事が沢山あり、説明すべき事を説明せず、読者を「?マーク」の中に置いてきぼりにしがちだ。私も、その例外ではない。例外でないどころか、どんぴしゃりの典型例である。だから私の本には、読者の視点から適切な質問を投げかけてくれる人が必要だ。なんと『憲法という希望』では、国谷裕子さんがその役をやってくださった。皆さんもご存知の通り、国谷さんはNHK「クローズアップ現代」のキャスターとして活躍した。「伝えるプロ」の国谷さんが投げかける質問は、視聴者が「まさにそこを聞いてほしかった」と思うものばかりだ。私の一方的な語りを読んで「今一つよく解らない」と思った方も、きっと最後の対談部分を読んだ後には「なるほど」と感じる所が格段に増えているのではないかと思う。
6.お説教はそろそろ終わりに
憲法は大切だとか、立憲主義は人類普遍の原理だと抽象的に言っても、その大切さはなかなか伝わらない。偉そうなお説教に聞こえ「憲法なんてうんざりだ」という反発を生む事すらあるだろう。しかし本当に困っている人を前に「全ての人が尊重される社会を作るにはどうしたらいいのだろう」と考えを巡らすと、憲法の潜在力に気づくはずだ。自ずと建設的な提案が見えてくる。異なる個性を持つ人々が共に生きようとする限り、憲法は間違いなく待たれている。憲法にどんな希望が見えるのか。ぜひ、体感してみてほしい。
「緊急事態条項の問題点は?」がテーマ。憲法改定に向け、緊急事態条項を議論する動きがあります。戦争や災害発生時に総理が緊急事態を宣言、政令を作ることができるこの条項、憲法学者から危惧の声も上がっています。
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安倍(独裁)総理が安保の次は「改憲を争点にする」と宣言! 自民党が目論む「緊急事態条項の新設」は、9条改悪よりヤバイ。緊急事態宣言さえ出してしまえば、何人も国の指示に従わなければならないということになる。「災害が起こったらすばやく対応できるよ!」という触れ込みは、結局、緊急事態条項の本質を隠すカモフラージュ。この条項を憲法に加える真の目的は、明治憲法下の戒厳令の復活であり、緊急事態を口実にした国民の権利の抑制であり、言うことを聞かない地方を国に従わせるということなのだ。
[参考サイト:http://lite-ra.com/i/2015/09/post-1531.html← 必読です!]
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〔自民党憲法改悪草案:第九章-緊急事態〕
第98条(緊急事態の宣言)
1 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。
第99条(緊急事態の宣言の効果)
1 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
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■上記の「自民改憲案」によれば、首相は緊急事態を宣言すれば法律と同一の効力を有する政令を勝手に制定できる。つまりやろうと思えば、政敵を牢獄に放り込んだり、新聞社やテレビ局を閉鎖する事もできてしまうだろう。こんなものを「お試し」するの?本丸は9条じゃなくてこっちじゃないの?これは高度な詐欺師の手口に思える。つまり自民が「9条には抵抗あるでしょうから、まずは緊急事態条項をやりましょうよ」と言うことによって、抵抗する側も優先順位が混乱してしまい、緊急事態条項に反対するよりも9条を守ろうとしてしまう。でも自民党の狙いは最初から緊急事態条項だ。9条は、既に「戦争関連法」により解釈改憲で一定、クリアしている。それよりも独裁的かつ永続的に自民党(安倍)政権を維持するには「緊急事態条項」が必要不可欠。これは麻生財務大臣も、本音でコメントを漏らしている。ところが民進党(岡田前代表)もリベラル評論家に「緊急事態条項の方が危険なのでは?」と誘い水をかけても「いや!9条の方が天王山!」と、相変わらず柔軟性のない石頭で聞き入れようとしない。加えて共産党も「9条の会」が拡がったからか、いまだに「9条が本丸」と思い込んでいる。(党中央委員会:志位委員長挨拶)ハッキリ言って志位委員長は「戦争関連法-強行採決(?)」直後に「国民連合政府構想」と選挙至上主義で幻想を抱かせる。緊急事態条項でも、そのミニ実践と言われる沖縄-高江等の訪問・激励も本人は、全く行かない。ズバッと言って「党の重要方針」と位置付けておらず、東大社研のエリートで大衆運動経験のない党人派-志位委員長には、ああいう大衆行動は嫌いなのだろう。その「大衆が主体的・自立的に行動する大衆運動」への評価は1970年前後の「大衆運動軽視or敵対視」と未だに変わらず、「ブルジョワ議会主義(選挙闘争)」オンリーに埋没している。同時に情勢に対する思い込み・思い上がりも強く、参議院選挙敗北の厳しい総括よりも多少の選挙共闘の前進面の方が強調されている。そして刻々と変わる権力変化にも対応できず、それが「9条への拘り」に現れている。つまり権力評価・情勢認識が常に中幅程度に遅れて、また「キッタ、ハッタの反権力闘争」に甘さが見られるのだ。とにかく改憲阻止闘争の重要な幹は「非常事態条項」だ!共産党が、そんな遅れた認識では「ホントに危ないぞ!早く頭を切り替えろ!」(文責:民守正義)
<【いま読む日本国憲法】第36条「絶対」禁止 強い決意>
警察官や検察官が、被疑者や被告人から自白を得るため、肉体的・精神的な苦痛を与える「拷問」を禁じた条文です。
ポイントは「絶対に」という強調表現。現憲法の中で「絶対に」という言葉が出てくるのは、この一カ所だけです。
旧憲法下で、思想統制を目的とした逮捕・拷問が横行したことへの反省からで、拷問や残酷な刑を禁止する強い決意が感じ取れます。しかし何故この条文だけに「絶対に」があるのか、説明しづらいのも事実です。
例えば一八条の「奴隷的拘束」や「意に反する苦役」は、否定しているものの「絶対に」とまでは書かれていません。改憲論者は、しばしば今の憲法について「日本語としておかしい」と指摘します。 その延長線上で、この「絶対に」が話題になることがあります。自民党改憲草案では「絶対に」が削除されています。草案のQ&Aには、削除の理由は書かれていません。憲法の専門家からは「『絶対に』を外せば、当然、守るべき規則としての力は低下する。一定の条件があれば例外が認められるとの解釈につながる可能性がある」と、問題視する意見が出ています。この条文に関して議論になるのは、死刑制度との関係です。人権団体や、超党派国会議員による「死刑廃止を推進する議員連盟」などの廃止論者は、死刑が三六条の定める「残虐な刑罰」に当たると指摘。死刑廃止が国際的潮流になっていることや、死刑が犯罪抑止に繋がらないとも主張しています。(東京新聞抜粋)
<憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない:深澤真紀淑徳大学客員教授>
自民党や日本会議が、憲法改悪の突破口の一つとして憲法24条に目をつけたのは、敵ながらうまいところをついていると思う。先ず24条は、9条に比べて話題になりにくいのだ。例えば「憲法24条」を検索すると、ニュースの数は28本。一方の「憲法9条」は389本で、14倍近い差がある(共に2016年6月30日現在)。そもそも9条の内容を知らない人はいないだろうが、24条の内容を知っている人は多くないだろう。
〔家族と婚姻の基本原則である24条改正の、どこが問題か〕
では家族と婚姻の基本原則である24条の、どこが問題か。現行憲法を見てみよう。
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第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
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そして、自民党の憲法改正草案はこうだ。
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第24条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
〔「個人の尊重」から「家族の尊重」へ〕
改悪草案は何故「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。」から始まるのか。それには先ず13条の改悪草案を見なければいけない。現行憲法では「すべての国民は個人として尊重される」なのに、草案では「すべての国民は人として尊重される」となっているのだ。
「個人」と「人」の違いは大きい。「個人」とは各々の人間の事を指すので「個人の尊重」という言葉は多様な人間の1人1人が尊重されるという事だ。一方の「人」とは、動物とは違うというくらいの意味しかない。 個人から人への変更は「個人主義」を嫌う自民党らしい大きな意味を持つのだ。改悪草案では個人ではなく、家族が尊重されるべきとなっている。しかも「家族は、互いに助け合わなければならない」と書いている。
憲法とは、居酒屋のトイレに貼ってあるカレンダーではない。
自民党は、世界人権宣言16条にも「家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位」と書いてあるというのだが、人権宣言ではこの後に「(家族は)社会及び国の保護を受ける権利を有する」と続いているところが改憲草案には肝心のそれが書かれていない。 「家族の問題は家族だけで解決しろ、国は保護しない」ということなのだ。
〔消えた「両性の合意のみ」「配偶者の選択」「住居の選定」〕
2には変更点がないようにえる。しかし「婚姻は、両性の合意のみに基いて」が、改悪草案では「婚姻は、両性の合意に基いて」となり「両性の合意のみ」を「両性の合意」に変えている。婚姻には、両性の合意だけではなく、他の誰か——例えば戦前のように「家長」——の合意が必要だということを匂わせているのだ。
3では「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族」が、改悪草案では「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族」となっている。「配偶者の選択」「住居の選定」が消え、「扶養」「後見」「親族」が増えている。
配偶者や住居を選ぶのは個人の自由ではない。扶養や後見が重要だ、それも家族だけではなく、親族まで面倒を見ろという事だ。自由で民主的な社会、リベラルでデモクラティックな社会を作るという政党の憲法改悪草案がこんな事になっているのである。【自由で民主的な社会、リベラルでデモクラティックな社会を作ると唱える政党の憲法改悪草案が、こんなことになっているのである】「自由」「民主」党とは、現存する政党の中で一番すばらしい党名だと思う。しかも英語名は、Liberal Democratic Party of Japanだ。 自由で民主的な社会、リベラルでデモクラティックな社会を作るという政党の憲法改訂草案がこんなことになっているのである。
〔男女平等とジェンダーフリーバッシングと夫婦別姓反対〕
自民党が24条に目をつけた背景には、男女平等阻止と、ジェンダーフリーバッシングと、夫婦別姓反対という「女の問題」に対する成功体験があったからだと言われる。同じように家族と婚姻の基本原則である24条も「女の問題」と扱われがちだからだ。先ず日本では国連からの外圧により、1986年に男女雇用機会均等法、1999年の男女共同参画社会基本法が制定された。ここで「男女雇用平等法」「男女平等社会基本法」とすればよいものを、わざわざ「雇用機会均等」だの「共同参画社会」だのという用語を捻り出したのは、どうしても「男女平等」という言葉を使いたくなかったからだ。男女平等を女性が輝くに言い換えるあたり「女の問題」として処理しようとしている事がよく解る。
それが現在の安倍政権の「女性が輝く社会」「一億総活躍社会」という用語に繋がっている。これだって「男女平等社会」と言えば済むのだ。殊に男女平等を女性が輝くに言い換えるあたり「女の問題」として処理しようとしている事がよく解る。
さて「ジェンダーフリー」とは「社会的な性別に捉われない」といった意味の用語である(この用語については、フェミニズム側からも賛否両論がある)。これが2000年代に入って「男女を中性化するフェミニストの陰謀!」と曲解され、バッシングされ、内閣府男女共同参画局は「画一的に男女の違いを無くし人間の中性化を目指すという意味で『ジェンダー・フリー』という用語を使用している人がいるが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではない」と否定するようになり、結果として「男女平等」にまつわる政策自体が退行していった。そして「夫婦別姓」といえば、日本古来の伝統という訳でもないのに(例えば明治の初期には夫婦別姓だった)、1996年に答申された「選択的夫婦別姓」を可能とする民法改正案を、自民党が「家族の一体感が損なわれる」と反対し、国会に上程すらされていない。更に2015年には最高裁大法廷が、「夫婦同姓は違憲ではない」と判断したのだ(とはいえ夫婦別姓が違憲だと判断された訳でもない)。 2016年、野党は選択的夫婦別姓の導入を盛り込んだ民法改正案を共同提出したが、審議入りされなかった。男女平等だの、ジェンダーフリーだの、夫婦別姓だのを通さない事は、自民党にとって重要な課題であり、これが成功してしまっている事の意味は大きい。
〔フェミニスト、めんどくせーな!でも男だって生きにくくなる。〕
女の問題は、保守からはこのように簡単に批判され易いだけではなく、リベラルからも女性からも、面倒臭いと思われてしまう部分がある。
リベラルでも男女平等やフェミニズムへの違和感や嫌悪感を表明する人は少なくないし、女性でも「男女平等がいいとは思わない」「私はフェミニストではないけれど」とエクスキューズする事がままある。
この原稿を読んでいる多くの人も「でたでた、フェミニスト、めんどくせーな!」と思っているだろう。私自身は確かに高校時代から30年来のフェミニストではあるのだが「いつまで女の問題について書かなければいけないのだ、めんどくせーな」と、書いているこっちだって思っているのである。男女平等もジェンダーフリーも夫婦別姓も、そういった「面倒臭い女の問題」として扱われたからこそ、自民党は自分達と違う意見が優位になるのを阻止することができた。フェミニストは家族や男女を破壊するモンスターとして、自民党の仮想敵であり続け、結果としてうまく利用されてしまった部分があると、自戒を込めて思っている。しかし、このまま24条を女の問題として面倒くさがっていると、同じ轍を踏む事になってしまう。
〔「個人の尊重」よりも「家族の尊重」が重視され、「婚姻の自由」もなく、「家族が助け合わなければならない」という社会は、女性だけではなく男性にとっても生きやすくはない〕
「個人の尊重」よりも「家族の尊重」が重視され「婚姻の自由」もなく「家族が助け合わなければならない」という社会は、女性だけではなく男性にとっても生きやすくはない。自民党の改悪草案には、男性が過剰な「家長」意識を持たされるしんどさがある。男女平等阻止や、ジェンダーフリーバッシングだって、夫婦別姓反対だって同じで、本当は女だけの問題ではなかったのだ。結果として「男はとにかく働いて家族を養うものだ」「働かない男、稼がない男には意味がない」というプレッシャーにも繋がり易い。家族が一番大事な人、男らしさや女らしさが大事な人「家長こそが男の生き方、それを支えるのが女の生き方」と思う人がいてもいい。でも、そうではない人、そうはできない人もいるのが、個人が尊重される社会だ。24条改正は、女だけの問題ではない。
【著者プロフィール:深澤真紀:コラムニスト・淑徳大学客員教授/早稲田大学第二文学部社会専修卒業。社会科学系、サブカル系、IT系、生活系など複数の出版社で編集者を務め1998年、企画会社タクト・プランニングを設立、代表取締役社長に就任。】
もし「人権を奪う法案」が国会で可決されたらどうなるか…。例え多数決でも人権は奪えないと考えるのが立憲主義である。憲法に明記すれば、人権は守られる。どんな政治権力も暴走する危険があるから、憲法の力で制御しているのだ。ちょうど百年前1916年に京都帝大の憲法学者佐々木惣一が「立憲非立憲」という論文を発表した。「違憲ではないけれども、非立憲だとすべき場合がある」という問題提起をしたのだ。人権を奪う法案の例えは、非立憲そのものだ。国民主権も多数決で奪えない。 平和主義もまたそのような価値である。民意を背景にした政治権力でも間違うことがあるから憲法で縛りをかける。過半数の賛成も間違うことがある。だから多数決は万能ではないと考える訳だ。
対極が専制主義である。佐々木は「第十八世紀から第十九世紀にかけての世界の政治舞台には、専制軍に打勝った立憲軍の一大行列を観た」と記した。 専制軍とはフランス王制、立憲軍とは人権宣言等を示すのだろう。 佐々木が心配した「非立憲」の勢力が、何と現代日本に蘇る。 集団的自衛権行使を認める閣議決定はクーデターとも批判され、戦争法制は憲法学者の大半から違憲とされた。憲法を無視し、敵視する。そして改憲へと進む…。民意で選ばれた政治権力であっても、専制的になりうることを示しているのではないだろうか。
緊急事態条項を憲法に新設する案が聞こえてくる。戦争や自然災害など非常事態のとき、国家の存立を維持するために、憲法秩序を停止する条項だ。奪われないはずの人権も自由も制限される。他国にはしばしば見られるのに、なぜ日本国憲法にこの規定がないか。七十年前に議論された。
一九四六年七月の帝国議会で「事変の際には(権利を)停止する」必要性をいう意見が出た。新憲法制定の担当大臣である金森徳次郎はこう答弁した。【精緻なる憲法を定めましても口実を其処に入れて又破壊せられる虞、絶無とは断言し難い】緊急事態という口実で、憲法が破壊される恐れがあると指摘したのだ。
戦前の旧憲法には戒厳令等があった。ヒトラーは非常事態を乱用して独裁を築いた。「立憲」を堅持しないと、権力はいろんな口実で、かけがえのない人権を踏み躙りかねない。(東京新聞)
《【改憲】シリーズ!》
<「憲法ってなんですか?」に対する、木村草太の答え>
1.張り紙から過去が見える
ここ数年、かつてなく憲法に注目が集まっており私も、しばしばテレビやラジオの出演依頼を受ける。報道機関で印象的なのは、セキュリティの厳しさだ。「社員証は必ず携行しましょう」といった張り紙をよく目にする。張り紙と言えば、夜のラジオでしばしば声をかけて頂く某局のトイレには、他局では見ないユニークな張り紙がある。「居眠りは止めましょう」と書かれているのだ。居眠りの常習犯がいたに違いない。「憲法学者が何故、張り紙の話など始めるのだ?」といぶかしがる方もいるかもしれない。しかし張り紙は憲法理解のための良い素材だ。
2.憲法って何ですか?
仕事柄、よく「憲法って何ですか?」と聞かれる。答え方はいろいろあるが、私は「国家権力がしでかした失敗への反省から作られた張り紙のようなものだ」と説明する事にしている。歴史を振り返れば、国家権力は、気に入らない人間を弾圧したり、独裁をしたり、あるいは無謀な戦争をしたりして、国内や国外の人々を困らせてきた。
そうした失敗を繰り返さないようにするには人権を保障しましょう、権力を分立しましょう、軍事権を行使するには慎重な手続きを経ましょう、等といったルールを予め定めておくのが有効だ。このような構想を立憲主義という。過去にトイレでの居眠りが多かったので、それを防ぐために張り紙をしよう、というのと同じ発想だ。立憲主義に基づき制定された憲法が機能すれば、人権は保障され、権力は濫用されにくくなる。無謀な戦争も起きにくくなる。 憲法は、国民からのそうした期待を一身に背負い、その活躍が待たれているはずだ。
3.憲法は待たれているのか?
憲法は、国家権力をコントロールするための拠り所である。憲法知識がごく一部の専門家だけにしか知られていないのでは、憲法はうまく機能しないだろう。市民の間にも理解を深め、権力者がおかしな事をしそうになったら「それはだめです」と押し止める力を持たねばならない。
しかし専門誌の論文や最高裁の判例を離れ、一般メディアや論壇の議論を見ていると、憲法は本当に待たれているのだろうか、という気がしてくる。そこで流通している憲法論議は、専門の研究者が普段、考えている事とあまりにもかけ離れている事が多い。知識人と呼ばれる人達までもが、誤った前提の下に議論をしていたりする。例えば「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」する、と定めた憲法二四条は、何を意味しているのか。
戦前の旧民法では、婚姻に親や親族の同意が必要であり、当事者の合意だけでは結婚できなかった。また女性の地位が低く、選挙権もなければ、家庭内でも従属的な立場にあった。憲法二四条はこれを改め、当事者の合意「のみ」で婚姻できること、男性だけでなく女性の同意も必要である事を定めるために制定された。こうした時代背景を学んでいれば、憲法二四条は、当事者の意思を尊重するために定められたのであって、同性婚を禁じる趣旨など全くない事は明らかだ。にも関らず、一般メディアや知識人とされる人が「憲法二四条は同性婚を禁じている」と解説したりする。
人々の幸せを本気で願うならば、このような誤った言説を修正し、建設的な議論のベースを作っていかねばならない。しかしながら「そんな事は不可能なのではないか」と無力感に襲われる事がある。人々がきちんとした学問的知識を求めているなら、そして、そうした学問的知識に裏打ちされた社会の実現を求めているなら、とっくの昔に誤りは修正されているはずではないだろうか。社会は、憲法の求める理想とはかけ離れた世界、すなわち立憲主義の成立以前の世界を求めているのではないだろうか。
「やってられないなあ、本当に、私は待たれているのだろうか」という憲法のぼやきが聞こえてきそうだ。いとうせいこう氏の名作『ゴドーは待たれながら』は、ベケット『ゴドーを待ちながら』を裏側から描いている。『待たれながら』のゴドーは、本当に待たれているのだろうかと延々、逡巡する。これはまさに今の憲法がおかれた状況のようではないか。
しかし憲法自身は、「ぼやく」なんて態度からは程遠い。憲法一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と力強く宣言する。
立憲主義の実現に向けた努力が徒労のように感じることもあるかもしれない。しかし、立憲主義のために精一杯努力して、ようやく今の状態に留まっている。この細やかな努力を止めてしまったら、もっと酷い事になる。憲法がぼやいているように感じたのは、単なる私のぼやきに過ぎなかったのだ。
4.本当に困っている人たちのために
そう思って、もう一度、考えてみる。憲法を待っている人は本当にいるのだろうか。確かに日々の生活に満足している人達は「憲法なんてあってもなくても一緒だ」と思っているかもしれない。しかし本当に困っている人達は違う。誰かに助けを、希望を求めている。本当に困っている人達のために、憲法は何をできるか。それを検討したのが、『憲法という希望』という本だ。この本では夫婦別姓訴訟と辺野古基地問題を考えた。
民法七五〇条は、夫婦のどちらかが氏を変更しないと法律婚はさせない、と規定するため、多くの別姓希望カップルが、事実婚という不安定な状態に留まる事を余儀なくされている。辺野古基地の建設について、沖縄の人々は、本当に困り果て、心の底から怒っている。困っている人達のために、憲法にできる事はないのか。実は結構あるはずだ。憲法を国民がきちんと使いこなせるようになれば、憲法は社会をより良くする力になる。 本当に困っている人たちの希望になる。
『憲法という希望』では、憲法を神棚に祭り上げるのではなく、憲法を引きずり出そう、現実に役立てようと試みている。
5.憲法を伝えるには?
ただ本の著者というのは、自分の中で当たり前になっている事が沢山あり、説明すべき事を説明せず、読者を「?マーク」の中に置いてきぼりにしがちだ。私も、その例外ではない。例外でないどころか、どんぴしゃりの典型例である。だから私の本には、読者の視点から適切な質問を投げかけてくれる人が必要だ。なんと『憲法という希望』では、国谷裕子さんがその役をやってくださった。皆さんもご存知の通り、国谷さんはNHK「クローズアップ現代」のキャスターとして活躍した。「伝えるプロ」の国谷さんが投げかける質問は、視聴者が「まさにそこを聞いてほしかった」と思うものばかりだ。私の一方的な語りを読んで「今一つよく解らない」と思った方も、きっと最後の対談部分を読んだ後には「なるほど」と感じる所が格段に増えているのではないかと思う。
6.お説教はそろそろ終わりに
憲法は大切だとか、立憲主義は人類普遍の原理だと抽象的に言っても、その大切さはなかなか伝わらない。偉そうなお説教に聞こえ「憲法なんてうんざりだ」という反発を生む事すらあるだろう。しかし本当に困っている人を前に「全ての人が尊重される社会を作るにはどうしたらいいのだろう」と考えを巡らすと、憲法の潜在力に気づくはずだ。自ずと建設的な提案が見えてくる。異なる個性を持つ人々が共に生きようとする限り、憲法は間違いなく待たれている。憲法にどんな希望が見えるのか。ぜひ、体感してみてほしい。
<ヤバイ!緊急事態条項を学びましょう!>
「緊急事態条項の問題点は?」がテーマ。憲法改定に向け、緊急事態条項を議論する動きがあります。戦争や災害発生時に総理が緊急事態を宣言、政令を作ることができるこの条項、憲法学者から危惧の声も上がっています。
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安倍(独裁)総理が安保の次は「改憲を争点にする」と宣言! 自民党が目論む「緊急事態条項の新設」は、9条改悪よりヤバイ。緊急事態宣言さえ出してしまえば、何人も国の指示に従わなければならないということになる。「災害が起こったらすばやく対応できるよ!」という触れ込みは、結局、緊急事態条項の本質を隠すカモフラージュ。この条項を憲法に加える真の目的は、明治憲法下の戒厳令の復活であり、緊急事態を口実にした国民の権利の抑制であり、言うことを聞かない地方を国に従わせるということなのだ。
[参考サイト:http://lite-ra.com/i/2015/09/post-1531.html← 必読です!]
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〔自民党憲法改悪草案:第九章-緊急事態〕
第98条(緊急事態の宣言)
1 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。
第99条(緊急事態の宣言の効果)
1 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
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■上記の「自民改憲案」によれば、首相は緊急事態を宣言すれば法律と同一の効力を有する政令を勝手に制定できる。つまりやろうと思えば、政敵を牢獄に放り込んだり、新聞社やテレビ局を閉鎖する事もできてしまうだろう。こんなものを「お試し」するの?本丸は9条じゃなくてこっちじゃないの?これは高度な詐欺師の手口に思える。つまり自民が「9条には抵抗あるでしょうから、まずは緊急事態条項をやりましょうよ」と言うことによって、抵抗する側も優先順位が混乱してしまい、緊急事態条項に反対するよりも9条を守ろうとしてしまう。でも自民党の狙いは最初から緊急事態条項だ。9条は、既に「戦争関連法」により解釈改憲で一定、クリアしている。それよりも独裁的かつ永続的に自民党(安倍)政権を維持するには「緊急事態条項」が必要不可欠。これは麻生財務大臣も、本音でコメントを漏らしている。ところが民進党(岡田前代表)もリベラル評論家に「緊急事態条項の方が危険なのでは?」と誘い水をかけても「いや!9条の方が天王山!」と、相変わらず柔軟性のない石頭で聞き入れようとしない。加えて共産党も「9条の会」が拡がったからか、いまだに「9条が本丸」と思い込んでいる。(党中央委員会:志位委員長挨拶)ハッキリ言って志位委員長は「戦争関連法-強行採決(?)」直後に「国民連合政府構想」と選挙至上主義で幻想を抱かせる。緊急事態条項でも、そのミニ実践と言われる沖縄-高江等の訪問・激励も本人は、全く行かない。ズバッと言って「党の重要方針」と位置付けておらず、東大社研のエリートで大衆運動経験のない党人派-志位委員長には、ああいう大衆行動は嫌いなのだろう。その「大衆が主体的・自立的に行動する大衆運動」への評価は1970年前後の「大衆運動軽視or敵対視」と未だに変わらず、「ブルジョワ議会主義(選挙闘争)」オンリーに埋没している。同時に情勢に対する思い込み・思い上がりも強く、参議院選挙敗北の厳しい総括よりも多少の選挙共闘の前進面の方が強調されている。そして刻々と変わる権力変化にも対応できず、それが「9条への拘り」に現れている。つまり権力評価・情勢認識が常に中幅程度に遅れて、また「キッタ、ハッタの反権力闘争」に甘さが見られるのだ。とにかく改憲阻止闘争の重要な幹は「非常事態条項」だ!共産党が、そんな遅れた認識では「ホントに危ないぞ!早く頭を切り替えろ!」(文責:民守正義)
<【いま読む日本国憲法】第36条「絶対」禁止 強い決意>
警察官や検察官が、被疑者や被告人から自白を得るため、肉体的・精神的な苦痛を与える「拷問」を禁じた条文です。
ポイントは「絶対に」という強調表現。現憲法の中で「絶対に」という言葉が出てくるのは、この一カ所だけです。
旧憲法下で、思想統制を目的とした逮捕・拷問が横行したことへの反省からで、拷問や残酷な刑を禁止する強い決意が感じ取れます。しかし何故この条文だけに「絶対に」があるのか、説明しづらいのも事実です。
例えば一八条の「奴隷的拘束」や「意に反する苦役」は、否定しているものの「絶対に」とまでは書かれていません。改憲論者は、しばしば今の憲法について「日本語としておかしい」と指摘します。 その延長線上で、この「絶対に」が話題になることがあります。自民党改憲草案では「絶対に」が削除されています。草案のQ&Aには、削除の理由は書かれていません。憲法の専門家からは「『絶対に』を外せば、当然、守るべき規則としての力は低下する。一定の条件があれば例外が認められるとの解釈につながる可能性がある」と、問題視する意見が出ています。この条文に関して議論になるのは、死刑制度との関係です。人権団体や、超党派国会議員による「死刑廃止を推進する議員連盟」などの廃止論者は、死刑が三六条の定める「残虐な刑罰」に当たると指摘。死刑廃止が国際的潮流になっていることや、死刑が犯罪抑止に繋がらないとも主張しています。(東京新聞抜粋)
<憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない:深澤真紀淑徳大学客員教授>
自民党や日本会議が、憲法改悪の突破口の一つとして憲法24条に目をつけたのは、敵ながらうまいところをついていると思う。先ず24条は、9条に比べて話題になりにくいのだ。例えば「憲法24条」を検索すると、ニュースの数は28本。一方の「憲法9条」は389本で、14倍近い差がある(共に2016年6月30日現在)。そもそも9条の内容を知らない人はいないだろうが、24条の内容を知っている人は多くないだろう。
〔家族と婚姻の基本原則である24条改正の、どこが問題か〕
では家族と婚姻の基本原則である24条の、どこが問題か。現行憲法を見てみよう。
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第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
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そして、自民党の憲法改正草案はこうだ。
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第24条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
〔「個人の尊重」から「家族の尊重」へ〕
改悪草案は何故「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。」から始まるのか。それには先ず13条の改悪草案を見なければいけない。現行憲法では「すべての国民は個人として尊重される」なのに、草案では「すべての国民は人として尊重される」となっているのだ。
「個人」と「人」の違いは大きい。「個人」とは各々の人間の事を指すので「個人の尊重」という言葉は多様な人間の1人1人が尊重されるという事だ。一方の「人」とは、動物とは違うというくらいの意味しかない。 個人から人への変更は「個人主義」を嫌う自民党らしい大きな意味を持つのだ。改悪草案では個人ではなく、家族が尊重されるべきとなっている。しかも「家族は、互いに助け合わなければならない」と書いている。
憲法とは、居酒屋のトイレに貼ってあるカレンダーではない。
自民党は、世界人権宣言16条にも「家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位」と書いてあるというのだが、人権宣言ではこの後に「(家族は)社会及び国の保護を受ける権利を有する」と続いているところが改憲草案には肝心のそれが書かれていない。 「家族の問題は家族だけで解決しろ、国は保護しない」ということなのだ。
〔消えた「両性の合意のみ」「配偶者の選択」「住居の選定」〕
2には変更点がないようにえる。しかし「婚姻は、両性の合意のみに基いて」が、改悪草案では「婚姻は、両性の合意に基いて」となり「両性の合意のみ」を「両性の合意」に変えている。婚姻には、両性の合意だけではなく、他の誰か——例えば戦前のように「家長」——の合意が必要だということを匂わせているのだ。
3では「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族」が、改悪草案では「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族」となっている。「配偶者の選択」「住居の選定」が消え、「扶養」「後見」「親族」が増えている。
配偶者や住居を選ぶのは個人の自由ではない。扶養や後見が重要だ、それも家族だけではなく、親族まで面倒を見ろという事だ。自由で民主的な社会、リベラルでデモクラティックな社会を作るという政党の憲法改悪草案がこんな事になっているのである。【自由で民主的な社会、リベラルでデモクラティックな社会を作ると唱える政党の憲法改悪草案が、こんなことになっているのである】「自由」「民主」党とは、現存する政党の中で一番すばらしい党名だと思う。しかも英語名は、Liberal Democratic Party of Japanだ。 自由で民主的な社会、リベラルでデモクラティックな社会を作るという政党の憲法改訂草案がこんなことになっているのである。
〔男女平等とジェンダーフリーバッシングと夫婦別姓反対〕
自民党が24条に目をつけた背景には、男女平等阻止と、ジェンダーフリーバッシングと、夫婦別姓反対という「女の問題」に対する成功体験があったからだと言われる。同じように家族と婚姻の基本原則である24条も「女の問題」と扱われがちだからだ。先ず日本では国連からの外圧により、1986年に男女雇用機会均等法、1999年の男女共同参画社会基本法が制定された。ここで「男女雇用平等法」「男女平等社会基本法」とすればよいものを、わざわざ「雇用機会均等」だの「共同参画社会」だのという用語を捻り出したのは、どうしても「男女平等」という言葉を使いたくなかったからだ。男女平等を女性が輝くに言い換えるあたり「女の問題」として処理しようとしている事がよく解る。
それが現在の安倍政権の「女性が輝く社会」「一億総活躍社会」という用語に繋がっている。これだって「男女平等社会」と言えば済むのだ。殊に男女平等を女性が輝くに言い換えるあたり「女の問題」として処理しようとしている事がよく解る。
さて「ジェンダーフリー」とは「社会的な性別に捉われない」といった意味の用語である(この用語については、フェミニズム側からも賛否両論がある)。これが2000年代に入って「男女を中性化するフェミニストの陰謀!」と曲解され、バッシングされ、内閣府男女共同参画局は「画一的に男女の違いを無くし人間の中性化を目指すという意味で『ジェンダー・フリー』という用語を使用している人がいるが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではない」と否定するようになり、結果として「男女平等」にまつわる政策自体が退行していった。そして「夫婦別姓」といえば、日本古来の伝統という訳でもないのに(例えば明治の初期には夫婦別姓だった)、1996年に答申された「選択的夫婦別姓」を可能とする民法改正案を、自民党が「家族の一体感が損なわれる」と反対し、国会に上程すらされていない。更に2015年には最高裁大法廷が、「夫婦同姓は違憲ではない」と判断したのだ(とはいえ夫婦別姓が違憲だと判断された訳でもない)。 2016年、野党は選択的夫婦別姓の導入を盛り込んだ民法改正案を共同提出したが、審議入りされなかった。男女平等だの、ジェンダーフリーだの、夫婦別姓だのを通さない事は、自民党にとって重要な課題であり、これが成功してしまっている事の意味は大きい。
〔フェミニスト、めんどくせーな!でも男だって生きにくくなる。〕
女の問題は、保守からはこのように簡単に批判され易いだけではなく、リベラルからも女性からも、面倒臭いと思われてしまう部分がある。
リベラルでも男女平等やフェミニズムへの違和感や嫌悪感を表明する人は少なくないし、女性でも「男女平等がいいとは思わない」「私はフェミニストではないけれど」とエクスキューズする事がままある。
この原稿を読んでいる多くの人も「でたでた、フェミニスト、めんどくせーな!」と思っているだろう。私自身は確かに高校時代から30年来のフェミニストではあるのだが「いつまで女の問題について書かなければいけないのだ、めんどくせーな」と、書いているこっちだって思っているのである。男女平等もジェンダーフリーも夫婦別姓も、そういった「面倒臭い女の問題」として扱われたからこそ、自民党は自分達と違う意見が優位になるのを阻止することができた。フェミニストは家族や男女を破壊するモンスターとして、自民党の仮想敵であり続け、結果としてうまく利用されてしまった部分があると、自戒を込めて思っている。しかし、このまま24条を女の問題として面倒くさがっていると、同じ轍を踏む事になってしまう。
〔「個人の尊重」よりも「家族の尊重」が重視され、「婚姻の自由」もなく、「家族が助け合わなければならない」という社会は、女性だけではなく男性にとっても生きやすくはない〕
「個人の尊重」よりも「家族の尊重」が重視され「婚姻の自由」もなく「家族が助け合わなければならない」という社会は、女性だけではなく男性にとっても生きやすくはない。自民党の改悪草案には、男性が過剰な「家長」意識を持たされるしんどさがある。男女平等阻止や、ジェンダーフリーバッシングだって、夫婦別姓反対だって同じで、本当は女だけの問題ではなかったのだ。結果として「男はとにかく働いて家族を養うものだ」「働かない男、稼がない男には意味がない」というプレッシャーにも繋がり易い。家族が一番大事な人、男らしさや女らしさが大事な人「家長こそが男の生き方、それを支えるのが女の生き方」と思う人がいてもいい。でも、そうではない人、そうはできない人もいるのが、個人が尊重される社会だ。24条改正は、女だけの問題ではない。
【著者プロフィール:深澤真紀:コラムニスト・淑徳大学客員教授/早稲田大学第二文学部社会専修卒業。社会科学系、サブカル系、IT系、生活系など複数の出版社で編集者を務め1998年、企画会社タクト・プランニングを設立、代表取締役社長に就任。】
<今、憲法を考える:立憲・非立憲の戦いだ>
もし「人権を奪う法案」が国会で可決されたらどうなるか…。例え多数決でも人権は奪えないと考えるのが立憲主義である。憲法に明記すれば、人権は守られる。どんな政治権力も暴走する危険があるから、憲法の力で制御しているのだ。ちょうど百年前1916年に京都帝大の憲法学者佐々木惣一が「立憲非立憲」という論文を発表した。「違憲ではないけれども、非立憲だとすべき場合がある」という問題提起をしたのだ。人権を奪う法案の例えは、非立憲そのものだ。国民主権も多数決で奪えない。 平和主義もまたそのような価値である。民意を背景にした政治権力でも間違うことがあるから憲法で縛りをかける。過半数の賛成も間違うことがある。だから多数決は万能ではないと考える訳だ。
対極が専制主義である。佐々木は「第十八世紀から第十九世紀にかけての世界の政治舞台には、専制軍に打勝った立憲軍の一大行列を観た」と記した。 専制軍とはフランス王制、立憲軍とは人権宣言等を示すのだろう。 佐々木が心配した「非立憲」の勢力が、何と現代日本に蘇る。 集団的自衛権行使を認める閣議決定はクーデターとも批判され、戦争法制は憲法学者の大半から違憲とされた。憲法を無視し、敵視する。そして改憲へと進む…。民意で選ばれた政治権力であっても、専制的になりうることを示しているのではないだろうか。
緊急事態条項を憲法に新設する案が聞こえてくる。戦争や自然災害など非常事態のとき、国家の存立を維持するために、憲法秩序を停止する条項だ。奪われないはずの人権も自由も制限される。他国にはしばしば見られるのに、なぜ日本国憲法にこの規定がないか。七十年前に議論された。
一九四六年七月の帝国議会で「事変の際には(権利を)停止する」必要性をいう意見が出た。新憲法制定の担当大臣である金森徳次郎はこう答弁した。【精緻なる憲法を定めましても口実を其処に入れて又破壊せられる虞、絶無とは断言し難い】緊急事態という口実で、憲法が破壊される恐れがあると指摘したのだ。
戦前の旧憲法には戒厳令等があった。ヒトラーは非常事態を乱用して独裁を築いた。「立憲」を堅持しないと、権力はいろんな口実で、かけがえのない人権を踏み躙りかねない。(東京新聞)
(民守 正義)
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