リベラル勢力の再構築で安倍ファシズム政権退陣へ(特別号)
リベラル勢力の再構築で安倍ファシズム政権退陣へ(特別号)
《本ブログ「リベラル広場」管理者:民守/沖縄-高江に行く!》
私事、管理者は中学生時代から今日に至るまで「人権運動⇒ベトナム反戦運動・大学内運動⇒労働組合運動⇒市民型(人権)運動」等を暦年では一年と欠かす事なく闘ってきた。今、長年の運動経験を振り返って見ると、反省総括する方が圧倒的に多く、決して誇らしいものではない。
特に事「人権問題」に拘って言うと、一方で「反差別」を唱えながら、一方で「差別or差別を助長する立場」に立っていた事に気づかされ、猛烈反省した事もある。ただ「被差別」の立場でも、その事に傲慢になってか、 「他者への差別」or「他者への差別冤罪」をかけること(者)も現実問題として有り得る事も事実である。つまり結論的に言えば「社会的差別を受ける者」=「完璧無欠な人権卓越者」ではなく、「社会的差別を受ける者」であっても、意識・無意識を問わず、「差別する側or助長する側」に立ちうることを自戒すべきだと思う。特に管理者は「車椅子障害者+神経障害」であるが、健常者の時も「障害者解放運動」に関わったが、いざ「当事者」になってみると「被差別当事者」との認識と「自己障害に驕らず、それどころか負けずに『社会にも感謝!』」の気持ちのバランスが本当に重要だと思っている。そして、だからこそ「自己差別意識を払拭するには①主観的理解や感情をできるだけ排除し、現実・事実と客観的かつ科学的理解に努めること(特にLGBT等)②『それが、もし自己体験だったら』と追想体験豊かに『対面型思考』から『並行型思考』に不断に努力すること、③-②と被さるが、『直接のコミュニケーションも図らずに予断と偏見は差別の重大エッセンス』であり、直接にて寄り添う気持ちが何よりも重要」との認識で実践化を図る事である。そして、これらの努力は「エンドレスの取り組み」である事はいうまでもない。
大分「沖縄-高江訪問」と離れた感があるが、上記の「取り組み」の一環として「沖縄-高江の心に触れ合い、寄り添い、向き合わないと沖縄問題を理解した事にならない」と思って「沖縄-高江訪問」を決意した次第です。日程は私の身体障害もあり、明日10月4日(火)から6日(木)までの短期間であるが、その間、原稿毎日更新ができない。
そこで《不戦シリーズ!戦争体験談》を長文3本、用意したので、それを、ごゆっくり読んで頂く事で御勘弁願いたい。
*なお沖縄台風接近のため、急遽中止の場合は、通常通り、原稿毎日更新を行います。
《OKINAWA 2015死線を泳いだ少女:平良啓子さんの証言(完全版)》
*対馬丸事件-昭和19年7月7日、軍の要請で政府は奄美大島・徳之島・沖縄諸島の老幼婦女子を対象に、日本本土へ8万人・台湾に2万人の計10万人の疎開命令を出した。しかし県民には沖縄が本当に戦場になるかどうかの判断がつかず、未知の土地への移動に難色を示す者もいて疎開希望者はなかなか集まらなかった。児童の親等から疎開輸送に軍艦の投入を要請する声もあったが、日本海軍には既にこれに充てる余裕は無かった。
しかし足手まといになる民間人を県外へ移動させる事が急務だった為、最終的には軍が疎開割当者を半ば強制的に確保する命令を出し、昭和19年8月21日、対馬丸は疎開学童・引率教員・一般疎開者・船員・砲兵隊員1,788名を乗せ、疎開者を乗せた和浦丸・暁空丸と護衛艦の宇治・蓮を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し出航した。翌22日の夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィンの魚雷攻撃を受け、殆どの乗船者は船倉に取り残され、海に飛び込んだ者も台風の高波にのまれた。生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、軍の連絡を受けた漁船に救出された。最終的に乗員・乗客合わせて1,476名が死亡した。この事件は、今上天皇も当時の児童達が、ご自身の同様世代である事もあって、この事件には特段の思いがあって「私の平和を念願する原点の一つである」と述べられている。本稿は、その平和への念願を共有しながら実体験された「平良啓子さんの証言」をご一読頂きたい。なお御一読にあたっては、ハンカチ・タオル等を用意される事を、お勧めする。(文責:民守 正義)
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1944年8月21日、8百余名の学童を含む約千八百名を乗せ、長崎へ向けて那覇港を出航した疎開船対馬丸は、翌22日夜、鹿児島県悪石島付近で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により撃沈。およそ千五百名が犠牲となった。生き残った学童は僅か59名で、国民学校4年生だった平良啓子さん(当時9歳)はその一人だ。戦後、平良さんは19歳で臨時教員として教壇に立ち、通信教育で資格を取った後、39年間の長きにわたり、教え子達に平和の大切さを訴え続けた。現在80歳の平良さんは対馬丸事件の証言活動に奔走する一方で、毎週月曜日、オスプレイも離発着可能なヘリパッドを建設中の国頭郡東村高江に通い、座り込みによる抵抗を続けている。
しかし現政権は憲法違反との強い批判を受けながらも戦争法案を成立させ、更に沖縄県との「対話」を打ち切り辺野古に新基地建設を強行しようとしている。沖縄戦から70年、対馬丸事件から71年─歴史を繰り返さないため、平良啓子さんの証言をここに掲載する。
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前提の話をするならば1944年7月7日にサイパンが玉砕し、日本の戦力が弱まって、米軍が本土に向かって北上してくるのを何としても沖縄で食いとめたい。沖縄に沢山の兵力を送らないと戦えない。ところが沖縄は裕福な島ではないし、食糧難とかいろいろあるので、先ずは戦力にならない女子供を疎開させた方がいいのじゃないか。女子供10万人の内8万人を本土へ、2万人を台湾へ送り、10万人の兵隊を沖縄に呼び込もう─そういう計画の下、私達は疎開させられる事になったようです。そんな事を私達子供は知りませんから本土へ行ける、雪が見られる、汽車に乗れるとか、そういう憧れもあって、はしゃいでいました。母親は反対していましたが、私の父親と長兄が東京の会社に出稼ぎに行っていましたので、行けば二人に会えると説得されました。父は私が4歳のときに家を出ていますから、殆ど面影がないのです。なので、お父さんに会いたいという思いがありました。私の家族は6人で母はとても悩んでいました。67歳の祖母は猛反対でしたね。お年寄りは生まれ育った村を離れたくないものです。
6年生の兄はとても行きたがって「行くんだ、行くんだ」と皆に言い、自分で申し込みをしてしまいました。三高女(沖縄県立第三高等女学校)に行っていた17歳の姉が、8月ですから夏休みで帰省していました。
東京にいる兄の婚約者もいて、ついでだから一緒に疎開船に乗っていって、そのまま向こうで結婚する話になっていました。祖母と三高女の姉、6年生の兄、私、そして兄の許嫁の新しいお姉さんも加わり、うちからは5人が疎開する事になったのです。後は父の弟がお隣に住んでいまして、そこの子が、私の従妹にあたる訳ですが、時子といいました。
母は私に「時子に一緒に行こうなんて言っちゃいけないよ。家族が別なのだからね」と釘を刺していました。私が疎開する事を知ったら、時子が一緒に行きたいと言いだすのは解りきっていました。私は「一緒に行かんね」と言わなかったですよ。でも噂で聞きつけて「啓子もおばあちゃんも行くのでしょ。私も行かせて」と、時子は両親に駄々こねて泣き喚いたそうです。時子の両親は猛反対で、後に防衛隊に入るお父さんも家にいましたから「啓子とお前は家族じゃないから行くな」と止めたらしいのですが、時子が聞かないので「勝手にすればいい」という事になったそうです。村の人口は6百人位だったそうですが、その内40人が出ていきました。田舎の山の奥からですよ。安全な場所かもしれないのに、どうして本土に疎開するのか、不安を感じた人もいたようです。40人は夕方6時過ぎに村を出て、松明をかざしながら細い山道を西に向かって歩きました。今の奥間ビーチ(国頭村鏡地の海水浴場)の方の港が船着場で、そこからポンポン船で那覇に行きました。時子は、ニコニコ笑って付いてきました。
うちは母と1年生の妹と4歳の弟の3人が残りました。私達が山道を歩き始めるときに母が「来年の3月にはきっと会えるから、辛抱するのだよ!」と大きな声で言い「さようなら」と言って別れたのを今でも覚えています。あんなに行きたがっていた6年生の兄は「僕、お母さんにもう一度会いたい」と言って、山道の途中で大人しくなってしまいました。鏡地の浜から艀に乗るとき、兄は山の方に向かって「僕、お母さんにもう一遍、会いたい」って言うのです。「男の人が何度もお母さんに会いたいって、あんたなんね?」と言って私は笑ったのですけど。そうして那覇に行き、8月21日には対馬丸に乗る事になったのです。那覇市は国民学校3年生以上の生徒を対象に募集したそうです。親達は皆、心配ですよね。
行くも地獄、残るも地獄でしたから。先生達は、あちこち回って疎開する子供達を集めたようです。那覇市内の国民学校生をかき集めた約8百人、一般疎開者約8百人、その他、与那原とか南風原の人達と私達を合わせて、一説によると1661人が対馬丸に乗りました。8月21日午後6時35分、対馬丸を含む5隻が那覇港を出ました。対馬丸と暁空丸、和浦丸が疎開船で、蓮(駆逐艦)と宇治(砲艦)が護衛艦でした。対馬丸だけでも疎開者と船員や兵隊を合わせると千八百人位が乗っていたそうです。
疎開船3隻を合わせると何千人になりますね。対馬丸は客船ではなく貨物船でしたから、船倉の棚みたいなところに押し込められて、ひしめき合って一晩過ごしました。那覇市内の学童疎開者には引率の先生と世話をするおばさんが1人ずつ付いていたそうです。私達は一般疎開者ですから、赤ちゃんを連れている人もいれば、おじいさん、おばあさんもいました。そうして学童疎開者と一般疎開者が一緒になって、対馬丸に乗り込んでいた訳です。翌22日の夕方、8月ですから船倉は蒸し暑くて、うちの祖母と親戚のおばあちゃんと私と時子の4人は、涼みを求めて甲板に出ていました。この親戚のおばあちゃんは絶対に行きたくないと言っていたのを村の区長さん達が、息子に会えるんだからと強く説得したのです。おばあちゃんには横浜の大学で教授をしている優秀な一人息子がいましたから。
おばあちゃんは甲板で、ぶつぶつ文句を言っていました。「私ね、生きて帰れんよ。太平洋にこぼされに行くところなのだ」と。怖いこと言わんでよ、と私は思いました。そして日暮れ時、とうとう沖縄の島が見えなくなりました。段々、寂しくなってきて、時子と二人で「来なければよかったね」「お母さんに会いたくなったさ」と小さな声で言葉を交わしました。 寂しい気持ちを振り払うように時子と二人、大きな煙突の周りを走って鬼ごっこをしていると、6年の兄が船底から上がってきて「おーい!皆、集まっているのだよ。早く下りてこい」と大きな声で呼ぶのです。 なんだろうと思いながら、ふと見たら対馬丸以外の4隻の姿が見えません。後で聞いた話ですが、敵の潜水艦らしきものに追跡されているのを察知して4隻は逃げたそうです。対馬丸は大正時代に造られた古い船で速く走れなかったから、うっちゃられたのですよ。それを船員達は知っていたかもしれないけど、私達には解りませんでした。船底に下りると、皆は救命胴衣を着て集まっていました。私達も救命胴衣を身につけると兵隊さんがやってきて「甲板に上がれ!」と言いました。揺られながら縄梯子を駆けあがりました。船首の近くには那覇市内の学童と先生、世話をするおばさんたちが集まって、後ろの方には私達一般疎開者が集まりました。
甲板に上がらないで船倉に残っている人もいるようでした。
甲板で子供達が騒ぐのを先生達が一生懸命鎮めようとしていました。
そこに3人ほどの兵隊が駆けつけて、皆の前で大きな声で言いました。
「今晩は危ない!」と。次に注意事項を4つ。「1つ、お喋りをしてはいけない」「2つ、鼻紙を海に投げてはいけない。サトウキビをかじっている者がいるが、カスを海に投げてはいけない」「3つ、赤ん坊や泣く子供を連れている者、気分の悪い者は船底へ戻ること」「4つ、引率の教員は今晩、寝ずに子供達を見張ること」─兵隊達は、それだけ言って消えました。いろいろ言われて不安になっていると、三高女の姉が、6年生の兄と私と時子の3人を船縁に呼んで言いました。「もしも今晩この船が、アメリカの潜水艦の魚雷を食らったら、飛び込んで100メートル向こうまで泳いで逃げられる?」と。姉は何か知っていたのじゃないですかね。
6年の兄は「たった100メートルだろ。僕、このぐらい簡単」と言いました。私は「飛び込みはできるけど、波の荒い海では泳いだ事ないから怖い」と言いました。時子も同じです。私達は安波川川辺で生まれ育ったので、小さい頃から深い水に飛び込んだり潜ったりして遊んでいました。
ですから4年生までにはだいぶ泳げたのですよ。でも、そのときは台風15号が発生していて波がとても荒かったのです。その後、私達は船倉に戻り、疲れもあって、いつの間にか熟睡してしまいました。
私はおばあちゃん子でしたから、おばあちゃんに抱かれて、グウスカ寝ていた8月22日の夜、事件が起きたのです。記録によると午後10時12分、ボーンと音がして、目が覚めたときには、もう体が水に浮いていました。
波は荒かったです。対馬丸は燃えて、左側の船首近くにいた那覇の学童の子達の大きな声が夜の海に響いていました。「お母ちゃん助けて!」
「兵隊さん助けて!」「先生どこ行ったの!」と。まさに慟哭です。
私は「お姉ちゃん!」「おばあちゃん!」と一生懸命捜しましたが、さっきまで一緒だった身内が誰もいないのです。一人ぼっちになってしまいました。そこら中で子供が泣いていました。後で聞いた事ですが、重油で目や鼻をやられて息を引きとった子供が沢山いたそうです。
私は顔についた重油を剝ぎとりながら、泣きたい気持ちを抑えて、ぷかぷか浮いていました。そこに大波が来て空の醤油樽が飛び出してきました。醤油樽を引き寄せて、絶対に離すものかと摑んでいると、周りに死体が寄ってくるのです。「子供の頭が割れた」と泣いているお母さんがいました。目の前に丸い物がたくさん浮いているものですから、驚いて捕まえたらカボチャでした。食糧用に積まれていたのでしょう。子供達の死体もカボチャもゴチャゴチャになって浮いて、波で寄ってくるんです。
横では6年ぐらいの男の子が「お母ちゃん、お母ちゃん」と泣きながら、母親の死体を引っ張っています。遠くの子供達の声が静かになったと思ったら皆、死体になって浮いています。子供を沢山、乗せたボートが、沈む対馬丸から押し出されるのが見えました。私もあれに乗っていれば生きられただろうにと思い悲しくなりましたが「来年の3月にきっと会えるから、辛抱するのだよ」と言った母の言葉を信じ、お母さんに会うまで死なないと思い直しました。さっきのボートが転覆して、子供達が海に散って流されていきました。対馬丸のマストを、子供を背負ったお母さん達が「兵隊さん助けて、兵隊さん助けて」と大声で叫びながらよじ登っていくのが見えましたが、船がグラグラグラっと揺れてお母さんと子供達は海に落ちて流されていきました。傾いて燃えている対馬丸の上を子供達が「怖いよ!」「怖い! 怖い!」と叫びながら逃げ惑っていました。
大人が子供達を摑んで海に投げ入れている姿も見えました。
どうやって生き延びようかと思っていると、大波がぶつかってきて、女の子が私の胸にバタッと当たりました。びっくりして捕まえたら、この女の子が生きていて、なんと従妹の時子でした。「時子じゃないの!」と言うと、私の事が解った途端、時子が泣くのです。「怖いよ、怖いよ。どうしたらいいの、お母さん、お母さん」と大きな声で。同じ4年生でも、私と違って時子は、大人しくて、目もぱっちりしていて、優しくて泣き虫でもあったの。いつも私の後についてくるような時子でしたから「泣くの、よしなさい。泣いたら物が見えないでしょ」と言って、醤油樽に向かい合って摑まっていました。励まし合って浮いてはいるけど、どこへ逃げれば生きられるのか、私達にも解らない。ただ浮いているだけ。
すると不意打ちに大波がきて、時子が醤油樽から手を離したのです。
そして海に重なっている雑物や死体なんかの中に、ガラガラっと時子が引きずられていきました。また波に戻されてくるのじゃないかと思って待ちながら「時子! 時子!」と暗い夜の海の上で一生懸命捜しました。
時子は白い半袖のブラウスを着ていましたから、白い物が見える度に時子じゃないかと捜しましたが、とうとう出てきませんでした。
自分が精一杯でしたから、醤油樽を持ったまま後退りをして私は時子を捜すのを諦めました。やがて50メートル沖の方から、人がざわめくのが聞こえました。あっちに生きている人がいる。あの人達と一緒にいれば生き残れるかもしれないと思った私は、醤油樽を捨て、重なっている死体や物をかき分け、声がする方へと泳ぎ始めました。しかし大波には勝てず、ずるずると後ろに引きずられていきます。波に呑まれて溺れて死ぬのかなと不安がよぎったとき、安波川で男の子と泳ぎを競っていた私が考えた泳法を思い出しました。両足を横に投げてパタパタさせながら、両手は頭の方でかいて、波がきたときに進むのです。それを繰り返して、ようやく人が集まっているところに辿り着きました。嬉しかったですね、やっと着いたのですよ。2メートルほどの竹を20本ぐらい編んだ筏でした。
ところが何十人かでこの筏を奪い合っているのです。強い者が弱い者を引きずり落とす。落とされた者がまた這い上がる。這い上がったら、また引きずり落とす。筏の上では死闘が繰り広げられていました。
大波の中を泳いできて筏に片手をついて、息をふぅーっと吐いたら、流されていく男の人が私の両足を摑んで引っ張るのです。そうすれば自分が筏に近づけると思ったのでしょう。筏から手が離れて、水の中に引きずり込まれたとき、私は死ぬのだと思いました。でもお母さんに会いたい気持ちが強かったから我に返って、引っ張っている男の人を両足で蹴って蹴って、蹴飛ばしたのです。男の人は手を離して流されていきました。
私は泳いでいって、筏に片手をつきました。這いあがろうとしても、筏に乗っている人が邪魔をして上げてくれない。大勢の人が流されていくのが見えました。大人相手じゃどうにもならないし、いよいよ溺れて死ぬのかなと思ったけれど、やっぱり死にたくないのです。よーし! と思いました。沢山の人が乗っているので筏は水に浸かっています。筏の上の人達から見えないところで潜って、息が苦しくなったら頭を出す、それを繰り返しながら筏の真ん中に滑り込めば、生き残る事ができるかもしれない。
ずるずると引きずられていった人の空きに滑り込む事ができました。
竹を編んだ縄目に10本の指を突っ込んで離さない。体を小さくして俯いたまま水の中に頭を突っ込み、苦しくなると顔を上げて「ふぅー」と息をする。その間も筏の上の闘いは続いていて、落とされた人がどんどん流されていきました。暫くして筏の上は落ち着いて、夜が明けました。
私は筏の真ん中に座り、黙って俯いていました。8月の太陽が照りつけて暑かった。筏の上には10人いて、お母さんの肩に抱かれた、歯が2本ぐらい生えかけた男の子が一人、後の9人は皆、女。7歳の女の子がいて9歳の私、後は、おばあさんかおばさん、お姉さんでした。遠くに沢山の漂流者が集まって浮いているのが見えました。大きな渦が巻いていて、渦のこっちと向こうに漂流者が隔てられているのです。向こうに家族や時子がいるかもしれないと思いましたが、渦があるから行けません。
そのとき恐ろしいものを見ました。サメです。サメが暴れて漂流する人達を水の中に引きずり込んでいきました。昼頃、飛行機が飛んできました。敵機が機銃で殺しにきたのかと、びくびくしながら見ていると、主翼に日の丸のマークありました。皆、大喜びで「友軍機だぁー!」と声をあげ、一生懸命に手を振りました。でも飛行機は南へ飛んでから戻ってきて、また飛んでいってしまいました。後で解った事ですが、この飛行機は長崎の大村基地所属で、特攻隊の訓練の帰りでした。疎開船の安否を気遣って飛んでいたところ、漂流者が見えたので、救助船をよこすから頑張れと書いた紙を通信筒に入れて投下し、次に漁船を見つけて、遭難者がいるから助けてやってくれと書いた紙を通信筒で落とし、漁船が救助に向かって沢山の人を救いました。搭乗員は、救助を最後まで見届けたかったけど、飛行機の燃料が切れそうになったので、後ろ髪を引かれる思いで大村基地に戻ったそうです。そのときの搭乗員の方には戦後にお会いする事ができました。夢のようでしたよ。2日、3日、4日と漂流する内に、筏の上の人が10人、9人、8人、7人と減っていきました。睡魔に襲われて海に落ち、這いあがる力もなく流されてしまう。皆、眠いのを我慢するのに精一杯ですから、誰かが流されても解らないのです。3日経った頃、海に何かが浮いているのを見つけたおばちゃんたちが「お嬢ちゃん、食べ物かもしれないからとってきて」と言うのです。私が元気だったから言ったのでしょう。サメも見ましたし、少し怖かったけど飛び込んで、20メートルほど泳いで、浮かんでいた竹筒を脇に抱えて筏に戻りました。
竹筒の栓を抜くと、中には小豆御飯がいっぱい詰まっていました。
嬉しかったですよ。皆で分けて食べるのですが、私には自分が多く食べたいという悪い気持ちがありました。すると一人のおばあちゃんが「お嬢ちゃん、私の分はいいから貴方が食べなさい」と言いました。「おばあちゃん、本当にいいのですか?」と聞くと「うん、貴方が食べなさい」沖縄の方言で「やーが、かめー」って言うのです。「ありがとうね、おばあちゃん」と言って、おばちゃんの分も頂きました。次の日、おばあちゃんが目を見開いたまま倒れて海に落ちたのです。「なんでおばあちゃん倒れるの?」と言って起こしたら、また海に落ちる。また引っ張りあげてもまた落ちる。もう私も体力がなくなってきていました。ブラウスは破れ、日照りで皮膚がただれて、髪は抜け、もうふらふらでしたから、私一人では、それ以上おばあちゃんを引っ張り上げる事ができなかった。
すると後ろのおばちゃん達が「おばあちゃんは死んでいるのだよ。だからもう海に下ろしなさい」と言うのですよ。私はびっくりして「生きていますよ。ほら、目を開いています」と言ったけど、死んでいるって言うのです。よく見ると目玉は動かないし、波がかかっても瞬きもしない。私は子供でしたから、人は目を閉じて死ぬものだと思っていました。
おばあちゃんが目を見開いたまま死んだ事にびっくりして、摑んだ手を離すかどうか迷ったのだけど、離さないとどうにもならないでしょ。
体力がもたないのだから。離して「おばあちゃん、ごめんなさい」と手を合わせたら、おばあちゃんは目を開いたまま、きれいな水の中にぷるぷるぷると沈んで、また、ぷるぷるぷると浮かんできて、大波に揺られて遠くへ遠くへと流れていきました。私は手を合わせておばあちゃんを見送りました。そのうち私のお腹がグルグル鳴って、うんちがしたくなりました。据えたご飯を食べたし、水に浸かったままでしたから。筏の端に行って、モンペの紐を解いてうんちをしたら、それをめがけて魚がいっぱいたかってきたのです。その魚を獲って食べればいい栄養になるけど、皆ふらふらで獲れる人がいません。いつも男の子と一緒に釣りをしていましたから、魚を摑むのは怖くなかったし、私なら獲れると思いました。
すると丁度トビウオが飛んできて、私の目の前に落ちたのです。
直ぐに捕まえて頭を摑んで絞めました。早く食べたいけど、うんちをしたお尻の始末をせんといかんから「後で一緒に食べましょう」と言って、7歳の女の子とお母さんの親子にトビウオを預けたのです。波に揺られてずっこけながらお尻の始末をしてモンペの紐を締めて「さぁ、食べましょうか」と言ったら魚がないのです。その親子が全部食べたのです。もう悔しいですよ。空を眺めて「お母さん、私の魚がない。私が獲った魚がない」と言って泣きました。「お母さん今、私がどんな思いで海の上を流れているか解らんでしょう」と、涙をぽろぽろ流して。家に残してきた弟と妹の名前を呼んで「あんたたち、美味しい夕飯食べて、今頃、温かいお布団に寝ているのでしょう」と言って、いつまでも泣いていましたよ。
夜が明けました。お母さんが男の子におっぱいを吸わせていましたが、栄養を摂ってないからお乳が出ないのです。出ないから男の子が乳首を噛んで、そこから血が出て、お母さんが「痛い、痛い」と言っています。
それを私は横目で見ていました。その子も、とうとう飢えと寒さで亡くなって、お母さんは死体を抱いて泣いていましたが、夜が明けたら腕の中にいたはずの死体がありません。睡魔は襲ってくるし波はどんどん被りますから、流してしまったのでしょう。とうとう筏は5人だけになりました。私は筏の前に座らせられていました。大人達は雲を島と見誤って「お嬢ちゃん。あれ、島だから、あっち向けて漕げ」と言うのです。そう言われても波が強くて私の力ではどうにもならないし、流されるままにしていました。「島じゃないですよ、雲ですよ」と言っても「いや、島だ」と言って聞かないのです。そうして流されていく内に、あの恐ろしいサメがやってきました。怖くて、あのときは覚悟しましたね。目を瞑って両手を合わせて「天の神様、海の神様」と祈りました。この手、この足がサメの餌食になるのかと思ったら悲しくて、さすりながら祈りました。
今、来るか、今、来るかとびくびくしたけど、来ないので目を開けると、サメの群は消え、それっきり現れませんでした。
6日目の夜中、耳慣れた音が聞こえました。私の家は太平洋に流れる安波川の傍にあって、母は豆腐をつくっていました。豆腐を固めるにがりに海水を使っていました。小学2年生のころからバケツを両手に持って、海水を汲んでくるのが私の仕事でした。太平洋を前に浜辺に座り、ひとりで歌を唄いながら波が打ちよせる音を聞いたものです。ズラズラズラ、ドドドドドド、ザラザラザラという音が耳に残っていました。暗い夜の中で、懐かしい音が聞こえた気がしました。あの音は島が近づいたから聞こえるんじゃないか。そう思っていると、筏がどんどん上げ潮に乗っていきます。そして、とうとう目の前に島が突っ立って─。嬉しかったですね、あのときはもう。生きたぞ! 助かるのだ、と実感しました。
筏はガラガラガラガラと浜辺にぶち当たって止まりました。ところが筏から降りようとすると足がふらついて立てません。ずっと波に揺られていましたから、やっと立っても島が揺れて歩けないのです。四つん這いになっていこうとしたら、7歳の女の子のお母さんが、黙ったまま私の背中にその子を乗せました。私は女の子をおぶったまま這っていって、安全なところに下ろしました。そして皆で夜明けを待ちました。
5人が上陸したのは奄美大島の西0.4キロに位置する無人島、枝手久島だった。力尽きて倒れた大人たちと7歳の女の子を残し、9歳の平良さんは水を求めて彷徨った。雑草を口に押し込んで、その汁で喉を潤し、谷間に行けば水が湧く場所がある事を経験上知っていた平良さんは、誰もいない島を低い方へと歩いていき、一人黙々と地面を掘った。そして湧いてきた水を溜め、皆に分け与えた。しかし、そのとき既に7歳の女の子は息を引き取っていた。その後、平良さんたちは漁船に助けられ、奄美大島の宇検村の診療所に収容された。対馬丸事件の事は箝口令が敷かれ、情報拡散を防ぐため、奄美大島に流れ着いた生存者達は、その後、島の最南端に位置する古仁屋に集められた。そこで平良さんは故郷、安波の隣の集落、安田出身の人の家に引き取られる。平良さんの身内は、平良さんと三高女の姉、兄の許嫁が生き残り、祖母と6年生の兄、従妹の時子さんが亡くなった。平良さんが安波に帰ったのは米軍が沖縄に上陸する約1カ月前、1945年の2月の終わりだった。遭難から半年が経過していた。 私が元気で帰ると、母は「啓子が帰ってきた!」と大喜びでした。でも時子の家はお隣で、時子は私の従妹でしょ。時子のお母さんに会うのはとても苦しかったですよ。
時子のお母さんに言われました。「啓子、あなたは帰ってきたね。生きて帰ってきたの? うちの時子は太平洋に置いてきたの?」。返す言葉なんてないですよ。泣いたまま家に帰って、隠れていました。そう言いたくなる気持ちもわかります。今でも心にグサっと刺さっています。
夢に出ますし一生続くでしょう。戦争は、罪もない人達を親も子もばらばらにして、そんな思いにさせるのです。戦争の体験を語れと、あちこちから呼ばれます。そのために52歳で自動車の運転免許を取りました。
二度と戦争をやってはいけないと言い続けないといけないから80歳を過ぎても、こうして動いていますけど、もし戦争がなければ、もう少しゆったりとした優しい御婆ちゃんでいたかもしれないですね。戦争の事を思うと怒りが出て、人間性が変わってきているのですよ。
国会の人達を見るにつけ、新聞やテレビを見るにつけ、平常心ではいられないのです。こんな世の中に生きたくない。そう思っています。
<その血百里の間に連らなれり、我、怒りて視る、何の惨虐ぞ>
*関東大震災で、多くの在日朝鮮人が、流言飛語により日本人自警団等に大虐殺(約6千人と言われている)されたのは、あまりにも有名な話。
本稿は、その迫害虐殺を目の当たりにした「日本近代詩の父」故-萩原朔太郎氏の体験を題材にした牧子吉丸の随想禄である。
なお、この「関東大震災:在日朝鮮人虐殺事件」の中でも、その虐殺から逃げ惑う在日朝鮮人を助けた「横浜-鶴見警察署長-救済の出来事」がある。これは各読者で調べて頂ければありがたい。(文責:民守 正義)
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「われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」
「朝鮮人あまた殺されたり」これは「近日所感」と題された萩原朔太郎の三行詩で、関東大震災のあった翌年1924年の1月に雑誌「現代」に発表された。朔太郎は郷里前橋から震災の被害に遭った親戚を見舞うために汽車と荷車を乗り継いで東京に向かったが、大宮からは歩いたという。おそらくは、そのときに目撃した惨状を詠んだのであろう。文芸評論家の卞宰洙(ピョン・ジェス)さんによると「朔太郎の怒りは、無抵抗の朝鮮人を普通の民間人と軍警が一緒になって虐殺した事に、日本人の自分が許せなかった事に起因している」という。また「惨虐」という語にも注目し、これは「残虐」の当て字でもなく誤字でもなく、その惨状を現すに相応しい造語であったと説明されている。関東大震災の朝鮮人虐殺に逸早く反応し、その怒りを噴出させて詩に読んだ詩人は、朔太郎のみであり「月に吠える」で口語自由詩を完成させた近代詩の巨匠の一面は長く記憶に留めておいてよい、という卞(ピョン)さんの指摘は重い。君達を殺したのは野次馬だというのか?野次馬に竹槍を持たせ、鳶口を握らせ、日本刀を振るわせたのは誰であったか?僕はそれを知っている。
「ザブトン」という日本語を「サフトン」としか発音できなかったがために勅語を読まされて、それを読めなかったがために、ただそれだけのために無惨に殺された朝鮮の仲間達よ。この詩は戦後に書かれたプロレタリア詩人壺井繁治の「十五円五十銭」の終章の一節である。
震災時に日本兵が道行く人々誰彼なしに言わせて「チュウコエンコチッセンと発音したならば、彼はその場からすぐ引きたてられた」という恐るべき光景を目撃して書いた詩である。大震災から90年を経た日本の大都市では、竹槍のように鋭い狂音を発するハンドマイクを持ち、鳶口のように危険なプラカードを握りしめ、日本刀のように血生臭い言葉の暴力を振り回している。「殺せ!殺せ!」と。
21世紀の今日、世界中のどんな国でも許されていない人種差別と殺人教唆が渦まく文明国(!?)で、各国の友情と協栄の祭典オリンピックが開かれるとは。何というブラック大国ジャパンだろうか。 しかし信じよう。今はデモの興奮と熱狂の中で無自覚に行動している若者から、必ず反レイシズムの先頭に立つ人間が出てくる事を。いや実際、そういう青年はもう出て来ているのだ。彼ら自身も貧困や格差・差別に囲まれている事を忘れず、彼らに届く言葉を詩人のように磨かねばならない。
青年達に凶暴な言葉の暴力を吐かせ、憎しみを募らせるように唆し、操り、使嗾するものの正体こそ暴きだし、糾弾していく事が大事だ。朝鮮問題は日本人のアキレス腱であり、リトマス紙である。神功皇后伝説以来の朝鮮蔑視と侵略思想は深く日本人の血として脈々として受け継がれ、今や排外主義者のヘイトスピーチとしてどす黒く吐き出されている。
自身の中にもある差別意識を決して忘れず、それを克服するためにこそ、ヘイトスピーチと闘わねばならない。冒頭の朔太郎の三行詩を改めて心に刻みつけたい。なお、卞宰洙(ピョン・ジェス)さんの朝鮮と日本の詩人について書かれた評論集が近々に発刊予定とのこと、私達はそこから多くのものを学ぶだろう。
<「戦争で父が人を殺した」心の疑問反戦に結実:児童文学者が思い小説化>
「父さんは戦争中に人を殺した」。児童文学作家の中村真里子さんは、子供の頃に元軍人の父(故人)から聞いた言葉が、ずっと心に引っ掛かっていた。気持ちを整理しようと、自身を投影した主人公の小説「金色の流れの中で」を書き上げ、六月に出版した。戦争関連法が施行され、自衛隊が海外での活動範囲を広げた今「普通の人が殺し、殺されるのが戦争。
そこに繋がるような動きには絶対に反対しなければ」。戦争法に反対する19日の国会前デモに足を運んだ。小学生の頃、食卓で父から戦時中の思い出を何度か聞いた。1920年生まれの父は海軍に所属し、中国大陸や南方に出征した。揚子江の広さや、現地の子供との交流の様子等を話す中、変わらぬ淡々とした口調で、中国人の首を斬った経験を語った。
子供が好きで中村さんを可愛がってくれる優しい父と、人を殺した父。
ギャップに戸惑った。母から「戦争だったのだから仕方ない」と言われ、それ以上詳しく聞く事はなかった。大人になり記憶に残る父の話の断片から推測すると、殺した中国人は民間人か、民間人を装ったスパイだったのかもしれないが、事実は今も分からない。32歳のとき長女が生まれた。孫を抱き上げる父を見て「この手で人を殺したのだ」との思いが一瞬、胸をよぎった。幼い頃に聞いた事実と向き合わなければと感じていたが、二人の娘の子育てや創作活動に追われる中、父は94年に病死。
2003年のイラク戦争時に反戦活動に加わっても、心のもやもやは晴れなかった。子育てを終えた13年、日本児童文学者協会が「新しい長編戦争児童文学」を公募していたのを機に「自分のためにきちんと整理しよう」と、原稿用紙183枚の長編を一気に書き上げた。応募作は選考を通過し、出版が決まった。作品の主な時代設定は、中村さんが父から戦争体験を聞いた1964年。小学生の主人公木綿子が、日本に「防衛軍」が存在する2030年からタイムスリップした青年と出会い、自分の考えを持つ大切さや、未来への責任を自覚する。父から「戦争で人を殺した」と聞かされた木綿子は「それは変えられない」と受け入れつつ、平和への思いを強めていく。
中村さんは、戦争法で自衛隊が他国の国連平和維持活動(PKO)要員や国連職員等を助ける「駆け付け警護」が可能になった事に「人助けを名目に武器の使用を容認させようとしている」と危機感を強める。
国際貢献の必要性を声高に唱える主張には「戦争なのだから仕方ない」という母の言葉が重なる。「父を責めるつもりはない」という。「父のような普通の人が人を殺すのが戦争だ。小説が、大人も子供も周りに流されず、想像力を働かせるきっかけになればいい」(東京新聞)
《10・28自衛隊は南スーダンに行くな!
「戦争法」違憲訴訟二次提訴緊急集会》
■10月28日(金)PM6時開場―6時半開始
:エルおおさか・南館1023号室:資料代:800円
<お話し:泥憲和さん(元自衛官)>
:主催「戦争法」違憲訴訟の会
《中国の行動派フェミニストの運動【日本女性学研究会10月例会】》
<テーマ:中国の行動派フェミニストの運動―2012年~2016年―>
・日時:2016年10月29日(土)14:00~16:30
・場所:ドーンセンター(大阪)5階 セミナー室2
・報告: 遠山日出也(立命館大学客員研究員)
・参加費:800円 (日本女性学研究会会員は無料)
申込みご不要です。直接会場においでください。
【ご案内】新着!
機動隊、抗議の市民をロープで縛る:米軍ヘリパッド建設
https://youtu.be/Qos2JZn369w
《本ブログ「リベラル広場」管理者:民守/沖縄-高江に行く!》
私事、管理者は中学生時代から今日に至るまで「人権運動⇒ベトナム反戦運動・大学内運動⇒労働組合運動⇒市民型(人権)運動」等を暦年では一年と欠かす事なく闘ってきた。今、長年の運動経験を振り返って見ると、反省総括する方が圧倒的に多く、決して誇らしいものではない。
特に事「人権問題」に拘って言うと、一方で「反差別」を唱えながら、一方で「差別or差別を助長する立場」に立っていた事に気づかされ、猛烈反省した事もある。ただ「被差別」の立場でも、その事に傲慢になってか、 「他者への差別」or「他者への差別冤罪」をかけること(者)も現実問題として有り得る事も事実である。つまり結論的に言えば「社会的差別を受ける者」=「完璧無欠な人権卓越者」ではなく、「社会的差別を受ける者」であっても、意識・無意識を問わず、「差別する側or助長する側」に立ちうることを自戒すべきだと思う。特に管理者は「車椅子障害者+神経障害」であるが、健常者の時も「障害者解放運動」に関わったが、いざ「当事者」になってみると「被差別当事者」との認識と「自己障害に驕らず、それどころか負けずに『社会にも感謝!』」の気持ちのバランスが本当に重要だと思っている。そして、だからこそ「自己差別意識を払拭するには①主観的理解や感情をできるだけ排除し、現実・事実と客観的かつ科学的理解に努めること(特にLGBT等)②『それが、もし自己体験だったら』と追想体験豊かに『対面型思考』から『並行型思考』に不断に努力すること、③-②と被さるが、『直接のコミュニケーションも図らずに予断と偏見は差別の重大エッセンス』であり、直接にて寄り添う気持ちが何よりも重要」との認識で実践化を図る事である。そして、これらの努力は「エンドレスの取り組み」である事はいうまでもない。
大分「沖縄-高江訪問」と離れた感があるが、上記の「取り組み」の一環として「沖縄-高江の心に触れ合い、寄り添い、向き合わないと沖縄問題を理解した事にならない」と思って「沖縄-高江訪問」を決意した次第です。日程は私の身体障害もあり、明日10月4日(火)から6日(木)までの短期間であるが、その間、原稿毎日更新ができない。
そこで《不戦シリーズ!戦争体験談》を長文3本、用意したので、それを、ごゆっくり読んで頂く事で御勘弁願いたい。
*なお沖縄台風接近のため、急遽中止の場合は、通常通り、原稿毎日更新を行います。
《OKINAWA 2015死線を泳いだ少女:平良啓子さんの証言(完全版)》
*対馬丸事件-昭和19年7月7日、軍の要請で政府は奄美大島・徳之島・沖縄諸島の老幼婦女子を対象に、日本本土へ8万人・台湾に2万人の計10万人の疎開命令を出した。しかし県民には沖縄が本当に戦場になるかどうかの判断がつかず、未知の土地への移動に難色を示す者もいて疎開希望者はなかなか集まらなかった。児童の親等から疎開輸送に軍艦の投入を要請する声もあったが、日本海軍には既にこれに充てる余裕は無かった。
しかし足手まといになる民間人を県外へ移動させる事が急務だった為、最終的には軍が疎開割当者を半ば強制的に確保する命令を出し、昭和19年8月21日、対馬丸は疎開学童・引率教員・一般疎開者・船員・砲兵隊員1,788名を乗せ、疎開者を乗せた和浦丸・暁空丸と護衛艦の宇治・蓮を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し出航した。翌22日の夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィンの魚雷攻撃を受け、殆どの乗船者は船倉に取り残され、海に飛び込んだ者も台風の高波にのまれた。生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、軍の連絡を受けた漁船に救出された。最終的に乗員・乗客合わせて1,476名が死亡した。この事件は、今上天皇も当時の児童達が、ご自身の同様世代である事もあって、この事件には特段の思いがあって「私の平和を念願する原点の一つである」と述べられている。本稿は、その平和への念願を共有しながら実体験された「平良啓子さんの証言」をご一読頂きたい。なお御一読にあたっては、ハンカチ・タオル等を用意される事を、お勧めする。(文責:民守 正義)
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1944年8月21日、8百余名の学童を含む約千八百名を乗せ、長崎へ向けて那覇港を出航した疎開船対馬丸は、翌22日夜、鹿児島県悪石島付近で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により撃沈。およそ千五百名が犠牲となった。生き残った学童は僅か59名で、国民学校4年生だった平良啓子さん(当時9歳)はその一人だ。戦後、平良さんは19歳で臨時教員として教壇に立ち、通信教育で資格を取った後、39年間の長きにわたり、教え子達に平和の大切さを訴え続けた。現在80歳の平良さんは対馬丸事件の証言活動に奔走する一方で、毎週月曜日、オスプレイも離発着可能なヘリパッドを建設中の国頭郡東村高江に通い、座り込みによる抵抗を続けている。
しかし現政権は憲法違反との強い批判を受けながらも戦争法案を成立させ、更に沖縄県との「対話」を打ち切り辺野古に新基地建設を強行しようとしている。沖縄戦から70年、対馬丸事件から71年─歴史を繰り返さないため、平良啓子さんの証言をここに掲載する。
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前提の話をするならば1944年7月7日にサイパンが玉砕し、日本の戦力が弱まって、米軍が本土に向かって北上してくるのを何としても沖縄で食いとめたい。沖縄に沢山の兵力を送らないと戦えない。ところが沖縄は裕福な島ではないし、食糧難とかいろいろあるので、先ずは戦力にならない女子供を疎開させた方がいいのじゃないか。女子供10万人の内8万人を本土へ、2万人を台湾へ送り、10万人の兵隊を沖縄に呼び込もう─そういう計画の下、私達は疎開させられる事になったようです。そんな事を私達子供は知りませんから本土へ行ける、雪が見られる、汽車に乗れるとか、そういう憧れもあって、はしゃいでいました。母親は反対していましたが、私の父親と長兄が東京の会社に出稼ぎに行っていましたので、行けば二人に会えると説得されました。父は私が4歳のときに家を出ていますから、殆ど面影がないのです。なので、お父さんに会いたいという思いがありました。私の家族は6人で母はとても悩んでいました。67歳の祖母は猛反対でしたね。お年寄りは生まれ育った村を離れたくないものです。
6年生の兄はとても行きたがって「行くんだ、行くんだ」と皆に言い、自分で申し込みをしてしまいました。三高女(沖縄県立第三高等女学校)に行っていた17歳の姉が、8月ですから夏休みで帰省していました。
東京にいる兄の婚約者もいて、ついでだから一緒に疎開船に乗っていって、そのまま向こうで結婚する話になっていました。祖母と三高女の姉、6年生の兄、私、そして兄の許嫁の新しいお姉さんも加わり、うちからは5人が疎開する事になったのです。後は父の弟がお隣に住んでいまして、そこの子が、私の従妹にあたる訳ですが、時子といいました。
母は私に「時子に一緒に行こうなんて言っちゃいけないよ。家族が別なのだからね」と釘を刺していました。私が疎開する事を知ったら、時子が一緒に行きたいと言いだすのは解りきっていました。私は「一緒に行かんね」と言わなかったですよ。でも噂で聞きつけて「啓子もおばあちゃんも行くのでしょ。私も行かせて」と、時子は両親に駄々こねて泣き喚いたそうです。時子の両親は猛反対で、後に防衛隊に入るお父さんも家にいましたから「啓子とお前は家族じゃないから行くな」と止めたらしいのですが、時子が聞かないので「勝手にすればいい」という事になったそうです。村の人口は6百人位だったそうですが、その内40人が出ていきました。田舎の山の奥からですよ。安全な場所かもしれないのに、どうして本土に疎開するのか、不安を感じた人もいたようです。40人は夕方6時過ぎに村を出て、松明をかざしながら細い山道を西に向かって歩きました。今の奥間ビーチ(国頭村鏡地の海水浴場)の方の港が船着場で、そこからポンポン船で那覇に行きました。時子は、ニコニコ笑って付いてきました。
うちは母と1年生の妹と4歳の弟の3人が残りました。私達が山道を歩き始めるときに母が「来年の3月にはきっと会えるから、辛抱するのだよ!」と大きな声で言い「さようなら」と言って別れたのを今でも覚えています。あんなに行きたがっていた6年生の兄は「僕、お母さんにもう一度会いたい」と言って、山道の途中で大人しくなってしまいました。鏡地の浜から艀に乗るとき、兄は山の方に向かって「僕、お母さんにもう一遍、会いたい」って言うのです。「男の人が何度もお母さんに会いたいって、あんたなんね?」と言って私は笑ったのですけど。そうして那覇に行き、8月21日には対馬丸に乗る事になったのです。那覇市は国民学校3年生以上の生徒を対象に募集したそうです。親達は皆、心配ですよね。
行くも地獄、残るも地獄でしたから。先生達は、あちこち回って疎開する子供達を集めたようです。那覇市内の国民学校生をかき集めた約8百人、一般疎開者約8百人、その他、与那原とか南風原の人達と私達を合わせて、一説によると1661人が対馬丸に乗りました。8月21日午後6時35分、対馬丸を含む5隻が那覇港を出ました。対馬丸と暁空丸、和浦丸が疎開船で、蓮(駆逐艦)と宇治(砲艦)が護衛艦でした。対馬丸だけでも疎開者と船員や兵隊を合わせると千八百人位が乗っていたそうです。
疎開船3隻を合わせると何千人になりますね。対馬丸は客船ではなく貨物船でしたから、船倉の棚みたいなところに押し込められて、ひしめき合って一晩過ごしました。那覇市内の学童疎開者には引率の先生と世話をするおばさんが1人ずつ付いていたそうです。私達は一般疎開者ですから、赤ちゃんを連れている人もいれば、おじいさん、おばあさんもいました。そうして学童疎開者と一般疎開者が一緒になって、対馬丸に乗り込んでいた訳です。翌22日の夕方、8月ですから船倉は蒸し暑くて、うちの祖母と親戚のおばあちゃんと私と時子の4人は、涼みを求めて甲板に出ていました。この親戚のおばあちゃんは絶対に行きたくないと言っていたのを村の区長さん達が、息子に会えるんだからと強く説得したのです。おばあちゃんには横浜の大学で教授をしている優秀な一人息子がいましたから。
おばあちゃんは甲板で、ぶつぶつ文句を言っていました。「私ね、生きて帰れんよ。太平洋にこぼされに行くところなのだ」と。怖いこと言わんでよ、と私は思いました。そして日暮れ時、とうとう沖縄の島が見えなくなりました。段々、寂しくなってきて、時子と二人で「来なければよかったね」「お母さんに会いたくなったさ」と小さな声で言葉を交わしました。 寂しい気持ちを振り払うように時子と二人、大きな煙突の周りを走って鬼ごっこをしていると、6年の兄が船底から上がってきて「おーい!皆、集まっているのだよ。早く下りてこい」と大きな声で呼ぶのです。 なんだろうと思いながら、ふと見たら対馬丸以外の4隻の姿が見えません。後で聞いた話ですが、敵の潜水艦らしきものに追跡されているのを察知して4隻は逃げたそうです。対馬丸は大正時代に造られた古い船で速く走れなかったから、うっちゃられたのですよ。それを船員達は知っていたかもしれないけど、私達には解りませんでした。船底に下りると、皆は救命胴衣を着て集まっていました。私達も救命胴衣を身につけると兵隊さんがやってきて「甲板に上がれ!」と言いました。揺られながら縄梯子を駆けあがりました。船首の近くには那覇市内の学童と先生、世話をするおばさんたちが集まって、後ろの方には私達一般疎開者が集まりました。
甲板に上がらないで船倉に残っている人もいるようでした。
甲板で子供達が騒ぐのを先生達が一生懸命鎮めようとしていました。
そこに3人ほどの兵隊が駆けつけて、皆の前で大きな声で言いました。
「今晩は危ない!」と。次に注意事項を4つ。「1つ、お喋りをしてはいけない」「2つ、鼻紙を海に投げてはいけない。サトウキビをかじっている者がいるが、カスを海に投げてはいけない」「3つ、赤ん坊や泣く子供を連れている者、気分の悪い者は船底へ戻ること」「4つ、引率の教員は今晩、寝ずに子供達を見張ること」─兵隊達は、それだけ言って消えました。いろいろ言われて不安になっていると、三高女の姉が、6年生の兄と私と時子の3人を船縁に呼んで言いました。「もしも今晩この船が、アメリカの潜水艦の魚雷を食らったら、飛び込んで100メートル向こうまで泳いで逃げられる?」と。姉は何か知っていたのじゃないですかね。
6年の兄は「たった100メートルだろ。僕、このぐらい簡単」と言いました。私は「飛び込みはできるけど、波の荒い海では泳いだ事ないから怖い」と言いました。時子も同じです。私達は安波川川辺で生まれ育ったので、小さい頃から深い水に飛び込んだり潜ったりして遊んでいました。
ですから4年生までにはだいぶ泳げたのですよ。でも、そのときは台風15号が発生していて波がとても荒かったのです。その後、私達は船倉に戻り、疲れもあって、いつの間にか熟睡してしまいました。
私はおばあちゃん子でしたから、おばあちゃんに抱かれて、グウスカ寝ていた8月22日の夜、事件が起きたのです。記録によると午後10時12分、ボーンと音がして、目が覚めたときには、もう体が水に浮いていました。
波は荒かったです。対馬丸は燃えて、左側の船首近くにいた那覇の学童の子達の大きな声が夜の海に響いていました。「お母ちゃん助けて!」
「兵隊さん助けて!」「先生どこ行ったの!」と。まさに慟哭です。
私は「お姉ちゃん!」「おばあちゃん!」と一生懸命捜しましたが、さっきまで一緒だった身内が誰もいないのです。一人ぼっちになってしまいました。そこら中で子供が泣いていました。後で聞いた事ですが、重油で目や鼻をやられて息を引きとった子供が沢山いたそうです。
私は顔についた重油を剝ぎとりながら、泣きたい気持ちを抑えて、ぷかぷか浮いていました。そこに大波が来て空の醤油樽が飛び出してきました。醤油樽を引き寄せて、絶対に離すものかと摑んでいると、周りに死体が寄ってくるのです。「子供の頭が割れた」と泣いているお母さんがいました。目の前に丸い物がたくさん浮いているものですから、驚いて捕まえたらカボチャでした。食糧用に積まれていたのでしょう。子供達の死体もカボチャもゴチャゴチャになって浮いて、波で寄ってくるんです。
横では6年ぐらいの男の子が「お母ちゃん、お母ちゃん」と泣きながら、母親の死体を引っ張っています。遠くの子供達の声が静かになったと思ったら皆、死体になって浮いています。子供を沢山、乗せたボートが、沈む対馬丸から押し出されるのが見えました。私もあれに乗っていれば生きられただろうにと思い悲しくなりましたが「来年の3月にきっと会えるから、辛抱するのだよ」と言った母の言葉を信じ、お母さんに会うまで死なないと思い直しました。さっきのボートが転覆して、子供達が海に散って流されていきました。対馬丸のマストを、子供を背負ったお母さん達が「兵隊さん助けて、兵隊さん助けて」と大声で叫びながらよじ登っていくのが見えましたが、船がグラグラグラっと揺れてお母さんと子供達は海に落ちて流されていきました。傾いて燃えている対馬丸の上を子供達が「怖いよ!」「怖い! 怖い!」と叫びながら逃げ惑っていました。
大人が子供達を摑んで海に投げ入れている姿も見えました。
どうやって生き延びようかと思っていると、大波がぶつかってきて、女の子が私の胸にバタッと当たりました。びっくりして捕まえたら、この女の子が生きていて、なんと従妹の時子でした。「時子じゃないの!」と言うと、私の事が解った途端、時子が泣くのです。「怖いよ、怖いよ。どうしたらいいの、お母さん、お母さん」と大きな声で。同じ4年生でも、私と違って時子は、大人しくて、目もぱっちりしていて、優しくて泣き虫でもあったの。いつも私の後についてくるような時子でしたから「泣くの、よしなさい。泣いたら物が見えないでしょ」と言って、醤油樽に向かい合って摑まっていました。励まし合って浮いてはいるけど、どこへ逃げれば生きられるのか、私達にも解らない。ただ浮いているだけ。
すると不意打ちに大波がきて、時子が醤油樽から手を離したのです。
そして海に重なっている雑物や死体なんかの中に、ガラガラっと時子が引きずられていきました。また波に戻されてくるのじゃないかと思って待ちながら「時子! 時子!」と暗い夜の海の上で一生懸命捜しました。
時子は白い半袖のブラウスを着ていましたから、白い物が見える度に時子じゃないかと捜しましたが、とうとう出てきませんでした。
自分が精一杯でしたから、醤油樽を持ったまま後退りをして私は時子を捜すのを諦めました。やがて50メートル沖の方から、人がざわめくのが聞こえました。あっちに生きている人がいる。あの人達と一緒にいれば生き残れるかもしれないと思った私は、醤油樽を捨て、重なっている死体や物をかき分け、声がする方へと泳ぎ始めました。しかし大波には勝てず、ずるずると後ろに引きずられていきます。波に呑まれて溺れて死ぬのかなと不安がよぎったとき、安波川で男の子と泳ぎを競っていた私が考えた泳法を思い出しました。両足を横に投げてパタパタさせながら、両手は頭の方でかいて、波がきたときに進むのです。それを繰り返して、ようやく人が集まっているところに辿り着きました。嬉しかったですね、やっと着いたのですよ。2メートルほどの竹を20本ぐらい編んだ筏でした。
ところが何十人かでこの筏を奪い合っているのです。強い者が弱い者を引きずり落とす。落とされた者がまた這い上がる。這い上がったら、また引きずり落とす。筏の上では死闘が繰り広げられていました。
大波の中を泳いできて筏に片手をついて、息をふぅーっと吐いたら、流されていく男の人が私の両足を摑んで引っ張るのです。そうすれば自分が筏に近づけると思ったのでしょう。筏から手が離れて、水の中に引きずり込まれたとき、私は死ぬのだと思いました。でもお母さんに会いたい気持ちが強かったから我に返って、引っ張っている男の人を両足で蹴って蹴って、蹴飛ばしたのです。男の人は手を離して流されていきました。
私は泳いでいって、筏に片手をつきました。這いあがろうとしても、筏に乗っている人が邪魔をして上げてくれない。大勢の人が流されていくのが見えました。大人相手じゃどうにもならないし、いよいよ溺れて死ぬのかなと思ったけれど、やっぱり死にたくないのです。よーし! と思いました。沢山の人が乗っているので筏は水に浸かっています。筏の上の人達から見えないところで潜って、息が苦しくなったら頭を出す、それを繰り返しながら筏の真ん中に滑り込めば、生き残る事ができるかもしれない。
ずるずると引きずられていった人の空きに滑り込む事ができました。
竹を編んだ縄目に10本の指を突っ込んで離さない。体を小さくして俯いたまま水の中に頭を突っ込み、苦しくなると顔を上げて「ふぅー」と息をする。その間も筏の上の闘いは続いていて、落とされた人がどんどん流されていきました。暫くして筏の上は落ち着いて、夜が明けました。
私は筏の真ん中に座り、黙って俯いていました。8月の太陽が照りつけて暑かった。筏の上には10人いて、お母さんの肩に抱かれた、歯が2本ぐらい生えかけた男の子が一人、後の9人は皆、女。7歳の女の子がいて9歳の私、後は、おばあさんかおばさん、お姉さんでした。遠くに沢山の漂流者が集まって浮いているのが見えました。大きな渦が巻いていて、渦のこっちと向こうに漂流者が隔てられているのです。向こうに家族や時子がいるかもしれないと思いましたが、渦があるから行けません。
そのとき恐ろしいものを見ました。サメです。サメが暴れて漂流する人達を水の中に引きずり込んでいきました。昼頃、飛行機が飛んできました。敵機が機銃で殺しにきたのかと、びくびくしながら見ていると、主翼に日の丸のマークありました。皆、大喜びで「友軍機だぁー!」と声をあげ、一生懸命に手を振りました。でも飛行機は南へ飛んでから戻ってきて、また飛んでいってしまいました。後で解った事ですが、この飛行機は長崎の大村基地所属で、特攻隊の訓練の帰りでした。疎開船の安否を気遣って飛んでいたところ、漂流者が見えたので、救助船をよこすから頑張れと書いた紙を通信筒に入れて投下し、次に漁船を見つけて、遭難者がいるから助けてやってくれと書いた紙を通信筒で落とし、漁船が救助に向かって沢山の人を救いました。搭乗員は、救助を最後まで見届けたかったけど、飛行機の燃料が切れそうになったので、後ろ髪を引かれる思いで大村基地に戻ったそうです。そのときの搭乗員の方には戦後にお会いする事ができました。夢のようでしたよ。2日、3日、4日と漂流する内に、筏の上の人が10人、9人、8人、7人と減っていきました。睡魔に襲われて海に落ち、這いあがる力もなく流されてしまう。皆、眠いのを我慢するのに精一杯ですから、誰かが流されても解らないのです。3日経った頃、海に何かが浮いているのを見つけたおばちゃんたちが「お嬢ちゃん、食べ物かもしれないからとってきて」と言うのです。私が元気だったから言ったのでしょう。サメも見ましたし、少し怖かったけど飛び込んで、20メートルほど泳いで、浮かんでいた竹筒を脇に抱えて筏に戻りました。
竹筒の栓を抜くと、中には小豆御飯がいっぱい詰まっていました。
嬉しかったですよ。皆で分けて食べるのですが、私には自分が多く食べたいという悪い気持ちがありました。すると一人のおばあちゃんが「お嬢ちゃん、私の分はいいから貴方が食べなさい」と言いました。「おばあちゃん、本当にいいのですか?」と聞くと「うん、貴方が食べなさい」沖縄の方言で「やーが、かめー」って言うのです。「ありがとうね、おばあちゃん」と言って、おばちゃんの分も頂きました。次の日、おばあちゃんが目を見開いたまま倒れて海に落ちたのです。「なんでおばあちゃん倒れるの?」と言って起こしたら、また海に落ちる。また引っ張りあげてもまた落ちる。もう私も体力がなくなってきていました。ブラウスは破れ、日照りで皮膚がただれて、髪は抜け、もうふらふらでしたから、私一人では、それ以上おばあちゃんを引っ張り上げる事ができなかった。
すると後ろのおばちゃん達が「おばあちゃんは死んでいるのだよ。だからもう海に下ろしなさい」と言うのですよ。私はびっくりして「生きていますよ。ほら、目を開いています」と言ったけど、死んでいるって言うのです。よく見ると目玉は動かないし、波がかかっても瞬きもしない。私は子供でしたから、人は目を閉じて死ぬものだと思っていました。
おばあちゃんが目を見開いたまま死んだ事にびっくりして、摑んだ手を離すかどうか迷ったのだけど、離さないとどうにもならないでしょ。
体力がもたないのだから。離して「おばあちゃん、ごめんなさい」と手を合わせたら、おばあちゃんは目を開いたまま、きれいな水の中にぷるぷるぷると沈んで、また、ぷるぷるぷると浮かんできて、大波に揺られて遠くへ遠くへと流れていきました。私は手を合わせておばあちゃんを見送りました。そのうち私のお腹がグルグル鳴って、うんちがしたくなりました。据えたご飯を食べたし、水に浸かったままでしたから。筏の端に行って、モンペの紐を解いてうんちをしたら、それをめがけて魚がいっぱいたかってきたのです。その魚を獲って食べればいい栄養になるけど、皆ふらふらで獲れる人がいません。いつも男の子と一緒に釣りをしていましたから、魚を摑むのは怖くなかったし、私なら獲れると思いました。
すると丁度トビウオが飛んできて、私の目の前に落ちたのです。
直ぐに捕まえて頭を摑んで絞めました。早く食べたいけど、うんちをしたお尻の始末をせんといかんから「後で一緒に食べましょう」と言って、7歳の女の子とお母さんの親子にトビウオを預けたのです。波に揺られてずっこけながらお尻の始末をしてモンペの紐を締めて「さぁ、食べましょうか」と言ったら魚がないのです。その親子が全部食べたのです。もう悔しいですよ。空を眺めて「お母さん、私の魚がない。私が獲った魚がない」と言って泣きました。「お母さん今、私がどんな思いで海の上を流れているか解らんでしょう」と、涙をぽろぽろ流して。家に残してきた弟と妹の名前を呼んで「あんたたち、美味しい夕飯食べて、今頃、温かいお布団に寝ているのでしょう」と言って、いつまでも泣いていましたよ。
夜が明けました。お母さんが男の子におっぱいを吸わせていましたが、栄養を摂ってないからお乳が出ないのです。出ないから男の子が乳首を噛んで、そこから血が出て、お母さんが「痛い、痛い」と言っています。
それを私は横目で見ていました。その子も、とうとう飢えと寒さで亡くなって、お母さんは死体を抱いて泣いていましたが、夜が明けたら腕の中にいたはずの死体がありません。睡魔は襲ってくるし波はどんどん被りますから、流してしまったのでしょう。とうとう筏は5人だけになりました。私は筏の前に座らせられていました。大人達は雲を島と見誤って「お嬢ちゃん。あれ、島だから、あっち向けて漕げ」と言うのです。そう言われても波が強くて私の力ではどうにもならないし、流されるままにしていました。「島じゃないですよ、雲ですよ」と言っても「いや、島だ」と言って聞かないのです。そうして流されていく内に、あの恐ろしいサメがやってきました。怖くて、あのときは覚悟しましたね。目を瞑って両手を合わせて「天の神様、海の神様」と祈りました。この手、この足がサメの餌食になるのかと思ったら悲しくて、さすりながら祈りました。
今、来るか、今、来るかとびくびくしたけど、来ないので目を開けると、サメの群は消え、それっきり現れませんでした。
6日目の夜中、耳慣れた音が聞こえました。私の家は太平洋に流れる安波川の傍にあって、母は豆腐をつくっていました。豆腐を固めるにがりに海水を使っていました。小学2年生のころからバケツを両手に持って、海水を汲んでくるのが私の仕事でした。太平洋を前に浜辺に座り、ひとりで歌を唄いながら波が打ちよせる音を聞いたものです。ズラズラズラ、ドドドドドド、ザラザラザラという音が耳に残っていました。暗い夜の中で、懐かしい音が聞こえた気がしました。あの音は島が近づいたから聞こえるんじゃないか。そう思っていると、筏がどんどん上げ潮に乗っていきます。そして、とうとう目の前に島が突っ立って─。嬉しかったですね、あのときはもう。生きたぞ! 助かるのだ、と実感しました。
筏はガラガラガラガラと浜辺にぶち当たって止まりました。ところが筏から降りようとすると足がふらついて立てません。ずっと波に揺られていましたから、やっと立っても島が揺れて歩けないのです。四つん這いになっていこうとしたら、7歳の女の子のお母さんが、黙ったまま私の背中にその子を乗せました。私は女の子をおぶったまま這っていって、安全なところに下ろしました。そして皆で夜明けを待ちました。
5人が上陸したのは奄美大島の西0.4キロに位置する無人島、枝手久島だった。力尽きて倒れた大人たちと7歳の女の子を残し、9歳の平良さんは水を求めて彷徨った。雑草を口に押し込んで、その汁で喉を潤し、谷間に行けば水が湧く場所がある事を経験上知っていた平良さんは、誰もいない島を低い方へと歩いていき、一人黙々と地面を掘った。そして湧いてきた水を溜め、皆に分け与えた。しかし、そのとき既に7歳の女の子は息を引き取っていた。その後、平良さんたちは漁船に助けられ、奄美大島の宇検村の診療所に収容された。対馬丸事件の事は箝口令が敷かれ、情報拡散を防ぐため、奄美大島に流れ着いた生存者達は、その後、島の最南端に位置する古仁屋に集められた。そこで平良さんは故郷、安波の隣の集落、安田出身の人の家に引き取られる。平良さんの身内は、平良さんと三高女の姉、兄の許嫁が生き残り、祖母と6年生の兄、従妹の時子さんが亡くなった。平良さんが安波に帰ったのは米軍が沖縄に上陸する約1カ月前、1945年の2月の終わりだった。遭難から半年が経過していた。 私が元気で帰ると、母は「啓子が帰ってきた!」と大喜びでした。でも時子の家はお隣で、時子は私の従妹でしょ。時子のお母さんに会うのはとても苦しかったですよ。
時子のお母さんに言われました。「啓子、あなたは帰ってきたね。生きて帰ってきたの? うちの時子は太平洋に置いてきたの?」。返す言葉なんてないですよ。泣いたまま家に帰って、隠れていました。そう言いたくなる気持ちもわかります。今でも心にグサっと刺さっています。
夢に出ますし一生続くでしょう。戦争は、罪もない人達を親も子もばらばらにして、そんな思いにさせるのです。戦争の体験を語れと、あちこちから呼ばれます。そのために52歳で自動車の運転免許を取りました。
二度と戦争をやってはいけないと言い続けないといけないから80歳を過ぎても、こうして動いていますけど、もし戦争がなければ、もう少しゆったりとした優しい御婆ちゃんでいたかもしれないですね。戦争の事を思うと怒りが出て、人間性が変わってきているのですよ。
国会の人達を見るにつけ、新聞やテレビを見るにつけ、平常心ではいられないのです。こんな世の中に生きたくない。そう思っています。
<その血百里の間に連らなれり、我、怒りて視る、何の惨虐ぞ>
*関東大震災で、多くの在日朝鮮人が、流言飛語により日本人自警団等に大虐殺(約6千人と言われている)されたのは、あまりにも有名な話。
本稿は、その迫害虐殺を目の当たりにした「日本近代詩の父」故-萩原朔太郎氏の体験を題材にした牧子吉丸の随想禄である。
なお、この「関東大震災:在日朝鮮人虐殺事件」の中でも、その虐殺から逃げ惑う在日朝鮮人を助けた「横浜-鶴見警察署長-救済の出来事」がある。これは各読者で調べて頂ければありがたい。(文責:民守 正義)
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「われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」
「朝鮮人あまた殺されたり」これは「近日所感」と題された萩原朔太郎の三行詩で、関東大震災のあった翌年1924年の1月に雑誌「現代」に発表された。朔太郎は郷里前橋から震災の被害に遭った親戚を見舞うために汽車と荷車を乗り継いで東京に向かったが、大宮からは歩いたという。おそらくは、そのときに目撃した惨状を詠んだのであろう。文芸評論家の卞宰洙(ピョン・ジェス)さんによると「朔太郎の怒りは、無抵抗の朝鮮人を普通の民間人と軍警が一緒になって虐殺した事に、日本人の自分が許せなかった事に起因している」という。また「惨虐」という語にも注目し、これは「残虐」の当て字でもなく誤字でもなく、その惨状を現すに相応しい造語であったと説明されている。関東大震災の朝鮮人虐殺に逸早く反応し、その怒りを噴出させて詩に読んだ詩人は、朔太郎のみであり「月に吠える」で口語自由詩を完成させた近代詩の巨匠の一面は長く記憶に留めておいてよい、という卞(ピョン)さんの指摘は重い。君達を殺したのは野次馬だというのか?野次馬に竹槍を持たせ、鳶口を握らせ、日本刀を振るわせたのは誰であったか?僕はそれを知っている。
「ザブトン」という日本語を「サフトン」としか発音できなかったがために勅語を読まされて、それを読めなかったがために、ただそれだけのために無惨に殺された朝鮮の仲間達よ。この詩は戦後に書かれたプロレタリア詩人壺井繁治の「十五円五十銭」の終章の一節である。
震災時に日本兵が道行く人々誰彼なしに言わせて「チュウコエンコチッセンと発音したならば、彼はその場からすぐ引きたてられた」という恐るべき光景を目撃して書いた詩である。大震災から90年を経た日本の大都市では、竹槍のように鋭い狂音を発するハンドマイクを持ち、鳶口のように危険なプラカードを握りしめ、日本刀のように血生臭い言葉の暴力を振り回している。「殺せ!殺せ!」と。
21世紀の今日、世界中のどんな国でも許されていない人種差別と殺人教唆が渦まく文明国(!?)で、各国の友情と協栄の祭典オリンピックが開かれるとは。何というブラック大国ジャパンだろうか。 しかし信じよう。今はデモの興奮と熱狂の中で無自覚に行動している若者から、必ず反レイシズムの先頭に立つ人間が出てくる事を。いや実際、そういう青年はもう出て来ているのだ。彼ら自身も貧困や格差・差別に囲まれている事を忘れず、彼らに届く言葉を詩人のように磨かねばならない。
青年達に凶暴な言葉の暴力を吐かせ、憎しみを募らせるように唆し、操り、使嗾するものの正体こそ暴きだし、糾弾していく事が大事だ。朝鮮問題は日本人のアキレス腱であり、リトマス紙である。神功皇后伝説以来の朝鮮蔑視と侵略思想は深く日本人の血として脈々として受け継がれ、今や排外主義者のヘイトスピーチとしてどす黒く吐き出されている。
自身の中にもある差別意識を決して忘れず、それを克服するためにこそ、ヘイトスピーチと闘わねばならない。冒頭の朔太郎の三行詩を改めて心に刻みつけたい。なお、卞宰洙(ピョン・ジェス)さんの朝鮮と日本の詩人について書かれた評論集が近々に発刊予定とのこと、私達はそこから多くのものを学ぶだろう。
<「戦争で父が人を殺した」心の疑問反戦に結実:児童文学者が思い小説化>
「父さんは戦争中に人を殺した」。児童文学作家の中村真里子さんは、子供の頃に元軍人の父(故人)から聞いた言葉が、ずっと心に引っ掛かっていた。気持ちを整理しようと、自身を投影した主人公の小説「金色の流れの中で」を書き上げ、六月に出版した。戦争関連法が施行され、自衛隊が海外での活動範囲を広げた今「普通の人が殺し、殺されるのが戦争。
そこに繋がるような動きには絶対に反対しなければ」。戦争法に反対する19日の国会前デモに足を運んだ。小学生の頃、食卓で父から戦時中の思い出を何度か聞いた。1920年生まれの父は海軍に所属し、中国大陸や南方に出征した。揚子江の広さや、現地の子供との交流の様子等を話す中、変わらぬ淡々とした口調で、中国人の首を斬った経験を語った。
子供が好きで中村さんを可愛がってくれる優しい父と、人を殺した父。
ギャップに戸惑った。母から「戦争だったのだから仕方ない」と言われ、それ以上詳しく聞く事はなかった。大人になり記憶に残る父の話の断片から推測すると、殺した中国人は民間人か、民間人を装ったスパイだったのかもしれないが、事実は今も分からない。32歳のとき長女が生まれた。孫を抱き上げる父を見て「この手で人を殺したのだ」との思いが一瞬、胸をよぎった。幼い頃に聞いた事実と向き合わなければと感じていたが、二人の娘の子育てや創作活動に追われる中、父は94年に病死。
2003年のイラク戦争時に反戦活動に加わっても、心のもやもやは晴れなかった。子育てを終えた13年、日本児童文学者協会が「新しい長編戦争児童文学」を公募していたのを機に「自分のためにきちんと整理しよう」と、原稿用紙183枚の長編を一気に書き上げた。応募作は選考を通過し、出版が決まった。作品の主な時代設定は、中村さんが父から戦争体験を聞いた1964年。小学生の主人公木綿子が、日本に「防衛軍」が存在する2030年からタイムスリップした青年と出会い、自分の考えを持つ大切さや、未来への責任を自覚する。父から「戦争で人を殺した」と聞かされた木綿子は「それは変えられない」と受け入れつつ、平和への思いを強めていく。
中村さんは、戦争法で自衛隊が他国の国連平和維持活動(PKO)要員や国連職員等を助ける「駆け付け警護」が可能になった事に「人助けを名目に武器の使用を容認させようとしている」と危機感を強める。
国際貢献の必要性を声高に唱える主張には「戦争なのだから仕方ない」という母の言葉が重なる。「父を責めるつもりはない」という。「父のような普通の人が人を殺すのが戦争だ。小説が、大人も子供も周りに流されず、想像力を働かせるきっかけになればいい」(東京新聞)
《10・28自衛隊は南スーダンに行くな!
「戦争法」違憲訴訟二次提訴緊急集会》
■10月28日(金)PM6時開場―6時半開始
:エルおおさか・南館1023号室:資料代:800円
<お話し:泥憲和さん(元自衛官)>
:主催「戦争法」違憲訴訟の会
《中国の行動派フェミニストの運動【日本女性学研究会10月例会】》
<テーマ:中国の行動派フェミニストの運動―2012年~2016年―>
・日時:2016年10月29日(土)14:00~16:30
・場所:ドーンセンター(大阪)5階 セミナー室2
・報告: 遠山日出也(立命館大学客員研究員)
・参加費:800円 (日本女性学研究会会員は無料)
申込みご不要です。直接会場においでください。
【ご案内】新着!
機動隊、抗議の市民をロープで縛る:米軍ヘリパッド建設
https://youtu.be/Qos2JZn369w
(民守 正義)
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