コラムーひとりごと59 「安倍総理の問題点『極右思想と品格』」
コラムーひとりごと59
「安倍総理の問題点『極右思想と品格』」
{総理のタガが緩んだのか「安倍」の自由発言}
<過去の「保守-建前」経緯を知らない「我が軍」発言>
最近「安倍政権-官邸」は、これまで憲法上、保守が「建前」にした経過も無視した「過ぎた自由発言」が目立つ。その内の一つが安倍総理の「我が軍」発言。菅官房長官も同じく「自衛隊も軍隊の一つ」と「保守の憲法上の建前」を自ら一気に崩壊させる擁護発言をする。
少々、余談だが菅官房長官は、政権に都合の悪い記者質問をされると、しっかりした理屈抜きに「問題ない」とだけ連発。それで巷では菅官房長官の事を「問題ない官房長官」とのニックネームが付いている。あまり名誉な「ニックネーム」ではないように思うのだが-。
話は「我が軍」発言に戻るが、これまでの政府の公式見解では、自衛隊を「通常の観念で考えられる軍隊とは異なる(自衛隊は軍隊ではない)」と説いてきており「我が軍」発言は実質上、初の従来見解の変更となる。と言うのは日本国憲法第9条には「戦争の放棄」と「戦力不保持」「交戦権の否認」を定めており、この憲法9条規定と「自衛隊の存在」とを素直に照合すれば、明らかに「自衛隊は憲法違反」ということになる。
従来からの自民党政権も、その「憲法矛盾」を本音では理解しており、そのために持ち出してきた理屈が「憲法は『自衛権の放棄』まで定めたものではなく、その『自衛権の裏付けとなる自衛のための必要最小限度の実力』は憲法第9条第2項にいう『戦力』には該当しない。よって日本を防衛するため必要最小限度の実力(専守防衛)を行使することは当然に認められており、これは交戦権の行使とは別の観念である」「こういった憲法上の制約を課せられている自衛隊は、通常の観念で考えられる軍隊とは異なるもの」「他方、自衛隊は国際法上は軍隊として取り扱われており、自衛官は軍隊の構成員に該当するものとされている」である。かなり無理筋な理屈だが、それでも、かつて佐藤栄作元首相が「自衛隊を軍隊と呼称することはしない」(1967年3月、参院予算委員会)と答弁するなど、憲法上の厳しい制約から「自衛隊は通常の観念の軍隊とは異なる」というのが、従来から踏襲してきた政府見解である。
だから55年体制の頃の与野党の論争は、野党の社会党・共産党の方が「自衛隊は(憲法違反の)軍隊だろう?!」と詰問して、政府・自民党の方が「自衛隊は専守防衛に徹し、軍隊ではありません」と、間違っても政府・自民党は「自衛隊は軍隊」とは認めないタブーのようなものがあった。それが「安倍政権」になって、そうした政府の「公式見解」の経過も知らずに、何らの公式見解変更の手続も無く「集団自衛権」「『いつでも、どこでも『我が軍』派遣法案』等々、堂々と「保守の憲法上の『建前』」を放り出し、憲法9条は全くの無視だ。
ご親族の佐藤元総理やA級戦犯である岸元総理でも「もう少し丁寧にした方が-」とご心配されているのではと思うのだが-。
<日教組の事を知らない「日教組!」発言>
総理大臣として最も品格を疑われたのが「日教組!」野次発言。何と、その野次は総理大臣席から座ったまま横着に、かつ憎たらしい子供の得意満面の顔をして、質問者(民主党玉木議員)が質問中に被せるように行った。野次の真意は、質問者が「西川農水大臣献金問題」を追及中に、安倍総理が「①日教組が国から補助金を受けた。②一般財団法人日本教育会館が民主党の議員に献金をした」(2月20日;自認した公式答弁)と勝手に思い込んだことにある。結局は、事実根拠のない虚偽野次である事を、ようやく認めたが、その時の「アベ」の「謝罪」らしき態度は、まるで「オカンに怒られて憮然としたガキ」のようで、それこそ品格の無い「ボンボン安陪総理」丸出しだった。
それにしても「アベ」も含めて「ゴロツキ右翼」は日教組の事をよく知らずに「日本の教育の荒廃は日教組に有り」と金太郎飴のように言うが、じゃあ「日教組の組織率は知っていますか?」「日教組新聞は読んだことがありますか?」「教育研究集会のレポート集ぐらい読んだことがありますか?」等々と質問しても何も知らない。イメージで思い込んでいるだけである。因みに私は「右翼思想」には賛同しないが右翼思想家と言われる北一輝、大川周明、三島由紀夫等は読んで「右翼パトス」ぐらいはサラッと学んだ。「敵を批判するなら敵を知れ」である。敵を知らずしての批判はボケの誹謗である。
<メディア圧力も「言論の自由?」>
「アベ」は昨年、衆議院解散表明した当日、民放ニュース番組に出演。「街頭インタビューが偏っている」と苛立って文句を垂れた。これを国会で質されると「言論の自由だ」と賜ったと言う。
全く国家権力のトップであるとの自覚の欠片もない。そんなもの一国の総理が一つの番組編成の街頭インタビュー程度に一々、文句を言っておれば、立場の違い・力関係の圧倒的優劣により「番組編成の細部に至るまで介入している」と思われるのは当然の事だ。
普段はプライドが高いくせに、こんなときだけ「言論の自由」等と、一般市民と同程度に目線を下げて反論するのだから、やっぱり「いつもチヤホヤ・ボンボン総理」と言われても仕方ない。それよりも、こんな権力者=安倍総理の「言論の自由」発言を認めると、逆に、その反作用として非権力者=市民の「言論の自由」が萎縮されまいかと危惧する。
<真のメディアの「公平・中立」とは?>
政府与党は、情報の発信力において圧倒的に有利な立場にある。それ故メディアも含めて、ある程度、政府与党に対抗的であることが全体としての公平性につながる。
編集の自律は「見かけ」も重要。安倍総理が番組の編集に文句をつけたり、与党が「公平・中立」を放送局に要求したりすること自体が編集の「見かけ」を壊す。そのリスクの大きさを「アベ」は解っていない。一方、新聞には「不偏不党」という要求は法的にはされていない。その主たる理由は全てのマスメディアに法律でもって倫理を要求すると権力が濫用するリスクがある。だから敢えて人為的に放送と新聞と切り分け、放送には政治的公平性や論点の多角的解明を要請する。一方、新聞には旗幟を鮮明にして自由闊達な言論活動を遂行してもらう。そうして全体として多様性を確保することを狙っている。つまり各々が「正しい」と思うことを発信し議論したり、せめぎあったりする中で公正性や公平性は形成される。でも「アベ」をはじめ「権力志向」の人達は「何故、そんな面倒な事をするのか?効率が悪い」と思っている。加えて「アベ」の言動ベースにはメディアや野党に不当に攻撃されているという「被害者意識」がある。だから「首相であっても『メディアや野党批判に甘んじて受ける』という『建前』に準じても損」という考えが根本にある。
となるとメディアの「真の公平性と公正性・中立性」を普段の努力で守ると言う事は、先ず第一に権力とは適当な距離感と緊張感があって、卑しくも人事・財務・経営・番組編成に関る事等、物理的不当圧力は絶対に触れてはならない「電気コード」ルールを確立すること。
もし不当圧力があればメディアが一致団結して国民に公表して広範な国民判断に委ねる事。そして第二には上記第一のルール土俵の中では言論には言論で主張・反論することだと思う。ただ日本のマスコミの現状を見ると、相当に先の事だろうと思う。
少なくとも「アベ」にメシを食わしてもらうな!
(民守 正義)
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